傷心の女王
「なんで教えてくれなかったの!? バカ!」
いきなり怒鳴った愛莉の肩には、僅かに雪が乗っていた。寒さや怒りで顔を真っ赤にして、甲高い声で叫ぶ。
「小栗くんのこと! チェシャくんたちは知ってたはずだよね!?」
「あら、意外と早かったな」
シロは肩を竦め、チェシャ猫に目配せをした。チェシャはテーブルの端に視線を落とし、愛莉ともシロとも目を合わせない。
拳を握りしめて怒っている愛莉に、シロは半ば宥めるような声色で返した。
「誰から聞いたの?」
「羽鳥さん」
「あー、連絡先知ってたんだ。そっか、初めて会ったときから割とウマが合う感じだったものね」
シロは「盲点だったな」と苦笑いした。羽鳥からすればこれほどの事件が秘匿されているとは考えないだろうし、仮に察しても、面白い方へと物事を転がしたがる羽鳥ならば簡単に口を割る。
愛莉はチェシャ猫とシロのテーブルへと駆け寄って、テーブルの縁に両手を置いた。
「そんなの今どうでもいいの。羽鳥さん、なにか知ってるかなってメッセージ送ってみたら、教えてくれたよ」
愛莉は子犬のように吠えた。
「チェシャくん危ない目に遭ったんだって? 全然知らなかったよ。しかもそれ、あたしのせいじゃん。小栗くんをこのお店に連れてきたのはあたしだもん」
「愛莉ちゃんのせいだなんて……」
シロが否定しかけるも、愛莉は容赦なく言葉を被せる。
「叱ってよ! あたしが悪かったんだから、あたしが悪いってちゃんと叱って!」
シロはなにも言い返せなくなり、口を結んだ。チェシャ猫はちらりと視線を動かし、シロの様子を窺っている。
怒鳴るのをやめた愛莉が、膨れっ面でチェシャ猫とシロの反応を待つ。シロは横目でチェシャ猫を見て、彼がなにも言おうとしないのを確信すると、にこりと柔和な笑顔を浮かべた。
「ごめんね。学校側が隠してるようだったから、教えちゃだめなんだと思ったんだよ」
先程チェシャ猫に言われたとおりの言い訳をする。愛莉はしばし奥歯を噛んでシロを睨んでいたが、やがて悔しげに下を向いた。
「……分かってるよ。シロちゃんはあたしや学校に配慮してくれたんだし、チェシャくんはそれを察して言わなかったんだよね」
それからへろへろと、足の力が抜けていくようにして床に座り込む。
「分かってるんだけどさあ……。あたしはやっぱり、部外者なんだなあって」
その声は、少しだけ震えていた。
「ううん、本当に部外者なんだけどさ。あたしはたまたま偶然チェシャくんの仕事を見ちゃっただけで、狩人の家系でもなんでもない。あたしが首を突っ込みすぎないようにふたりが引き止めてくれるのも、危ないって心配してくれてるんだって分かる。分かってるんだけど」
はあ、と大きめのため息が、愛莉から洩れる。
「分かってるんだけど、寂しいな……」
愛莉はしばらく、蹲っていた。チェシャ猫とシロは互いに顔を見合せ、シロはなにか言おうとしては呑み込み、チェシャ猫は無言でそんな彼を観察している。
数秒間の沈黙ののち、愛莉がすっくと立ち上がった。
「こんなこと言っても仕方ないよね。今更怒ったってあたしが悪いのも部外者なのも、なんにも変わんない」
立ち上がったが、顔は伏せたままだった。そして彼女はテーブルに背を向け、扉の方へ歩いていく。
「帰るね」
そう言って、愛莉が扉を押し開ける。チリンと鳴った鈴の音は、入ってきたときよりずっとか弱い音だった。
閉まった扉を見つめていたシロが、くたっと肩の力を抜く。
「あーあ、怒らせちゃった」
椅子の背もたれに寄りかかり、虚空を見上げる。
「怒るのは分かってたし、遅かれ早かれ気づくのも分かってた。だからこそ、先延ばしにした」
湯のみはとっくに冷めて、もう湯気を上げていない。
「結果として余計に悲しませちゃったかな。だめだなあ、僕」
シロの訥々とした反省を、向かい合うチェシャ猫は黙って聞いていた。そして徐ろに立ち上がり、膝にひっかけていたコートを羽織りだす。
シロは目をぱちくりさせ、彼を見上げた。チェシャ猫がコートのフードの付け根を引っ張りつつ、なげやりに言う。
「どっちもどっち」
そう言うとチェシャ猫は、面倒くさそうな足取りで店を出ていった。
*
店を出ると、すぐに愛莉の背中を見つけた。日の沈んだ暗い街並みに、か細い氷の粒が舞っている。その冷たい道を、愛莉の後ろ姿がとぼとぼと歩いていた。
チェシャ猫は無言で彼女の後ろをついていった。五メートルほどの間隔を開けて、それ以上詰めも離れもせずに行く。愛莉も振り向かず、歩く速さも変わらなかった。往来する人の数は少ない。
やがて完全に人がいなくなり、ふたりは通り道の噴水公園に差しかかった。ふいに、愛莉が声を発する。
「チェシャくん、あたしのせいでビルの屋上から落ちたって聞いたよ。ごめんね」
チェシャ猫はぴたりと体を強ばらせた。気配のない自分が、一度も振り向いていない愛莉に気づかれているとは思わなかった。
「あんた、背中に目でもついてるのか?」
「なわけないじゃん。あたしはいつでもチェシャくんの気配に敏感なだけ」
へへ、と愛莉が笑う。
「いつもなら抱きついちゃうんだけど、今はちょっとやめとく」
「泣いてんのか」
「泣いてはいないけど、かわいくない顔になってるから、今は見られたくないかな」
公園の真ん中の噴水も、今は水が止まっている。誰もいない公園は、眠っているように静かだった。おかげで愛莉の控えめな声も、チェシャ猫の耳にはっきりと届いてくる。
「それより、チェシャくんよく無事だったね。高いところから落ちてもピンピンしてるなんて、本物の猫みたい」
「誰が猫だ。あんたの不注意のせいで酷い目に遭った。俺も小栗も無傷だったことに感謝しやがれ」
チェシャ猫は容赦せずにぴしゃりと返した。
「だいたいあんたは危機感が足りないんだよ。狩人の存在は極秘だっつってんのに学校に狩人マニュアルを持ち込むわ、ダイナのワームホールに自ら飛び込むわ。俺の狩りの現場にわざわざ現れたこともあったよな? あんたはいつもそう……」
「ちょっとちょっと、謝ってるのにそこまで責める!? 結構前のことまで蒸し返す!?」
愛莉が急に足を止めて振り向く。暗い公園の仄明るい街灯に照らされたその顔は、やや赤く腫れてくしゃっと歪んでいた。
チェシャ猫も立ち止まり、平板な声で言う。
「謝ってはいるが、あんたが過去の愚行を全部反省しているとは到底思えないんでな」
「ほんと意地悪ー。あたしがこんなに傷ついて弱ってるというのに……!」
愛莉の歪んだ顔が、むすっとむくれてより一層歪む。チェシャ猫は無表情のまま愛莉を見下ろしていた。
「マジでブスになってて驚いた」
「ほんと意地悪! ほんっと意地悪! デリカシーの欠片もない!」
愛莉はキャンキャン吠えると、開き直って堂々と噴水の縁に腰掛けた。
「チェシャくんはそうやってなんでもガンガン言うけどさ。小栗くんの件は、あたしには言ってくれなかったよね。シロちゃんが言わないから、チェシャくんも従ったの?」
「どうせそのうちバレるだろうとは思ってたから、どっちでも良かった。逆に言えば、早めに言っても同じじゃねえかとも思ったけど」
チェシャ猫が小さく白い息を吐く。愛莉はふうんと鼻を鳴らした。
「じゃ、やっぱりチェシャくんはシロちゃんに従ったんだ。チェシャくんて勝手で気ままなわりに、シロちゃんには従順だよね」
「別に。自分で判断すんのが面倒くさかったからだよ」
チェシャ猫はややうんざりした口調で言い、目を伏せた。
「あと、怖いから」
「怖い?」
「あんたも知ってるだろ。食えない人というか、抜け目がないというか。シロさんて底知れない感じがあって、怖い」
「そうかなあ。物腰柔らかくて、でもただ優しくて甘いだけじゃなくて、冗談通じるし……怖くはないと思うよ?」
愛莉が小首を傾げる。チェシャ猫は、ん、と短く唸り、夜空を見上げた。凍っているような空からは、銀の粉のような雪がぱらぱら降ってくる。
「シロさんの店、行くか」
暗闇の中に、吐いた息の白さが浮いて見える。愛莉は数秒俯いたのち、顔を上げて改めて頷いた。




