誰でもよかった
「あの日のこと、今更ながら話しておきたくなってね」
あれから一年半。真夏に出会ってお互いに命を預けたふたりは今、喫茶店のテーブル席で向かい合って茶を飲んでいる。
シロはふうと、水面に息を吹きかけた。
「いきなり巻き込んだし、説明を諸々省いてしまったし、店に着いてからも君の身の上話を聞く方を優先してしまってこっちの事情はろくに話してなかった。アンフェアだったかもしれないなって、急に思ったの」
「本当に急だな。一年半前も急だったけど、その急を今になって回収するか」
チェシャ猫はシロの気まぐれに呆れながら、紅茶を啜った。
「あんたのあれは、ほぼ脅しだったよな」
「かもね。切羽詰まってたチェシャくんは断れなかったよね。僕も正直、断らなそうなちょうどいい奴を見つけたなと……断られても、やらせるつもりだったけどね」
シロは物騒な物言いでいたずらっぽく笑うと、抹茶を唇につけた。ゆっくりと味わったのち、ひとつ呼吸を置く。
「チェシャくんが言ってたとおり、僕が余らせてた財産は茶道家としての資産ではない。代々続く狩人としての資産だよ。まあ、当時のチェシャくんは狩人なんか知らないから、反社会的な人殺し産業だと誤解したでしょうけどね」
じっと黙っているチェシャ猫を一瞥し、シロがくすっと笑う。
「ごめんね、わざとじゃなかったんだよ。あとあと考えたら普通誤解しちゃうよなあって気づいたけど、あのときは本当に急いでて一秒でも惜しかったんだ」
「あのレイシー……散財を誘発するやつだったか。あいつ、そんなにまずいやつだったのか」
「うん。お金だけでなく健康や仕事や運までなにもかも搾り取って死なせるレイシー。人をお金で困らせて、自暴自棄にさせる……まさに、当時の君のようにね。役所からは早急な対応を求められていた」
それを聞いてチェシャ猫は納得した。だからあのレイシーは、あのビルに現れたのだ。まさに当時の自分みたいな人間を餌食にするために、待ち伏せをしていた。
「叔父がいた頃は狩人の仕事は叔父がしてたけど、彼が消息を絶ってからは、書面上、僕が引き継いでいた。とはいえ僕はレイシーに好かれてしまうから、危険すぎて対峙できない。だからあの頃は、実質開店休業状態でね。このまま自分の代でフェードアウトするものだと思ってた」
シロは懐かしそうに、そして自嘲的に言った。
「でも偶然、役所から急ぎの通達が出ていたあのレイシーを発見した。そして偶然、そこに君がいた」
シロはそこで、ひとつ深くまばたきをした。
「だからさ。本当に誰でもよかったんだよ。引き金を引いてくれさえすればね」
チェシャ猫は選ばれたわけではない。たまたまあそこにいた、そして金に困っていてシロの要求を断れなかった、ただそれだけの通りすがりだった。
チェシャ猫は数秒シロを見つめ、ぼやく。
「狩人が一般人を巻き込むのは、ご法度じゃなかったか」
「しょうがないじゃん、急いでたんだもん」
「あんた、物腰は柔らかいけど理不尽で傍若無人だよな」
シロは湯のみで手を温め、ひと息ついた。
「あのときはあの一回こっきりで、謝礼を払って縁を切るつもりだった。でもあの身のこなしを見たら、結構本気で狩人向いてるかもしれないなって感じたよ。少し前まで隅っこで震えてたかと思ったら、一瞬のうちにレイシーの背後を取ってたんだもの」
「素早く動けたわけじゃない。単に気配が薄いから、シロさんに気を取られてる状態のレイシーには気づかれなかっただけだ」
謙遜でもなく当時の自分を評価するチェシャ猫に、シロは少し、可笑しそうに笑った。
「そうかもしれないけど、結果的にものすごく適性あったよね。現に今こうして、かなりの実力を持つ狩人に成長したんだから」
「で。一度きりの使い捨てにするつもりだった俺を、育てることにした理由は? 単に気配がなかったからじゃねえだろ」
チェシャ猫がおざなりに問う。シロは笑顔を崩さず、素直に答えた。
「あとは君の知ってるとおり。同情だよ」
ビルを出たあと、チェシャ猫はシロにこの店へと連れてこられた。約束どおり金を貸すというシロからいくら必要なのかと問われると、チェシャ猫の口からははっきりと金額が提示された。
家業のおかげでシロには支払える額だったが、彼はなんとはなしに事情を尋ねた。
そしてチェシャ猫は、ひとつずつ、ぽろぽろと、彼の抱える事情が顕にしていった。
両親を亡くしたばかりであること、妹が大火傷を負って治療中であること。妹が緊急手術を受けたこと、今後も継続的に資金が要ること――。
シロはそこまで深入りするつもりはなかったし、チェシャ猫も喋るつもりはなかったが、チェシャ猫を押し潰していたひとりで抱えきれないストレスが、彼を喋らせた。いつの間にか、チェシャ猫はシロに全てを打ち明けていた。
「他人のシロさんにいきなり重い話をして、それは悪かった」
チェシャ猫が一年半越しに謝る。シロは小さく首を横に振った。
「いや。僕は君の事情を聞いて、心の底から力になりたいと思った。なにせ、君は僕に似ていたから」
シロの瞳が、真っ直ぐにチェシャ猫をとらえる。
「僕も、両親を同時に亡くしてる。叔父も消えた。君は僕にそっくりで、だから放っておけなかった」
カチャ、と、カップと受け皿が重なる音がした。チェシャ猫がカップを置いたその音が、静かな店内ではやけに響く。
シロは手の中の湯のみに視線を落とした。
「大きく違ったのは、君にはまだ妹さんがいたこと。君と自分を重ねてしまった僕は、巡ちゃんがまるで自分の妹かのように錯覚してね。助けなきゃ、って義務感が芽生えた」
真面目な口調でそう言ったあと、シロはややおどけた声で付け足した。
「ついでに、このまま開店休業より、僕の代わりに引き継いでくれる人が欲しかった。君、素質あったし」
「強引なスカウトだったな」
「結果、雇って正解だったでしょ。育てたら見違えるように強くなって、ついに狩人の間で『チェシャ猫』なんてカッコイイ通り名まで付けられちゃってさ。すっかり定着して、今となっては僕までその名前で呼んでるものね」
シロは楽しそうに言って、それからいたずらな子供のように目を細めた。
「でも君の本名、結構好きだよ」
「正直どっちでもいい。チェシャ猫は、俺の自発的な名乗りじゃねえし」
「ははは。僕が君を気に入った理由のひとつに、君の名前もあるんだよ? 初見で読み間違えられるんだろうなって。親近感が湧いたんだ」
湯のみを口に寄せ、ひと口飲んで、シロは言った。
「それに僕がシロで、君が、ゆ……」
そのときだ。入口の鈴がチリンと、大きく揺れた。
思わずシロは口を閉じて振り向き、チェシャ猫も目線だけ扉に向ける。そこに立っていたのは、冷気を纏った制服姿の少女だ。
「チェシャくん、シロちゃん!」
長い髪をぼさぼさに乱した、愛莉である。