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狩人“チェシャ猫”が生まれた日

 それは、一年と半年前、茹だるような暑さの真夏日だった。

 都会の外れの寂れた街に、その青年は現れた。彼はのちの『狩人・チェシャ猫』である。

 両親と妹を乗せた車が事故に遭い、両親は即死、妹の巡は重傷を負った。上京していた彼が実家に帰省していた、盆休み中の出来事だ。

 壮絶なショックを浴びせられたチェシャ猫には、悲しむ暇さえ与えられない。亡くなった親の葬儀や役所の手続き、妹の病院の書類と、無慈悲に負担がのしかかっていた。ただでさえ心身ともに参っている彼から、時間も金もみるみる削られていく。

 消耗しきっていたチェシャ猫に唯一親身になって寄り添ったのは、一命を取りとめた妹の、施設の担当医だった。


「――くんだね。初めまして。上戸です」


 大変だったねと、彼はチェシャ猫を労った。満身創痍のチェシャ猫を急かさず、少しずつ話を進めていく。


「巡ちゃんが運ばれてきた日、君は一切の迷いなく彼女の緊急手術を承諾してくれたそうだね。君のおかげで巡ちゃんは無事に今も生きてる」


「……はい」


「ただ、当然費用がかかる。今の君の精神状態はそれどころじゃないだろうから、こんなことは言いたくないんだけどね。事故相手の保険を使っても、手術費や入院費など諸々を含めて、これだけ必要になる」


 上戸の手から差し出される請求書に、もともと青白くなっていたチェシャ猫の顔から、さらに血の気が引いた。上戸は深刻な面持ちで続けた。


「苦しんでいる君にさらに重荷を背負わせるのは、私も心苦しい。支払いは急がない。君への負担が少しでも軽くなるように、私もできるだけのことはさせてもらう」


 その気遣いに、チェシャ猫はふらりと頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、用意します……」


 とはいえ彼に金はなかった。彼自身定職についておらず貯金はなく、両親の遺産も多くない。

 チェシャ猫は、再度都会へと出た。がむしゃらに仕事を増やしてみたが、必要な額には到底届かない。

 やがて数週間後、ぼろぼろになった彼は、ついに消費者金融のビルを訪ねていた。利息が高いのは知っている。いざとなったら首を括る。巡さえ生きていれば、自分はもういい。むしろ、こんな人生なら終わらせてしまいたかった。

 ビルに入ろうとしたその直前、突然、肩を掴む男が現れた。


「君。お金が必要なの?」


「……どちら様ですか」


 げっそりした顔で振り向くチェシャ猫の目に、男の顔が映る。端正な顔立ちの青年だ。彼は穏やかに微笑んでいたが、その面持ちには微かな焦りが滲んでいた。


「いくら必要なの?」


「誰だよ」


「僕の家、江戸時代から続く由緒正しい茶道家の家系でね。そこそこお金が余ってるんだ。無利息で貸してあげないこともない」


 そのあまりにも甘い囁きに、チェシャ猫は耳を疑った。いくらなんでも都合が良すぎる。彼はこの胡散臭い男を、死んだ瞳で睨んだ。


「……条件は」


「話が早いね。そのとおり、無条件ではない。協力してほしい」


 青年はくすんだビルを見上げ、やや早口で続けた。


「こういう場所は『溜まりやすい』んだ。今まさに僕が追いかけていたターゲットが入っていった。僕は直接近づけないから、代わりに君にやってほしい」


 そう言うと彼は、自身の襟からすっと手を入れた。引き抜かれたその手に握られていたものを見て、チェシャ猫は絶句した。

 青年の清楚な出で立ちに似つかわしくない、黒い拳銃だ。


「茶道、関係なくねえか」


「茶道家なのは本当だよ。ただ、兼業があるだけさ」


 チェシャ猫の背中に悪寒が走る。この男の『兼業』とはなんなのか。暴力団か、始末屋か、少なくともなんらか、殺人を生業とする者であると想像がつく。


「俺に人殺しさせるのか?」


「殺す相手は人じゃない。人じゃないから、人殺しじゃない」


 青年が、拳銃をチェシャ猫の手に押し付けた。チェシャ猫は指をぴくりと強ばらせる。ますますもって意味が分からない。


「人じゃねえなら、なんなんだよ……」


 人権などない、という比喩的な言い回しだろうか。いずれにせよ、青年は急いでいるようで詳細を省いた。


「説明はあと。大丈夫、君は僕の指示どおりに動いてくれ」


 有無を言わさず拳銃を与えられたチェシャ猫は、それを突き返せず受け取った。男を信用したというより、こんなものを持ち歩く男に逆らったらまずいという防衛本能である。死んでもいいと思っていたはずが、いざとなると反射で保身するものだ。


 青年はビルへと突き進んだ。エントランスに入るなり、彼はチェシャ猫の腕を引いて柱の影に隠れる。そして小声で、チェシャ猫に耳打ちをした。


「いた。あれだ」


 エントランスの隅に、野暮ったいスーツのみすぼらしい初老の男がいる。受付に人はおらず、ここにはこの草臥れた男の姿しかない。拳銃を握らされたチェシャ猫は、冷や汗を滲ませた。


「あのおっさんを殺せというのか」


「うん」


「あんたがやればいいだろ」


 チェシャ猫が隣の青年に拳銃を突き返す。しかし青年は、首を横に振るだけだった。


「そうしたいのは山々だけど、僕にはできないんだ。ここにいるだけで、あいつはこっちに気づく。だから僕はこれからすぐ外に出るけど、逃げるわけじゃないから」


 拳銃を受け取ろうとせず、青年は、ターゲットの男に視線を向けた。


「そう。今がチャンスだ。今なら人目がない。じゃ、よろしくね」


 青年がチェシャ猫を置いて踵を返す。

 たしかに、周囲の目はない。監視カメラでもなければ、殺してもバレないかもしれない。

 それでも、殺せと言われて殺せるものではない。

 チェシャ猫は立ち去ろうとする青年の手首を、がしっと掴んだ。


「嫌だ」


 金が欲しいのは事実だ。そのためにならもう命さえ捨ててもよかった。だが人殺しをする覚悟まではしていない。第一、人を殺した金で妹の命を救えるとして、自分はそれで納得できるだろうか。

 しかし、逡巡し震えるチェシャ猫にも、青年は容赦しなかった。


「離してよ。なに言ってるの、今しかない」


「あんたこそなにを言ってるんだ。人を殺せとか……そんならあんたが殺せばいいだろ」


「お金が欲しいんでしょ? 今更怖気づかないでよ。もたもたしてると向こうがこっちに気づく。僕がいるだけで引き寄せてしまう。手を離して。これじゃ君が危ない!」


 声を殺して柱の裏で揉める。青年は余裕がなくなってきて、険しい顔でチェシャ猫の手を振り払おうとする。それでも、チェシャ猫は青年の腕を離さない。そしてふたりは、はたと同じ方向に顔を向けた。


 いつの間にか、初老の男が真横に立っている。


「おいしそうな、におい、が、すると、おもっ、たら」


 泥の沼底から響くような、ぞっとする声だった。

 咄嗟の判断だろう。青年は、チェシャ猫の胸を突き飛ばした。怯んだチェシャ猫は青年から手を離し、ふらつきながら後ずさる。青年が、初老のスーツの脇をすり抜けて駆け出していく。


「僕が引きつける。早く殺して!」


「はっ……」


 チェシャ猫は息を詰まらせた。

 あのスーツの男はなんなのか? いつからあそこにいた? あのねっとりと耳に絡みつく、濁った声は? 人間の体から出る声というよりは、合成された音のようだった。あれは人間なのか?

 ビルに入る前に聞いた、青年の言葉が脳裏を過ぎる。


『殺す相手は人じゃない。人じゃないから、人殺しじゃない』


「だから、人じゃねえなら……なんなんだよ」


 初老の男がぬるりと動き、青年を追いかける。


「おいしそ、う、です、ね」


 スーツから伸びた手が宙を掻く。その手を見て、チェシャ猫はまたぞっと背筋をあわだてた。黒い鱗に、黄色い尖った爪。まるでワニの手だ。

 その指先が、青年の襟首に引っかかった。くんと引き付けられた青年が、足を浮かせる。


 それを目にした途端、チェシャ猫の体の中でなにかのスイッチが切り替わった。


 固まっていた脚が、弾かれたように動き出す。拳銃を構え、スーツの男の背後に回り、至近距離でその後頭部に銃口を押し付けた。人差し指に引っかけた引き金を、躊躇なく引く。


 パシュッと、空気の爆ぜる音がした。

 耳を劈く銃声ではなかったが、目の前の男の額から噴き出すものが、空砲ではないと物語っている。青年の襟首にかかっていた指が、ぐにゃりと歪む。

 チェシャ猫は目を見開き、息を荒らげていた。肩が、腕が、ガクガクする。銃の反動が全身に響いてくる。


 そして目の前の男が額から滴らせるそれを見て、え、と短く呟いた。


「血、じゃない……」


「言ったでしょ、人間じゃないって」


 青年も、はあはあと荒い呼吸を繰り返していた。

 初老の男はスーツごと粉々になっていき、砂の像と化して、そのまま形が崩れて床に零れていく。異様な現象を目の当たりにしたチェシャ猫は、混乱で固まっていた。


「なんなんだ、これ」


「説明が面倒なんだけど、これは人間の精神を乱して散財を誘発するレイシーで……ああ、やっぱり説明が面倒だ。というか説明してる暇がない」


 青年は灰の山の前にしゃがみ、袖口から試験管を取り出した。そこへ灰を詰めると、すぐに立ち上がってチェシャ猫の腕を引く。


「行くよ」


「は?」


 と、建物の奥からバタバタと足音が聞こえてきた。このビルの者らが、騒ぎを聞き付けて駆けつけてきたのである。

 チェシャ猫は青年――即ちシロに引っ張られ、『和心茶房ありす』へと連れ出されたのだった。

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