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寂しいと死ぬ、わけではないが

 その翌日の、土曜日の午前十時。

『和心茶房ありす』の扉が、勢いよく開かれる。


「シロちゃーん! おじゃましまーす!」


「いらっしゃい、愛莉ちゃん」


 出迎えるのは、窓際のテーブルでチェシャ猫と将棋を指すシロである。チェシャ猫が迷惑そうに愛莉を一瞥する。


「うるせえな。今いいところなんだから少し黙ってろ」


 そんな彼に、シロは不敵に笑んだ。


「いいところ? さて、それはどうかな」


 そう言ってパチンと駒を置く。それを目にしたチェシャ猫は、数秒絶句した。やがて諦めたように項垂れる。


「参りました」


「はは。まだまだだね、チェシャくん。自分では攻めてると思ってたかもしれないけど、泳がせてただけだよ。僕はとっくに君の生殺与奪を握っていたのさ」


 意地悪く煽りながら、シロが椅子を立ち上がる。打ちひしがれるチェシャ猫を横目に、愛莉に声をかけた。


「さて、今日はなにを飲む?」


「どうしよっかなー。そうだなあ、今日はきな粉ミルクティー」


 愛莉が楽しげに注文すると、シロは「かしこまりました」と緩んだ口調で返事をして、茶の支度を始めた。

 席に座る愛莉をカウンター越しに目に入れ、シロはほっとしたような微笑みを浮かべた。その慈愛を孕んだ瞳に、愛莉は小首を傾げた。


「なあに?」


「ううん、なんでもない。ただ、久しぶりだなあって思って」


「あー……」


 愛莉は虚空を仰ぎ、間延びした声を出した。

 愛莉自身は、ダイナとともに時空を移動していただけで、その期間は体感にして数時間程度だった。だが元の時間軸においては、愛莉は長い時間消息不明になっていたのである。愛莉が感じている以上に、家族も友人も愛莉を心配していた。


 温かい店内に、ほんのりと紅茶の香りが漂う。

 愛莉はちらりと、窓際のテーブル席のチェシャ猫に目をやった。チェシャ猫は決着の着いた将棋盤を眺めている。


 チェシャ猫が捕獲したレイシー、ダイナは、もういない。世界初生け捕りに成功したレイシーは、あえなく灰と化したのだった。

 愛莉がぽつりと呟く。


「ダイナちゃん……仲良くなれると思ったのにな」


「まだ言ってんのかよ」


 チェシャ猫が将棋盤を睨みつつ返してくる。愛莉は天井を仰いだ。


「ダイナちゃんはレイシーだし、他のレイシーと区別なく駆除対象なのは分かるよ。むしろ、その辺のレイシーよりも人間の事情を知ってる分、危険だってことも。だからナイフで刺したお姉さんを責めるわけじゃないんだけど」


 そしてゆっくりと、目を閉じる。


「でも、やっぱりもったいなかったなって」


 殺したのは、ダイナ捜索におけるチェシャ猫のパートナーだった、女性職員である。

 チェシャ猫に凭れかかるダイナを発見した彼女は、チェシャ猫がダイナに襲われたと思い、彼を助けるべくナイフをダイナに突き立てたのだ。

 ダイナ捜索開始の際、責任者である山根が班のメンバーに銀のナイフを持たせた。緊急事態と判断したら、殺しても構わないという指示だ。レイシーを野放しにしてしまったのだから、そのくらいの緊張感は当然だった。


 愛莉も、それは分かっていた。説明を聞かされ、理解はした。しかし理解したとしても、まだ気持ちが追いつかない。

 チェシャ猫が愛莉を一瞥する。


「あのな。あいつにそんなに入れ込んでるの、あんただけだぞ。あいつの素顔見ただろ、性根腐ってただろうが」


「人間を騙して利用してたんでしょ? そんなの分かってるよ。分かってる上で、分かり合えると思ったの」


 愛莉はひとつ、まばたきをした。


「騙したり利用したりするのは、人間同士だって同じだし」


「あんたは分かった気になってるだけ。相手は化け物だ」


 チェシャ猫が鬱陶しそうに言う。


「ダイナはあの辺りに来る人間の子供を連れ去っていただろ。あれは子供を連れて時空を飛び回っていたんだよ。そして、その子供が本来過ごすはずだった時間と実際に経過している時間の差分を餌食に、力を増大させてた」


「そうなの?」


「そうだよ。あんただって、自分は数時間しか過ごしてないつもりでも、こっちじゃ随分行方不明になってただろ。その差分の時間はダイナに喰われてる。あんたも被害者だ」


 そしてチェシャ猫は、将棋盤の駒の片付けを始めた。


「ダイナは連れ去った子供を他の時空に置き去りにせず、元の時空に帰ってきて子供を親の元に戻していた。事態を大きくなれば餌になる子供が寄り付かなくなって自分が不便になるからだ。子供の記憶も喰って混濁させて、曖昧にして逃げ切ってた。そういう小賢しい奴だ」


「そっかあ……そうだとしても……うーん」


 愛莉はまだ悶々としていた。真上に擡げていた顔を今度は伏せて、カウンターにぺったりと突っ伏す。


「でもさ。チェシャくんが言ってたとおり、ダイナちゃんの能力は人間のためにもなったと思うの」


 時間遡行ができるダイナが、灰になってしまった。その能力を活かせば、できることがたくさんあった。

 シロの叔父になにがあったのかも、確かめられたはずだった。

 愛莉は数秒目を伏せ、顔を上げた。改めてシロを見上げ、真剣な声で話しかける。


「あのね、シロちゃん。シロちゃんの叔父さんになにがあったのか、確認できるチャンスだったのに、失敗しちゃってごめんね」


「なに言ってるの。そんなの本来見られなくて当たり前のものなんだから、いいんだよ」


 シロは少しも残念そうな顔は見せず、紅茶ときな粉の用意をしていた。愛莉は彼の仕草を見つめ、しばらくしてからもうひとつ謝る。


「シロちゃんの過去、覗き見しちゃったことも。ごめんね」


「それも気にしないで。過去に行ったら過去の僕がいるのなんて当然じゃないか。僕も別に、隠してるわけじゃないし」


 シロの手元からは、紅茶の豊かな香りが漂っている。


「それよりどうだった? その頃の僕は」


「思ってたより大人しいというか……全然ニコニコしてなかった」


「でしょ。暗かったよね」


「でも山根さんはそのまんまだった」


「いや、僕もそのまんまだよ」


 シロが作業しながら、軽い口調で言った。


「過去を見られちゃったから、ひとつ思い出話をさせてくれ。この前、叔父の形見だって、僕の左耳のピアスを見せたでしょ。これが片方しかないのは、小さい頃の僕のいたずらのせいなんだ」


「そうなの?」


「うん。叔父が大事にしてる特別なピアスだって知ってたから、わざと隠したの。両方なくすと開き直ってしまうから、敢えて片方だけにして、諦めきれない感じに」


「わあっ、頭いい……というか、ずる賢い!」


 愛莉が目を剥くと、シロはあははと楽しそうに笑った。


「でっしょー。陰湿なんだよ、当時から。今もそう。その頃より上手に表情を作れるようになっただけ。暗いのは相変わらずだよ。だから僕はレイシーに好かれるし、取り憑かれやすい。『狩人に向いてない』っていうのは、そういうことなんだよ」


「あっ」


 愛莉は短く叫んで、しかし続いてなにも言葉が出てこなかった。明るく元気な愛莉は、レイシーから拒絶される。レイシーの魔力を祓ってしまうほどだ。しかしその逆、陰鬱な人物には、レイシーが寄り付いてくる。


「暗い性格だから、レイシーに好まれがちでね。奴らは僕の負の感情を引き出そうとして、僕の周囲の人を巻き添えにする。友人や、叔父や、……家族」


 彼の両親が亡くなったのも、レイシーのせいだ。

 被害に遭うのが自分自身なら、まだ良かった。体質を活かして、捨て身の囮作戦でもなんでもできた。だが、そうではないのだ。

 賢いウィルスが宿主を殺さないのと似た理屈だ。この事情のせいで、シロはレイシー駆除に出かけられないのだ。自分がレイシーに近づけば、大切な人に迷惑がかかる。それを分かっているから、シロは素直に、叔父に従っていた。


「誰かといればその人を巻き添えにしてしまうって知ってるのに、そのくせ寂しがり屋で、独りになるのが怖いんだ。幼い頃は特に、食事も喉を通らないほど。叔父が仕事に行くのを少しでも引き止めたくて、ピアスを隠してしまうくらい」


 愛莉は黙って聞いていた。チェシャ猫も、無言のまま目線をシロから外している。


「そのまま、ピアスを返し忘れて何年も経って、隠してたのを思い出したのは大人になってから。叔父がいなくなって、数日後に、あっ! って」


 彼の左耳で、ピアスが煌めく。


「ピアス、返してあげられなかった」


 口を閉じている愛莉の前に、シロがティーカップを置いた。


「だからね。愛莉ちゃんも、僕のせいでいなくなっちゃったんだと思って、ものすごーっく凹んだんだよ。でも僕が暗い以上に愛莉ちゃんが明るかったんだね。レイシーの悪意を跳ね除けて、無事に帰ってきてくれた。本当に良かった」


 カップの形は洋物だが、柄は椿と市松模様をあしらった和柄である。中にはこっくりした淡い色のミルクティー、その表面にはぱらぱらときな粉が乗っている。

 愛莉はミルクティーから立ち上る湯気を見つめ、言った。


「チェシャくんの言ったとおりだ」


 病院のベッドで放心状態でいる、幼いシロを見たあのとき。愛莉は看護師の会話を聞いて、焦燥した。

 両親を失ったシロを、救いたかった。過去を改変しようと考えた。だが、チェシャ猫がそれを止めたのだ。

 愛莉はミルクティーの柔らかな香りの中、そのやりとりを回想した。


 *


「あたしには、なにもできないの? ちっちゃいシロちゃん、苦しんでるのに。なにもしてあげられないの?」


 そう項垂れる愛莉に、チェシャ猫は言った。


「ひとつ、あんたにできることがある」


 気だるげに頭を掻いて、泣き出しそうな愛莉と目を合わせる。


「元の時空に帰ることだ。あんたが救うべきは過去のシロさんじゃない。今まさにあんたの心配をして、自分を責めてるシロさんに会いに行って、ピンピンしてやがるあんたを見せてやれ」


「今のシロちゃん……?」


「過去のシロさんにはなにもできねえが、あんたと出会ってからの未来のシロさんなら、いくらでもどうとでもなる。あんたが変えられるのは、“これから”なんだ」


 *


 チェシャ猫のその言葉を受けて、愛莉は気持ちを切り替えた。

 大人になったシロは、過去を受け入れて今を生きている。愛莉にできるのは、その今のシロをこれ以上悲しませないことだ。

 だから、行ってみたかった他の時空よりなによりも、ここへの帰還を選んだ。

 実際、愛莉がいなくなった世界では家族も友人も心配していた。シロも、そのひとりである。


「だってさ。あの場所に君を置き去りにしたのは僕だし、最後に電話を受けてたのも僕だった。あの日の行動の全てを後悔したんだよ」


 シロはそう言ってから、大きなため息とともに項垂れた。


「本当に、本当に良かった……」


 心の底から安堵したのだろう。シロの声は、少しだけ震えていた。愛莉はそんな彼に、はにかみながら返す。


「心配かけてごめんね」


「うん。もう二度とレイシーを追いかけちゃだめだよ」


「はあい」


 愛莉は体を起こし、きな粉ミルクティーにふうと息を吹きかけた。カップを唇に傾ける。華やかな紅茶の香りとコクのあるミルクの味が舌の上で混じる。こってりした蜂蜜の甘さ、それからどこか懐かしいきな粉の味。

 愛莉はほっと、小さく呟いた。


「ただいま」

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