終息
一方その頃、白少年の病室。窓の下の陽だまりで休んでいたダイナは、じっと目を閉じていた。
酷い目に遭った。あの女子高生、即ち愛莉が、こんなに自分の呪術を酷使してくるとは思わなかった。そもそも、突然過去の時空に連れ込まれたらもっと焦るのが普通だろうに、愛莉ときたらそれさえもポジティブに捉えて楽しんでしまうのだ。ダイナが研究施設から逃げ出したレイシーであり、人間の敵であると分かっているはずなのに、尚も友好的に接しようとする。こちらが敵意を見せているにも拘らずだ。
時空旅行を楽しんでいるのならと、いるべきでない時空に愛莉を置き去りにしてしまう作戦に切り替えるも、愛莉にペースを乱される。
その上、何度もテレポートさせられているうちに狩人まで追いついてくる始末だ。
ダイナは陽の光の中で呟いた。
「やっぱり、あの子……苦手」
愛莉のあの底抜けに明るい性格は、レイシーであるダイナには酷いストレスになる。ペースを狂わされたのも、全部彼女のせいだ。
ダイナは薄く目を開けた。ベッドの上で、少年が俯いている。レイシーであるダイナには、この少年を見ても感情が動かない。愛莉はなにやら動揺して、走り出したようだったが――。
そこまで思考して、ダイナはハッとした。
この病室から飛び出していった愛莉からは、明るさが消えていた。つまり今なら、ダイナを抑圧する存在が弱っているのだ。ダイナにとっては都合がいい。回復が早まるかもしれない。
毒となる愛莉も、厄介な狩人も、この時間に置き去りにしてさっさと逃げてしまおう。……と、考え至ったときだった。
「ダイナちゃーん!」
それはそれは元気に、愛莉が病室に飛び込んできたでないか。ダイナは目を疑った。先程までの暗い顔はどこへやら、すっかり天真爛漫な愛莉に戻っている。
大声を出した愛莉は、口を塞いで今度は声のトーンを落とした。
「病室で騒いじゃいけないよね。あたしたちの声はシロちゃんには届かないとはいえ、なんとなく悪いことしてる気持ちになる」
にこにこ笑う愛莉に、ダイナは気力を吸われて逆にげっそりとした。
「なんで元気になってるノ……」
「チェシャくんが、あたしは明るい方がかわいいって言ったから」
愛莉がはにかむと、チェシャ猫は眉を寄せた。
「そうは言ってない」
「そんなことよりダイナちゃん、そろそろ回復した? もう行ける?」
窓際のダイナに詰め寄り、愛莉は彼女の目の前にしゃがんだ。ダイナは身じろぎして縮こまる。
「またテレポートさせル?」
「うん。でも、シロちゃんの叔父さんが行方不明になる日にではなくて……」
愛莉はひとつ呼吸を置いて、後ろのベッドの少年を一瞥した。
「元の時空に帰ろう。あたしと出会う未来のあとの、今のシロちゃんに会いたい」
「ふうん?」
ダイナは不可解げに、愛莉を睨んでいた。愛莉の背後では、チェシャ猫が腕を組んでだらりと立っている。
「あんた、時空を渡り歩けるけど制限はあるよな。力の消耗は結構デカいようだし、回復にかかる時間も長い」
チェシャ猫の鋭い視線が、縮こまるダイナを見据える。
「そしてあんたは、渡った好きな時空に住み着けるわけではない。本来自分がいるべき時空から離れれば離れるほど、体の自由が効かなくなる。だから最終的には自分がいるべき時空に戻らないといけない」
ダイナはぴくっと、肩を強ばらせた。図星の彼女は数秒チェシャ猫を睨んだのち、ふんとそっぽを向いた。
「だったらなにヨ?」
「どのみち元の時空に帰るんだから、今行こうやと言っている」
チェシャ猫は淡々と続けた。
「狩人の俺とこの明るいクソガキはあんたにとっては邪魔だろうから、この時空に置き去りにする気だったかもしれねえけどな。悪いがそうはさせてやらん」
ダイナは顔を背けたまま、奥歯を噛んだ。
チェシャ猫の推察どおりだ。自分は存在すべき時空が決まっている。それ以外の時間の中にいても、ダイナの体を弱らせる一方である。帰るためのワームホールを作らなければならないのは、事実だ。
だがこのふたりを共に連れて帰る義理はない。これもチェシャ猫の言うとおり、邪魔だからだ。ここで要求を呑まなくても、殺される心配はない。チェシャ猫と愛莉は、ダイナがいなくては帰れないからだ。交渉はダイナが有利である。
今この場はふたりを撒いて、自分だけ帰るのがベターなのだが。
「俺の要求を呑めば、俺に借りを作れるだけでなく、あんたに『人間に協力した』実績がつく。今後も能力を人間のために使って、事件や犯罪の全ての現行を確認して大手柄でもあげれば、あんたは人間にとって利用価値があるレイシーと認定される」
チェシャ猫がゆっくりと、まばたきをした。
「ポイソンの地下にぶち込まれたとしても、今までとは違って丁重に扱われる。それは『監視』ではなく『宗祀』だ」
「宗祀、ネ」
ダイナの口角が、ニッと吊り上がる。
「そうネ。どっちにしろ帰らなきゃならナイものネ。のんびりする理由もナイ。ダイナの回復も、本来いるべき時空の方が、効率イイ」
ダイナからすれば、人間など厄介なだけで情もなにもない。だが人間から祀り上げられるのにはメリットがある。人間に駆除される心配がなくなり、むしろ人間を支配できる。今までのようにこそこそと暮らすより、ずっと都合がいい。
彼女の返答を受け、ネゴシエーターのチェシャ猫の代わりに愛莉がぱっと笑った。
「じゃあ決まりだね!」
愛莉のご機嫌な面持ちに、ダイナはぎゅっと目を瞑った。愛莉の明るさはレイシーには嫌悪感を抱くほど眩しい。
ダイナはふいっと顔を背けて、左手を伸ばした。呪術に必要な呪波に触れ、印を結ぶ。指先が痺れて、上手く扱えない。力を消耗が大きくて、上手く動かないのだ。
苛立つダイナは、正面で楽しげな顔をしている愛莉に余計にむしゃくしゃして、八つ当たりした。
「あのベッドにいる子、シロチャンでショ。おねえさん、あの子見てさっきまで落ち込んでたノニ、もうご機嫌? おねえさん、薄情ネ」
「もう、あたしのこと嫌いだからってそんな言い方しなくても。シロちゃんの叔父さんや家族を、見殺しにするつもりじゃないよ」
愛莉は苦笑いして、そして改めて言った。
「とりあえず今は、元の時空に帰るってだけ。そんで、ダイナちゃんが元気になったら、今度こそシロちゃんの叔父さんが消えた日に行こう」
「おねえさん、まだダイナを利用するツモリ!? ダイナ、もうコリゴリ」
「そんなこと言わないでよ。元の時空に帰ったら、お礼にお菓子買ってくるよ」
愛莉は辟易するダイナにもお構いなしに、機嫌よく語りかけた。
「それでさ、利用するとかじゃなくて、本当に仲良くなれたらいいな。あたし、ダイナちゃんとは友達になれると思ってるから」
ピンと、ダイナの爪の先が宙を引っ掻いた。空中に白い傷が生まれ、ぴりぴりと避けていく。ダイナは大きく深呼吸をして、その亀裂を指先で広げた。
「やっぱ、人間、ワケ分かんナイ。ダイナ、レイシーだヨ。トモダチ、違う」
「そうかなあ。まあ、なんでもいいよ。とにかくさ、お菓子パーティは開催しよう」
愛莉が楽観的に言うと、ダイナと、彼女だけでなく黙って見ていたチェシャ猫までもが、呆れ目でため息をついた。
空中の亀裂の向こう側に、時空の波が揺れている。無重力のような浮遊感が、三人を迎え入れた。
*
「おい。起きろ」
チェシャ猫の声掛けで目を覚ます。愛莉は草の茂みの中で突っ伏していた。頭がズキズキする。何度か経験したものの、時空を超えるこの感覚には全く慣れない。
しかし、自身を見下ろす目つきの悪い男を見た途端、元気よく跳ね起きた。
「チェシャくん!」
「いちいちうるさい」
チェシャ猫は冷ややかな反応しかしないが、愛莉は気にしない。
「ここは? あたしたち今……」
言いかけた愛莉は、自分のワイシャツに付着した土汚れに気づいた。
倒れていた場所は、鬱蒼と木々が生い茂る林の中だった。周囲は雑草まみれで、土は湿っている。風と、それに揺れる枝の音しか聞こえない。
纏う空気はひんやりと冷たい。隣のチェシャ猫は、白い息を吐いてモッズコートを着直していた。
「今は……『現在』?」
愛莉はそう呟いて、首を捻った。自分がいるべき時空に帰ってきたのか、と言いたかったのだが、どうにも妙な言い回しになる。だが彼女の言わんとしていることが分かったチェシャ猫は、小さく頷いた。
「間違いなく帰ってきた。ダイナは約束を守ったな」
チェシャ猫に言われ、愛莉はハッと地面を見た。チェシャ猫と愛莉の脇で、ダイナがぺしゃっと転がっている。体はぴくりともしない。死んでいるかのようだったが、よく見れば背中が微かに上下しており、呼吸はあるのが分かった。
「大変。こんなに消耗するなんて……」
「レイシーが弱ってて無抵抗なのは、むしろ好都合だろ。そのうえ生きたまま回収できたのは幸運だ。さっさとポイソンに連れて戻るぞ」
チェシャ猫がダイナを抱き上げる。ダイナの体はすっかり力が抜けており、軟体動物の如くくたっとチェシャ猫に凭れていた。
愛莉は服の土を払った。体はまだ痛むが、早くポイソンに戻らなくてはならない。立ち上がろうとした、そのときだった。
「チェシャさん!」
若い女性の、裏返った甲高い声がした。ガサガサと雑草を踏み分ける音とともに、その影が現れる。
血相を変えた顔を見せたのは、チェシャ猫と組まされていた山根班の女性職員だった。
彼女の手には、銀色に煌めくナイフが握られている。
「この……チェシャさんから離れろ……!」
突進してくる彼女を見て、愛莉は硬直し、チェシャ猫は咄嗟に身構えた。ダイナを庇おうと身を屈めるも、テレポートの衝撃がまだ体に残っていたのだろう、腰に力が入らない。
次の瞬間、女性職員はチェシャ猫――もとい、彼が抱えるダイナに、全身で飛び込んでいた。
パサ、と、金色の三つ編みが地面に落ちた。
それがまるで腐っていくかのように、みるみる変色して灰色の粉になっていく。
女性職員は、息を荒らげて身を引いた。
チェシャ猫の腕に抱かれていた少女の背中から、するりとナイフの刃が抜ける。ナイフに血はついていない。しかし代わりに、灰は張り付いていた。ダイナの背中の傷口から、ぱらぱらと灰が零れていく。
力なくぶらさがっていた手首が、ボトリと地面に落ちる。チェシャ猫の膝の上に預けていた脚が、崩れて形が保たれなくなっていく。
彼女の全身が、砂の像のように壊れていく。
チェシャ猫はその灰の塊を抱いて絶句していた。愛莉は、地に脚をぺたんとつけた姿勢のまま、動けなかった。
女性職員が両手でナイフを握って震えている。
「チェシャさん……ご無事ですか?」
ダイナだったものは、すっかり灰の塊になっていた。灰の山を抱いていたチェシャ猫は、まだ無言でその灰を眺めている。
女性職員は、泣きそうな声で言った。
「このレイシー……チェシャさんを襲うなんて……!」
崩れ落ちる灰が、風にさらわれていく。愛莉はようやく、声を絞り出した。
「うそ……。こんなの……こんなの、嘘だよね……?」
灰の塊は、もはやダイナの面影すら残っていない。
「嘘でしょ。お礼にお菓子買ってあげるって、言ったばかりなのに」
チェシャ猫の腕からぱらぱらと、灰が落ちていく。掠れていた愛莉の声は、震えながらも張り上げられた。
「まだ……まだ、友達になってないのに!」
地面に落ちていた金色の三つ編みの束は、もうすっかり崩れた灰と化して土に溶けていた。