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時の止まった白ウサギ

 またもや愛莉の頭は、衝撃に見舞われた。愛莉はしばらく目を瞑り、力の入らない体をくったりと自然のままに預けていた。

 と、その脳天をパンッと引っぱたかれる。


「おい、どけ」


「痛いっ」


 刺激で一気に目が覚め、愛莉は顔を上げた。覚醒した彼女は、仰向けで寝そべるチェシャ猫の腹の上でうつ伏せになっていた。姿勢を理解すると、愛莉は降りるどころかもう一度、彼の胸にぱふっと顔をうずめた。


「はあー、チェシャくんだあ。チェシャくんー。会いたかったあ。んー、いい胸筋」


 悠長にチェシャ猫の体温を堪能していた愛莉だったが、それに苛ついたチェシャ猫は、もう声掛けもせず容赦なく起き上がる。突っ伏していた愛莉も自動的に起こされ、勢い余って背面から転げて床に頭をぶつけた。


「痛い……この冷たい対応、まさにチェシャくん」


 床に転がされた愛莉は、そのまま上空を見上げた。白い天井と、淡い緑色のカーテンが見える。そして自分のすぐ脇を通り過ぎていく、ナース服の裾が目を入った。


「白くん。叔父さん、もうすぐ来てくれるよ」


 柔らかな女性の声がする。愛莉はハッと飛び起きて、周りを見た。

 病室だ。ベッドとクローゼットがあるくらいしか目につく物がない、狭い個室である。

 ベッドの脇には、優しそうな看護師の女性がいる。先程の声はこの看護師のものだ。部屋の奥の窓の下には、壁にもたれるダイナがいた。ぐったりと体を休ませ、窓から差し込む光を全身に浴びている。

 愛莉自身の隣には、腕を組んで立つチェシャ猫がいる。愛莉は座り込んだ姿勢のまま、チェシャ猫を見上げた。


「えーと。もしかしてチェシャくんは、あたしと同じ時空から来たチェシャくん?」


「分かってんじゃねえか」


 チェシャ猫が愛想なく返す。愛莉はまだガンガンする頭を片手で押さえ、続けた。


「うん。触ったり喋ったりできるから、そうかなって」


「そう。あんたがいなくなった六日後に、こいつは収容先……ポイソンから脱走した。それを捜して、ここまで来た」


 チェシャ猫が廃工場の裏で亀裂に触れたとき、別の時空ではダイナが愛莉に頼まれて新たな時空の亀裂を作っていた。チェシャ猫はこれに巻き込まれ、愛莉と同じ二十二年前に引きずり込まれたのである。


 チェシャ猫の視線は、看護師が覗き込むベッドへと注がれていた。愛莉もチェシャ猫の目線を辿り、ベッドの中の彼に目を止める。


「叔父、さん……?」


 か細い声が、病室に響かずに消える。

 ベッドの上には、点滴の管が繋がれた幼い少年が横たわっていた。


「お母さんと、お父さんは?」


「ふたりは……」


 言い淀む看護師に、少年は涙で潤んだ声で問うた。


「死んじゃった?」


 涙を溜めた大きな瞳、丸みのある頭。さらりとした髪。愛莉は、先程――「今」の二年後に出会った、あの少年の無表情と重ねた。


「シロちゃん……」


 愛莉はバネのように立ち上がると、病室を飛び出した。ベッドの上を見つめていたチェシャ猫も、愛莉を振り向いた。


「おい、どこに行く?」


 その質問にも答えずに、愛莉が廊下へと駆け出していく。チェシャ猫は愛莉とダイナとシロとを見比べてから、舌打ちして愛莉を追った。

 愛莉は初めて訪れるこの病院の廊下を、闇雲に走った。やがてナースステーションを見つけ、カウンターに飛びつく。話し込む看護師らの会話を盗み聞きする。


「それじゃあ、あの男の子……白くんが、自分で通報したんですか?」


「うん。あの子だけ、すんでのところで助かったの」


 カウンターに肘を乗せて聞く愛莉の横に、チェシャ猫が追いつく。看護師たちは、神妙な面持ちでやりとりを続けていた。


「かわいそうですね。一家心中だなんて」


「いっ……」


 思わず口をついた愛莉だったが、結局言葉にならずに途中で途切れた。呆然と立ち尽くす愛莉の脇では、同じく聞いていたチェシャ猫が顔を顰める。

 看護師らは書類に向かいながら話している。


「白くんから直接聞き出せたわけじゃないけど、あれは多分、白くんは父親に首を絞められてるわよね。でも意識を失っただけで済んだ」


「それで目を覚ましたら、鼻先で両親が首を吊ってたって……。トラウマになりますね、そんなの」


 愛莉は絶句していた。カウンターに寄りかかったまま氷像のように固まって、耳を通り抜ける悪夢みたいな話を受け止めきれずにいた。


「な、んで」


 掠れた声が、愛莉の喉を震わせる。チェシャ猫がぽつり、呟いた。


「レイシーだ」


 彼はもともと険しい顔をより険しくして、廊下の床を睨んでいた。


「以前、シロさんから聞いた。シロさんの家庭は至って平和だったのに、ある日突然、父親がレイシーに精神を乱されたって」


 声を出せずにいる愛莉に、チェシャ猫はちらとだけ目をやった。それからまた、下を向く。


「無理心中、とまでは聞いてなかったけどな……」


 頭の中に、嫌でも映像が流れてくる。自分の父親に首を絞められ、殺されかける。そして目覚めたときには、真ん前で絶命する母と父。

 きっと、思考が止まる。なにが起きたのか、なにをすべきか、なにも分からなくなる。

 取り残された幼い少年は、目の前の二体の死体が、まだ助かると思いたかったのだろう。縋り付くように、彼は救急通報をした。


『お母さんとお父さんを助けて……』


 死んでいる両親が、まだ目覚めると信じて。

 そこまで鮮明なイメージが浮かぶと、愛莉はふらりとよろめいた。そして頭をチェシャ猫の胸に預ける。


「チェシャくん」


 愛莉は震える声を絞り出した。


「チェシャくん、お願い。シロちゃんを助けて」


 チェシャ猫は返事をしない。愛莉は、は、と短く息を吸って、改めて言った。


「ダイナちゃんに頼んで、もう少し前の時間に行こう。シロちゃんの両親がまだ生きてる時間に。それで、死なないように……レイシーがシロちゃんのお父さんに取り憑く前に、チェシャくんが駆除しちゃおうよ」


 しかしチェシャ猫は、冷たく彼女を引き剥がした。


「くっつくなっつってんだろ」


 引き剥がされた愛莉の顔からは、普段の楽観的な笑顔はすっかり消えていた。白く血の気が引き、泣くよりも絶望したような面持ちで、チェシャ猫のシャツを掴んでいる。彼女のその顔を見ても、チェシャ猫の態度は変わらなかった。


「だめだ。過去は改竄できない」


「どうして!」


 愛莉は目を剥いて、手にぎゅっと力を込めた。


「どうして? どうしてそんなこと言うの!? 時空を超えられるダイナちゃんと、狩人のチェシャくんが力を合わせれば、助けてあげられるでしょ!」


 声を震わせて訴えても、チェシャ猫は首を縦には振らなかった。


「過去を勝手に覗いた上に、他人の生死まで操作していいわけがない」


「でも殺すんじゃなくて、生かすんだよ!? そしたらシロちゃんは未来も家族を失わないし、叔父さんが行方不明になっちゃうこともない。それならいいじゃ……」


「俺だって、やれるもんならやりてえよ」


 チェシャ猫の声が、愛莉の訴えを遮る。愛莉はびくっと肩を竦めて黙った。怒鳴られたわけではない。まして大声でもないのに、滲み出すほどの大きな感情をぶつけられた気がして、咄嗟に息が止まった。

 チェシャ猫は固まる愛莉を数秒睨み、舌打ちをした。


「過去の時間軸の物に干渉できないのは、あんたももう分かってるだろ。他所の時空のレイシーと俺が対峙したところで、戦えない」


「そんな」


 愛莉は泣きそうな声を絞り出した。


「あたしには、なにもできないの? ちっちゃいシロちゃん、苦しんでるのに。なにもしてあげられないの?」


 見たのに、知ったのに、なにもできない。無力な自分が虚しくて、悔しい。打ちひしがれる愛莉を、チェシャ猫は数秒見下ろしていた。やがて、再び彼女に言葉をかける。


「ひとつ、あんたにできることがある」


 それを聞いて、愛莉は顔を上げた。チェシャ猫は気だるげに頭を掻き、口を開いた。

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