見つけた入口
山根班のメンバー、否、山根を除いたメンバー五人とチェシャ猫は、各々割り当てられた場所へダイナの痕跡を探しに出かけていた。チェシャ猫は山根班の職員の女と共に、ビルのエントランスを出た。
ふたりひと組を原則とされ相棒にされたのは、先程の会議で誰より青い顔をしていた女性職員である。名前を伝えられているが、チェシャ猫は覚える気がなかったのでもう忘れた。彼らの間には、殆ど会話がない。不安げにナイフを握っている女性職員に、チェシャ猫は特に励ますでも焚きつけるでもなかった。
ふたりはまず指示されていた、ダイナを捕まえた廃工場を訪れた。
六日前に訪れたときと風景は変わっておらず、相変わらず静かな廃墟で、都会の喧騒とは切り離されたような場所である。唯一変わったところは、立ち入り禁止のテープが張られたことだ。愛莉が行方不明になった関係で、周辺一帯が立ち入りを規制されているのである。とはいえ、今は警察官はいない。
林の木々がざわざわ揺れている。ダイナが自然と触れ合うには適した空気と思われたが、ダイナの姿はなく、彼女がいた形跡も見当たらない。
「ここじゃねえか。無駄足かよ」
チェシャ猫がぼやく。
チェシャ猫の機嫌はまずまず悪かった。折角捕まえたレイシーを逃がされただけでも腹立たしいが、そのうえ捜索にも駆り出された。狩人として当然の仕事ではあるが、不要な仕事を増やされれば誰しも不愉快なものである。
加えて、問題は彼の相方だ。
捜索のパートナーとして割り当てられた女性職員は、辺りを見回しておずおずと尋ねた。
「もう次に行くんですか? まあ、立ち入り禁止区域ですしね……」
「なに言ってんだ。まだ調べるに決まってんだろ」
チェシャ猫の鋭い目つきでぎろっと睨まれ、女性職員は縮こまった。怯えた反応を見て、チェシャ猫はより不愉快な気分を募らせた。
日頃からこういう態度の彼だが、親しくないこの女性職員は慣れていない。よりによって、今回ダイナを野に放った張本人である。チェシャ猫が怒っているように見えているようで、おどおどしている。
萎縮する彼女に苛立ち、チェシャ猫は舌打ちをした。いちいち釈明をするのも煩わしい。
チェシャ猫は横でもたついている女性職員に目をやった。
「俺は雑木林の方を見に行く。あんたは?」
「あっ、えっと……」
彼女はチェシャ猫と目を合わせず、曖昧に視線を漂わせた。このはっきりしない態度がまた、チェシャ猫を苛立たせる。
これがこの職員でなく愛莉だったら、ダイナを逃がしていようと落ち込んだりはしない。失敗をしていればその分行動で取り戻すのだ。そしてチェシャ猫がどれだけ威嚇しようと怯まないし、むしろぐいぐい来る。お互いに考えていることをはっきり伝え合うので、コミュニケーションを取りやすい。
そんなことを考えて、チェシャ猫は一層気分が悪くなった。なぜ愛莉と比べてしまったのか、そんな自分に嫌気が差す。
「じゃあ、そっちの建物の裏を見に行ってくれ」
チェシャ猫がそう言ったとき、彼のコートのポケットで携帯が振動した。先程入ったチャットルームに、メッセージが届いてきている。山根が随時、情報を送ってきているのだ。
会議の場で説明された以外にも、ダイナの研究結果について補足する点があったようだ。チャットルームには、現状解明されているダイナの能力や、それに伴う考察が共有されていた。
『ダイナは時間遡行もできる。ただ、これは空間移動よりも大きなエネルギーを使う』
過去の類似レイシーのデータを思い出す。時間を移動し、狩人もそれに巻き込まれ、振り回された記録がある。
『法則性を考えると、一度のテレポートで時間と空間の両方を移動すれば、体にかかる負担は累乗式に大きくなる。別の場所の別の時間に飛ぶとしたら、今のあの子の状態なら、せいぜい十日以内しか移動できないはず』
時間まで超えられるのはかなり厄介ある。空間移動のみで物理的に距離を取られただけならまだ間に合うが、自分と同じ時間軸にいないのでは、どう追いかけても捕まえられない。
『時を移動するレイシーは、概ね共通している特徴がある。移動先の時間軸が現在から遠ければ遠いほど、その時空に適応できなくなるの』
チャットルームに、山根の吹き出しが増える。
『たとえば、数日以内に移動しただけなら、物を触ったり動かしたりできるけれど、一年前に移動すると、物を触れても動かせないくらい重く感じる。二年前まで遡れば、周りの人に声が届かなくなる。空気の伝播に干渉しにくくなるのね』
書き込みを見たシロが、疑問出しをする。
『それじゃあ何百年も移動したら、酸素にも干渉できなくなって、呼吸すらもできなくなるのかな』
『そうね。自然界のエレメントにも触れられなくなるから、呪術が使えなくなる。ダイナにとっても不利ね』
林の中に踏み込み、チェシャ猫は周囲を見渡した。木々が鬱蒼と生い茂るばかりで、ダイナの気配はない。
ダイナは、人間の事情を知るレイシーだ。人間の弱みを握ったら、どう使うのが最善か。ダイナがなにを考えるか。自分がダイナの立場なら、どうするか。チェシャ猫はしばし考えた。
レイシーが人間に発見されたのは、一八六五年である。それより前に遡って、人間がレイシーを見つけないように過去を改竄すれば、レイシーに有利な未来になる。
しかし山根の報告を鑑みると、ダイナが百年以上前まで遡るとは考えにくい。
ならば数日以内の現代の時間軸を移動し、他のレイシーらとコンタクトを取り、人間側の事情をリークするだろうか。多くのレイシーに狩人の存在や、自身が見てきたポイソンコーポレーションの様子を教え、危険を周知する。
レイシーは共感力がなく協調性もないので、他のレイシーなど興味がないのかもしれない。だが、自分が握っているのは、人間を有利に喰えるようになる、レイシーにとって有益な情報だ。これを利用すれば、相手が人間でもレイシーでも有利な取引ができる。
ダイナが時間を移動したとすれば、数日以内。未来の自分が駆除していてくれればいいが、などと、チェシャ猫は思った。
「痕跡、ないです」
女性職員の声が聞こえる。チェシャ猫は返事をせず、林を進んだ。どうもあの職員とは波長が合わない。愛莉とも合うわけではないが、彼女とは付き合いづらさは感じない。
また愛莉と比べてしまった自分に苛立ち、眉を顰め、ひとつ大きく息を吐いた。
そこまで考えて、チェシャ猫はハッとした。
「……あいつ」
愛莉がいなくなったのは、六日前。ダイナを捕獲した日だ。
もしかして愛莉は、ダイナの時空移動に巻き込まれて、この時間軸から外れてしまったのでは。
そう考え至った彼の目に、妙なものが留まった。
林のうねった木々の間に、白い糸くずのようなものが浮かんでいる。蜘蛛の巣のように見えたが、そうではない。木に繋がっているのではなく、空中にぷかりと浮かんでいるのだ。
「なんだこれ?」
チェシャ猫は躊躇なくそれに指をつけた。押さえつけられた白い線は、ぐにゃっと歪んで伸びる。押せば押すほど、線は伸びて真ん中の辺りが太く広がっていく。
触ってみて気づいた。これは糸やくずのような物体ではなく、空間に刻まれた亀裂だ。
チェシャ猫は亀裂に指を引っ掛け、大きく横に引き裂いた。障子紙を破くような軽さで、空間の亀裂は大きく口を開けた。初めて見るものだが、かなり怪しい。ダイナが時空移動に使う、ワームホールかもしれない。
少し離れた場所から、チェシャ猫を呼ぶ女性職員の声がする。
「チェシャさん。ダイナの痕跡ありません。そろそろ移動しませんか?」
チェシャ猫は声の方を振り向き、返事をしようとした。ここに妙なものがある――と、伝えようとしたのだが。
声を発する前に、開いた入口に手を突っ込んでしまったのがいけなかった。体がぐいっと引っ張られ、チェシャ猫の体が傾く。
「は?」
腕から引き込まれるように、チェシャ猫の体は吸い込まれていった。
感覚としては、プールに飛び込んだときの抵抗感に似ていた。体が跳ね返されるような反発と、引きずり込まれるような感覚が同時に襲ってくる。
周りは真っ白で、なにも見えない。頭の感覚が奪われ、手足の自由が効かない。
無重力の中を漂うように、チェシャ猫の体が回転する。入口に戻ろうにも、足がつかなくて自由に歩けない。そもそもどこが地面なのか分からない。
どうしたものかと思っているうちに、彼はみるみる、白い空間の底へと沈んでいったのだった。