緊急招集・緊急会議・緊急出動
「最悪だわ。世界初生け捕りに成功したレイシーを解き放ってしまったなんて……とんだ恥晒しよ」
ポイソンコーポレーションの会議室で、山根の静かな怒声が響く。この日朝から、緊急会議が執り行われた。
集められたのは、チェシャ猫とシロと、ダイナの監視係だった山根班のメンバー六名である。内ひとりは、青い顔で下を向いたまま凍りついていた。
日頃ふわふわした山根だが、この日ばかりは眉間に深い皺を刻んでいた。
「レイシーの取り零しが大事件に繋がってしまうのは、先日の件で痛感させられてるというのに……」
あまりのピリついた空気に、シロが苦笑いをした。
「まあまあ、レイシーなんてそもそもが野に放たれてるものなんだから」
「そうだけど、あのレイシー……ダイナは事情が違うわ。あれは、調べられている側でもあったけれど、同時に人間側の都合を知ってしまっている」
この事態のなによりの問題は、ダイナがポイソンコーポレーションの地下室や、ここの研究員、取り仕切る役所、狩人の存在を認知していることだ。
これまでレイシーらは、自分が襲われなければ、人間の中に狩人がいると知らずにいる。だから、人間はようやく対等に向き合えたのだ。
しかし、ダイナは人間側の組織や設備を見ている。これを他のレイシーたちに伝えられたら、折角守ってきた人間側の足場は崩れ、一気に不利になるのだ。
「レイシーだけじゃない。人間の中にも、この間捕まった少年……小栗海代くんのような思想の人物がいるかもしれない。早急に、そして絶対に、ダイナを捕獲するわよ」
深刻な面持ちの山根に、会議室がしんと静まり返る。重い空気の中、チェシャ猫が気だるげに沈黙を破った。
「あの手は狡猾なレイシーだというのは、研究してるあんたらがいちばん分かってるはずだよな。ダイナは人間に屈したふりをして、外へ出る機会を窺ってた」
ダイナは自然界のエレメントに触れ、呪術を使う。地下室には、呪術に必要な自然界の物がない。だからダイナは、無知な素振りで人間を油断させ、外へ出るチャンスをはかっていたのだ。
「最初からずっとだ。あいつは俺に手を縛られた時点で、無駄な抵抗をやめた。その場を凌ぐより、人間に取り入った方が確実に逃げられると理解していた」
六日前、ダイナはチェシャ猫と出会い、一旦は逃げようとしたがすぐに捕まった。それからの彼女は無抵抗だった。暴れたら殺される。しかし友好的な態度を取れば、人間は自分を生かす。咄嗟にそう判断したのだ。
甘えん坊で無邪気な様子を装い、人間にされるがままになる。どこかへ収容されても、手の拘束を解かれ、日の光さえ届けば、どこへでもテレポートできる。そこまで計算できていたから、余裕を持っていたのだ。
「でも収容場所が地下だと知った途端、血相変えて、小賢しい嘘までついて地下を嫌がった。地下室には自然界の物質が届かないから」
ダイナは「地下でも意味がない」と嘘をつき、別の場所へ誘導しようとしたが、失敗した。
地下に収容されたダイナは、長期戦を覚悟した。まずは拘束を解かせるために、人間を油断させる。牙を見せなければ、人間は同情して暇潰しの道具を寄越す。手を使えるようになったら、次は外へ出られるよう人に媚びる……。
全て、計画の内だった。
俯いていた職員が、震える声を絞り出す。
「過去にいたダイナに似たレイシーは、狡猾なものが多かった。でもダイナはきっと違うと思ったんです。ダイナは打算なんかしてない。心から、人間に懐いてるんだって……」
「そんな錯覚を起こさせるのが、あの子のやり方なの。危険性は周知したし、注意喚起したわよね?」
山根の声は、荒らげているわけでもないのにぞっとするような迫力があった。職員の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「だって……あの子は、私に懐いてくれて、絵を描いてくれた。大好きだって……」
「だめね、完全に惑わされてる。……まあでも、私も人のこと言えないか。私もモニタールームからあの子を見てると不憫になってきたし、かわいく見えたりもしたわ」
山根が唸ると、他の職員らも複雑そうな顔で下を向いた。逃がした職員ひとりの責任ではない。彼らは誰もが、ダイナを甘く見ていた。
チェシャ猫が険しい顔で彼らを見渡す。
「ああいや、あんたらを責めるために言ったんじゃない。どこまで分かってたか確認しただけだ。それより、次どう動くか指示をくれ」
鋭い眼光を向けられ、職員らがびくっと肩を縮こまらせる。それを見て、シロが苦笑した。
「チェシャくんはこう見えて怒ってるわけじゃないよ。怒ってもいるだろうけど、とりあえず一旦、反省会は後回しにしよう。今は逃げたレイシーを捜し出すための策を練ろうよ」
彼の切り替えを受け、山根はしばし押し黙ったあと、そうねと呟いた。
そして会議机の下に頭を潜らせたかと思うと、すぐに顔を上げた。机の上にドンと、ダンボール箱を置く。全員の注目が集まる中、山根は箱を開け、その中身を取り出した。
それを見て、班のメンバーは息を呑む。山根の手に握られていたのは、鋭く尖った小型のナイフだったのだ。
「銀のナイフよ。これからあなたたちに、これを装備してもらう」
山根は鞘に入れたナイフを班のメンバーらへ配っていく。
「ここへ集合をかけたのは、緊急捜索のため。このあと他の地域の狩人に救援を要請するつもりだけど、彼らが来てくれるまでの間に、ここにいる顔ぶれでダイナの手掛かりを集める」
彼女は、普段ののんびりした話し方からは想像できない早口で告げた。
「ダイナを発見したと仮定して、狩人であるチェシャくんが応戦できればベターだけど、そう上手くいくものじゃない。誰が発見してもある程度は攻撃できるよう、武器を持ってもらうわ」
ひとり一本、ナイフが正面に置かれていく。研究員でありレイシーとの実戦経験はない山根班メンバーは、緊張の面持ちでナイフを手に取った。
ナイフを配り終えた山根は、今度は会議室に設置されているホワイトボードの前に立ち、ペンのキャップを開けた。
「不幸中の幸いにも、あのレイシーは捕獲から六日間、身体検査や実験、聴取をして研究が進んでる。情報が少なかった初見の状態より、いくらか体質が解明されてる。行きそうな場所の見当はつくの」
山根はそう言うと、ホワイトボードに乱雑な字と図を書きはじめた。
「まず、彼女が使う自然界のエレメント。光や水や植物ね。ダイナの体は、それらの持つ呪波を常に浴びることで力を保つ」
「そうなんだ。じゃあダイナちゃんは、数日その呪波を受けられない地下に幽閉されていたから、力が弱まっているね。外へ出たとしても、急には大きな呪術は使えないか」
シロが言うと、山根はペンを片手にこくりと頷いた。
「ええ。テレポートを使ったとしても、そう遠くへは行けないわ。せいぜいこの界隈、区内と見て妥当ね。一旦、自分にとって都合のいい場所へ移動して、そこで力を溜めて行動範囲を広げてから、本格的に逃げるはずよ」
「そうなる前に捕まえたいね」
「完全回復したダイナのテレポートは、どこまで飛べるか計り知れない。そうなったらもう捕まらないわ。早い段階で手を打たないと、手遅れになる」
それから、山根はさらに説明を書き加えた。
「続いて、ダイナちゃんの呪術について。少量の水と天然の鉱物を与えて呪術を使わせたところ、これらは物質としての構造が単純なものほどコストが低く、大きな呪力を形成しやすいと判明してるわ。逆に人工物は呪波を遮断する」
「つまり、ダイナちゃんは人工物が少なく、自然の物が豊かな場所へ移動する」
シロはそうまとめ、宙を仰いだ。
「区内だと、河原、高台、自然公園辺りが怪しいかな。自然の物があってひらけた場所というと結構限られてるし、案外すぐに見つかるかも」
「特に可能性が濃厚なのは、ダイナを発見した廃工場よ」
山根はホワイトボードに数式を書きはじめた。
「実験によると、ダイナの呪術は彼女の脳内の映像と強くリンクするようなの。要するに、ダイナが頭の中で想像しやすい呪術は成功率が高い」
強い風を起こしたい、などのイメージが明確に浮かぶものは上手くいく。逆にどこかへ移動するなど、景色を詳細に思い浮かべる必要がある場合は難しいのだ。
「それを踏まえると、ダイナの出現スポットだった廃工場は、ダイナの記憶にしっかり残っていて、イメージしやすい場所といえるわ」
雑な文字で式や単語を書きとめ、山根はペンにキャップをした。
「とはいえダイナの拠点が廃工場だけとは限らないわ。似た条件のスポットをピックアップして、ポイントを絞って捜しましょう。これから誰がどこへ行くか決めるけど、全員身バレしてるからレイシーに狙われる危険があるわ。最低でもふたりひと組で動くこと。くれぐれも単独で行動しないように」
山根はそう言うと、ペンの色を換えて、ホワイトボードにシロが口にした場所を書き並べた。それからちらりとシロに目をやる。
「シロちゃんは私と一緒にここで待機ね。私は班の責任者として残り、シロちゃんには私の方の手伝いをしてもらう」
山根は今度は、白衣から携帯を取り出す。
「今から全員に同じチャットルームに入ってもらうわ。ダイナを見かけたら即報告、いえ、ヒントを見つけたとか、居そうな場所を思いついたとかでも、どんな些細な気づきでも共有すること。ダイナの居場所を絞ったら、チェシャくんは優先的にそっちへ向って」
「はいよ」
チェシャ猫が面倒くさそうに返事をする。山根は全員を見渡し、最後にチェシャ猫と目を合わせ、静かな声で言った。
「もう一度言う。早急に、絶対に、ダイナを捕獲しましょう。見つけたら殺してもいいわ」
そうして、チェシャ猫とシロと山根班による、緊急ダイナ捜索が始まった。