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愛嬌は凶器

 その日は、天気が良かった。真冬なのに、それも早朝なのに暖かくて、まるで春が来たみたいだった。


 とあるポイソンコーポレーションの職員は、柔らかな日差しを見上げて目を細め、そして本社ビルの自動ドアを開けた。社内では出勤時間が早い方だ。エントランスを見渡しても、まだ他の職員は疎らにしかいない。

 出社して彼女が最初に向かうのは、モニタールームである。ほんの数日前に増えた仕事だが、彼女の中ではすでに日課になっていた。

 モニタールームの扉を開ける。待機していた当直の職員と、バトンタッチする。室内には、点きっぱなしのモニターがやけに煌々と光を放っている。眩しい画面の中は、箱のような無機質な部屋と、そこにしゃがむ少女――ダイナが映し出されている。

 ダイナがここへやって来て、明日で一週間になる。彼女は毎日、大人しく過ごしていた。外へ出たいとはひと言も言わない。今日も、変わった様子を見せない。寝起きなのか、長い髪をぼさぼさに乱して、ぼうっと座り込んでいた。


 ダイナが来て間もない頃、とある職員がマットレスを持ってきた。その翌日、別の職員がぬいぐるみを用意した。

 今や、大人しくて人懐っこいダイナは、職員たちからかわいがられている。モニタールームに座るその職員も、昨日、ダイナの部屋に画用紙とクレヨンを持ち込んだ。

 ダイナは喜んだが、右手だとクレヨンを使えないと判明した。どうやら左利きらしい、と思った職員は、彼女の左手の手錠を外す。左手が自由になったダイナは、その手でクレヨンを握って楽しそうに絵を描きはじめたのだった。


 そしてその翌日の朝、今日のことだ。職員はマイクのスイッチを入れ、モニターに映るダイナに声をかけた。


「ダイナ、おはよう」


 声が地下室に届き、ダイナがぴんと背筋を伸ばす。


「オハヨー! 待ってた、オハヨ!」


 カタコトの日本語で返事をしたダイナは、両手が開放されていた。クレヨンを貰って手錠を外されたまま、まだ拘束されていないのだ。

 当直の職員による日誌を開く。ダイナは夜遅くまでクレヨンを握っており、そのまま眠ったとある。当直の職員は、手錠を嵌めようかとも考えたが、ダイナは眠っているし、自然物のない地下室では左手を開放しても問題ないと判断したらしい。


 ダイナはわたわたと慌ただしく立ち上がり、そして毛布の横に伏せてあった、紙に飛びつく。


「これ、見て!」


 ダイナはモニタールームに繋がるカメラに向かって、背伸びをした。拾った紙を掲げ、モニターから見ている職員に向けてそれを広げてみせる。


 それは、昨日彼女に与えた画用紙だった。クレヨンで描かれていたのは、ダイナの監視係を受け持つ職員たちの似顔絵である。よれて歪んだ拙い文字で、「トモダチ」と大きく書かれている。


 モニタールームの職員は、咄嗟に口を手で押さえた。画用紙を突き出す無邪気な笑顔に、涙が出そうになる。

 この少女がレイシーなのは分かっている。人を喰う危険な化け物だ。だが、それでも愛しくて堪らない。


「ありがとうダイナ。上手だね」


 職員が声をかけると、ダイナは満足そうに満面の笑みを浮かべた。職員は、マイクに向かって優しく語りかける。


「髪がぐちゃぐちゃだよ。梳かしにいくね」


「来てくれル? 嬉シイ。ダイナ、待ってるヨ」


 目をきらきらさせるダイナに胸をきゅんとさせ、職員はモニタールームをあとにした。速歩きで地下室に向かい、厳重にかけられた鍵を開け、ダイナのいるその部屋の扉を開ける。ダイナは彼女を見るなり、絵を持って駆け寄ってきた。


「あげる!」


「ありがとう。大事に飾るね」


 天真爛漫なダイナの愛嬌に、つい頬が緩む。職員は絵を受け取ると、櫛を手に床へしゃがんだ。


「はいダイナ、ここに座って」


「うん!」


 ダイナは職員に背を向けて、彼女の前にちょこんと座った。職員はダイナの絹糸のような金髪に櫛を入れる。絡んだ長い髪は、櫛を通すとするすると解けて真っ直ぐになる。その指からすり抜けるような触り心地に、うっとりしてしまう。


「ダイナの髪はきれいね。触ってると気持ちいいよ」


「ダイナも、毛繕いしてもらえるの、好き」


「そうだダイナ。この髪、もっとかわいくしてあげる」


「本当!? して!」


 声を弾ませるダイナの髪を、職員は丁寧に整えた。首の後ろでふたつに分けて、分けた束の片方をさらに三つに分ける。細い髪を指の間に潜らせ、編んでいく。

 やがてダイナの金髪は、ふんわりとした三つ編みスタイルになった。

 できあがった髪の束を両手で掲げ、ダイナは嬉しそうにはにかんだ。


「すごい、かわいい、アリガト!」


 狭い部屋をぴょんぴょんと跳ね回って、三つ編みの髪を触って、また駆け回る。そしてダイナは、職員の胸に飛び込んできた。


「ダイナ、ぽいそんの皆、大好き。皆、大好きだけど、お姉さんのこと、いちばん大好き!」


 ダイナが職員を抱きしめて、愛しそうに顔を見上げる。きらきらしたあどけない笑顔が、職員の胸にずきんと突き刺さった。

 狭い檻の中、日差しの届かない冷たい部屋に閉じ込めているのに、それでも「大好き」と言ってくれる。こんなに酷い仕打ちをする人間に、自分に、懐いてくれる。

 ダイナはレイシーだ。人を喰う化け物なのだ。それは分かっている。頭では分かっているのだ。

 だけれど、ダイナがなにをしたというのだろう?


 頭に浮かんだのは、今日の天気だった。

 暖かくて、春が来たみたいだった。

 そうだ。折角おしゃれしたのだから。天気がいいのだから。春が来たのだから。

 彼女は、ダイナの頭をそっと撫でた。


「ねえ、ダイナ。少しだけ、外に出てみようか?」


 朝の早い時間だから、きっと誰にも見つからない。

 会社の敷地内なら大丈夫。

 少しだけ、外の空気を吸わせてやってもいいはずだ。


 職員はダイナの手を取り、地下室を出た。エレベーターで地上へ上がり、裏の出入り口からダイナを外へ連れ出す。

 外は相変わらず、暖かな天気だった。春のような日差しと温もりを孕んだ風、青い空、揺れる草木。日光を浴びて煌めく、ダイナの三つ編み。

 ダイナは空を見上げた。深呼吸をして、細い両腕を広げて、ぱたぱたと駆け出す。踊るように回って、風を浴びて、地面に落ちていた木の葉を拾う。

 そして、すっと指を手前に突き出し、甘えた笑顔を職員の方に向けた。


「お姉さん、アリガト。大好き」


 直後、ぶわっと突風が吹いた。

 ダイナの三つ編みが吹き上げられる。職員は顔を覆った。


「ひゃっ。ダイナ、大丈夫?」


 乱れた髪を手で梳かし、名前を呼んだ。だが、返事はない。それどころか、そこに立っているのは自分しかいない。


「……ダイナ?」


 ダイナが、姿を消している。

 このとき初めて、彼女は自分が犯したとんでもない判断ミスに気づいた。


 十分後、チェシャ猫の携帯とシロの店、その両方に緊急の連絡が入ることになる。珍しく慌てた山根の声が、電話越しにチェシャ猫の耳を劈く。


「ダイナが脱走した!」

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