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復讐の熱量

「一日だけ検査入院するけど、すぐ帰れるってさ」


 近くの病院の一室。チェシャ猫の横たわるベッドの脇で、シロがにこにこ微笑んでいた。


「どこか痛む?」


「どこも痛くない」


 チェシャ猫が不機嫌面で返すと、シロはより嬉しそうに目を細めた。


「じゃあきっと無傷だ。良かったね」


 あのあと、チェシャ猫と小栗は病院へ運ばれた。

 ビルの屋上から落ちたふたりは、警察が用意したクッションに受け止められ、無事だった。とはいえ小栗は脳震盪を起こして失神しており、着地まで意識があったチェシャ猫も、大きかった衝撃に呑まれて気絶した。

 チェシャ猫の意識は病院で戻り、気づいたら病室に寝かされていたのだった。


「飛び降りって、高所から落ちる途中で意識失うから怖くないと聞いてたんだけど……嘘だったな」


 チェシャ猫がぽつりと言うと、シロは困り顔で笑った。


「君、着地してから気絶したもんね。落下で意識が飛ぶにはかなりの高さが必要らしいよ。いずれにせよ、落ちてる間は意識があったチェシャくんは気の毒だね」


「全くだよ。下にクッションあるの分かってても、嫌なもんは嫌だぞ」


「ははは。内臓破裂しなくて良かったね」


 怪我も痛みも殆どなく、意識も回復したが、チェシャ猫の機嫌だけは直っていなかった。


「こうなるの分かってたんだから、警察なりなんなりを俺の方に置いてくれても良かっただろ。なんで俺ばっかひとりで、あいつと対峙するはめになったんだ」


「ね。普通ならふたりが危なくなったときのためにこっそり誰かつけるよね。まあでも結果的に無事だったじゃないか」


 シロは適当に返事をして、それから苛立っているチェシャ猫の顔を覗き込んだ。


「容疑者を無事に確保できたのは、チェシャくんがあの手紙を受け取って、すぐに報告してくれたからだね。お疲れ様」


 昼間、小栗がシロの店から出ていくなり、チェシャ猫は手紙を速攻シロに見せた。シロのためにも愛莉のためにも内密にするようにと、小栗から念押しされた、あの手紙である。

 手紙が正真正銘本物の愛莉からのものであれば、小栗の言うとおり隠した方が良かったかもしれない。しかしチェシャ猫はあれが愛莉の作文ではないと気づいたので、小栗の指示を聞く必要がなかったのである。

 シロが柔らかな声で労う。


「チェシャくんが、あの手紙が小栗くんからだと見破ってくれたおかげで、事前準備を整えられた。役所にも即座に報告できたし、役所が現場に警察を配備してくれた」


「そうだ、感謝しろ」


 チェシャ猫は寝返りを打ち、シロに背中を向けた。短い沈黙のあと、チェシャ猫は小さく切り出す。


「それで、容疑者はどうしてる?」


「彼も目を覚ましたよ。魂が抜けたみたいな顔してるけどね。もう少し安定したら、警察が任意で聴取するってさ」


 シロは壁に背中を預けて、ゆっくりと話した。


「今の時点ですでに、少しずつ諸々を話してる。全部、認めたよ」


「そうか」


 チェシャ猫は枕に頬をうずめ、うわ言のように返した。

 これまでの狩人狩りは、やはり小栗が黒幕だった。彼はレイシーから情報を集め、狩人を特定した。誘き寄せ、飛び降りに見せかけて高所から落とす。


「チェシャくんが推理したとおり、小栗くんは愛莉ちゃんを見つけて、彼女の傍に狩人がいると気づいた。愛莉ちゃんに近づくように見せかけて、彼の目的はチェシャくんの方……いや、狩人という存在そのものだったんだ」


 シロはチェシャ猫の後ろ頭に、淡々と告げた。


「そこまでは認めてるけど、愛莉ちゃんの行方不明とは関係ないみたい。あくまで彼女がいなくなったのを利用しただけで、消えたこと自体は彼もなにも分からないそうだよ」


「チッ。手掛かりにもならねえのかよ」


 チェシャ猫が舌打ちする。シロは少し、目を伏せた。


「まあ、彼が殺したんじゃなかっただけ良かったよ」


 チェシャ猫を誘き出すために、愛莉を餌にした――そんな小栗なら、愛莉を利用するだけ利用して捨て駒にする可能性すらあった。

 シロが宙を仰ぐ。

 

「因みに、愛莉ちゃんが僕らを売ったわけでもないみたいだよ。彼女が小栗くんに情報を流してたのかなってちょっと疑っちゃったんだけど、小栗くん曰く、愛莉ちゃんからは全然情報が出てこなくて苦戦したとのことだ」


 シロが言うと、チェシャ猫は小声で「あっ」と呟いた。愛莉が裏切っていた可能性があった、と、今気づいたのである。そんな彼を眺め、シロは力なく微笑んだ。


「いろいろと合点がいくね。愛莉ちゃんに酷い振られ方をしてもさほど傷ついた様子もなく、振られたにも拘わらず愛莉ちゃんから離れない。恋のライバルを調査するふりをして、チェシャくんを掘り下げようとする。改めて考えてみたら、ヒントはたくさん散りばめられていたよ」


「だとしたら、子猫の写真に猫のレイシーを写り込ませたのも……もしかしたら、意図的に写したのかもな。俺たちはあのガキの策にまんまと嵌ってたってことだ。だっせえな」


 チェシャ猫がより機嫌の悪い声で言う。シロは、はは、と乾いた笑い声を洩らした。


「本当だね。全く疑ってなかった。情熱的で気の優しい、そして健気ないい子で。愛莉ちゃんの良さを誰より分かってて、好きになってくれた、そんな子だって思いたかったのに」


 シロがふう、と寂しげに息を吐く。


「……信じたくないな、こんな結末」


 人を喰うレイシーが、人間にとっての敵のはずだ。喰われる側である人間は、同じ人間として、狩人が守るべき者のはずだった。

 だが悪意、憎しみ、歪んだ正義感で人を殺す人間が、そこに存在した。

 それはある意味、生存欲求で人を喰うレイシーより、危険なものだったのかもしれない。


「化け物よりも、化け物と化した人間の方が恐ろしい。という古典的なオチだな」


 チェシャ猫がぼそっとぼやく。頭の中に、小栗の声が蘇る。


『あなたはレイシーが、人を喰う化け物だから殺すんでしょう! なら人殺しの俺も化け物だ。これは化け物退治だ。殺せばいいだろ!』


 化け物とは、なにをもってして化け物なのか。

 彼はなぜああも極端な正義に走ってしまったのか。救いはなかったのか。

 レイシー退治を繰り返す自分も、化け物と化すギリギリのところにいる。自分たち人間にとって害があるから、レイシーを狩っている。それは小栗の言うとおり、独善なのだ。

 悶々と考えてみたが、胸の奥が苛つくだけで答えは出そうにない。チェシャ猫は考えるのをやめた。

 シロが床に視線を落とす。


「ねえ。小栗くんのこと、愛莉ちゃんになんて説明しよっか」


 行方不明で数日が経ち、いまだ見つからない愛莉。


「小栗くんに利用されてたって知ったら、きっと傷つくよね。泣いちゃうかもしれない」


 ふう、と、静かなため息がシロの口から洩れる。


「どこにいるのかな。今頃どうしてるんだろう。こんなに寒いのに、大丈夫かな……」


 チェシャ猫は不快そうな顔のまま、ぼそりと返した。


「そのうち出てくる」


「そうだね」


 チェシャ猫の背に、シロは視線を戻してのんびり語りかけた。


「チェシャくんはさあ。ビルの上で小栗くんとどんな話をしたの?」


「特に大した話はしてない。あいつが自分は正しい、間違ってないってうるせえから、うるせえなと言い返してた」


「ははは……君らしいね。それで屋上で小栗くんと喧嘩の果て、揉み合いになって一緒に落ちた?」


「まあ、そんなとこ」


 チェシャ猫が粗笨に返すと、シロはいたずらっぽく笑った。


「そういう返事をするのも君らしいね。本当は、小栗くんが飛び降りようとしたのを本気で止めようとしたんじゃない? ビルの下でクッションが準備されてるの分かってたのに、放っておけなかったんじゃない?」


「!?」


 背を向けていたチェシャ猫が、もぞっと動いてシロを見上げた。シロがよりにんまりする。


「そして自分も一緒に落ちてあげた。手を離せばチェシャくんは落ちずに済んだのに、わざと」


 チェシャ猫は返事をしない。無言の彼に、シロは滔々と続けた。


「人間社会にいながら人間を敵視して。人間を騙すことだけ考えてきて。彼が味方するレイシーは、表面上協力していたとしても所詮は人間を喰う者で、気を抜けない。気を許せる人がいなかった。そんな小栗くんがひとりぼっちに見えて、同情したんじゃないか」


 だから、差し伸べた手を離したくなかった。

 にこにこと微笑むシロを数秒睨み、チェシャ猫はまた、ぷいっとそっぽを向いた。


「うぜー。勝手な想像で創作すんな」


「ははっ。ごめんね。野暮だったね」


 シロはより可笑しそうに笑うと、小首を傾げた。


「ところでチェシャくん、あの手紙が小栗くんの文章だって、どうして分かったの?」


「そんなの、あの女子高生の文じゃなければ、必然的に他の誰かが書いたものだからだよ。そうなると、手紙を『拾った』と言って直接手渡してきた小栗がいちばん怪しい」


 ぶっきらぼうに答えるチェシャ猫に、シロはそうじゃなくて、と首を振った。


「小栗くんのあの手紙、すごい完成度だったでしょ。あれを見て、愛莉ちゃんの文じゃないと気づいたのがすごい」


 チェシャ猫が小栗から渡された手紙は、愛莉の話し方やメールの文章そっくりだった。


「小栗くんは、愛莉ちゃんから情報を抜き出すためにたくさんメールしてたみたいだから、あそこまで似せられたんだろうけどさ。それにしたって愛莉ちゃんらしさをかなり再現してた。チェシャくんはなんで、あの手紙が愛莉ちゃんの文じゃないって見抜けたの?」


 シロになにげなく問われて、チェシャ猫はああ、と気だるげに唸った。あの文章はたしかに愛莉の雰囲気そのものだった。

 しかしあれには、致命的なミスがあったのだ。


「あいつは宛名を書くとき、『へ』を『え』と書く。そしてその癖を、自己流だと言い張っていて直す気がない。その時点であいつの文じゃなかった」


 愛莉が小テストの裏側に書いた、チェシャ猫へのラブレターがそうだった。興味のないことには全く関心を示さない愛莉は、チェシャ猫に誤字を訂正されても受け入れる気配がなかった。

 それを聞いてシロは、数秒ぽかんとしていた。

 そして、ふはっと噴き出す。


「あははっ、そういえばそうだったね。よく覚えてるなあ。愛莉ちゃんとたくさんメールして研究した小栗くんより、チェシャくんの方が一枚上手だったわけだ」


 手を口に押し付け、くつくつと可笑しそうに笑った。


「君、疎ましそうにしてるけど、本当は愛莉ちゃんをよく見てるよね」


「なに笑ってんだよ。面白くねえだろ別に」


 チェシャ猫の機嫌は、ますます悪くなった。

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