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氷のダイヤモンド

 九・八、メートル毎秒毎秒。

 少年の頭の中に、そんな言葉が浮かんだ。

 廃ビルから落下していく自分の体に、重力加速度が加わっていく。真っ暗闇の中に落ちていく感覚は、まるで地獄へと飛び降りたみたいだ、などとくだらないことを思ったりした。

 意識が遠くなるのを感じて、彼は目を閉じた。

 頭の中がとろけて、記憶がフラッシュバックする。つんと詰まった耳の奥に、子供の声が聞こえる。瞼の裏に、金網のフェンスと足元に広がる雑草の、懐かしい景色が見えた。


 *


 幼稚園の裏庭は、幼少期の彼の秘密の場所だった。

 雑草が生い茂った小さい空間に、長く放置された倉庫がひとつ。周囲は金網のフェンスで隔てられて、その向こう側には、裏通りの狭い道路が通っていた。

 幼い頃の彼は、組の友達といることに飽きたとき、ここでこっそりひとりの時間を過ごした。

 幼稚園からすれば、子供の侵入を想定していない見捨てられた場所だったが、彼にとってはここは楽園のようだった。鬱蒼と茂る雑草は、季節ごとに違う花が咲く。見たことのない虫がいる。

 なにより、園舎を隔てて聞こえる、他の子供たちの声に高揚した。「自分」と「その他大勢」を切り分けたような、特別な気分に浸れる。


 そんな場所に、「彼女」は現れた。


 フェンス越しの道路には、時々人が通りがかった。裏道とはいえ一般道なので、当然、人が行き交う。「彼女」はその中のひとりだった。

 黄色いワンピースに白いカーディガンを羽織った、若い女性だ。胸までの長さの髪を肩から垂らしており、袖から覗く手指は華奢で色白だった。

 少年も最初は、特に気にも止めなかった。だがいつしか、彼女は他の人間と違って、毎日必ず同じ時間に現れることに気づいた。それも必ず同じ服装、同じ髪型で、日焼けもしない。季節が変わっても彼女はずっと変わらないのだ。

 この違和感に気づいた数ヶ月後、少年は初めて彼女に声をかけた。


「お姉さん、こんにちは」


 このひと言で、延々と歩くだけだった彼女が別のアクションを取った。少年の方を振り向き、声を発した。


「こんにちは」


 落ち着いた、優しげな声だった。


 少年はフェンス越しの彼女に問いかける。


「毎日通るよね。なにをしてるの?」


「なにも。君はなにをしてるの?」


「……なにも」


 この日以来、ふたりはフェンスを挟んで会話を交わすようになった。

 なんてことのない、ただの挨拶と、それに付随する天気の話。今日咲いた花のこと、見つけた虫のこと。

 園舎を隔て、他の子供たちの笑い声が聞こえる。「自分」と「その他大勢」は、いつの間にか「自分と彼女」と、「その他大勢」に変わった。自分だけが知っているこの女性との秘密の時間が、この切り取られた場所を一層特別な世界にした。

 初め、この場所は、集団に嫌気が差したときの逃げ場でしかなかった。だがいつしか、彼女の存在が、少年がここへ来る理由になっていった。


 そんな日常が終わったのは、半年後。

 少年がこの幼稚園を卒園する年の、冬だった。


「お姉さん! 今日は雪が降ったから、葉っぱがうっすら凍ってる。宝石みたいできれいだよ」


 少年が雑草を掻き分けて、フェンスの向こうの彼女に駆け寄る。

 相変わらず黄色いワンピースに白いカーディガン姿の彼女は、彼に向かって柔らかに微笑んだ。


「本当ね。まるでダイヤモンドだわ」


「ダイヤモンド!」


 それを聞いて、少年は閃いた。


「お姉さん、少しそこで待ってて」


 彼は長い草の葉を一枚引き抜いて、小さな輪を編んだ。これは指輪だ。家にあった母親の指輪を真似て作った。

 そこに薄い氷を乗せてみたが、氷の粒は手で触れると溶けてしまう。

 少年は試行錯誤した。フェンスの向こうでは、彼女がきょとんとした顔でこちらを見ている。それを後目に、焦りを募らせる。

 ダイヤの指輪を作りたい。そして彼女をプレゼントして、大好きだと伝えたい。

 それなのに、氷のダイヤモンドは触れただけで消えてしまう。彼はむうと唸って、彼女の方を振り向いた。


「お姉さん、待ってね。もう少しでできそうだから……」


 そして少年は、背後の景色に絶句した。

 フェンス越しの彼女が、見知らぬ男にナイフを突きつけられている。

 分厚いコートを着た、壮年の男だった。男は険しい顔で彼女を睨み、彼女は無表情で男を見ていた。

 少年は、そこから立ち上がれなかった。


「おねえ、さ……」


 彼女を呼ぼうとしたが、声にならない。

 ナイフが、彼女の胸に刺さる。その傷口からは血が噴き出したりはせず、代わりに黒い灰がぱらぱら零れた。

 ワンピースが黒く染まっていき、粉になって、崩れていく。

 石になっていた少年は、突如、弾かれたように立ち上がった。


「お姉さん!」


 指輪はどこかへ投げ捨ててしまった。

 転がるように駆け寄って、フェンスにしがみつく。ナイフの男はやっと少年に気づき、ぎょっと目を剥いた。


「君は!? いつからそこに!?」


「お姉さん、お姉さん!」


 少年はフェンスに指を絡ませ、額を貼り付けて叫んだ。彼女はさらさらと砕け散り、灰の塊に変わっていく。


「お姉さん!」


 目の前に彼女がいるのに、彼女が刺されているのに、フェンスが邪魔でなにもできない。触れるどころか、手を伸ばすことも叶わない。

 金網を揺すって泣き叫ぶ彼を、ナイフの男は青い顔で見下ろしていた。

 少年はキッと目を吊り上げ、男を威嚇する。


「お前、なんてことしたんだ! なんでお姉さんを!」


 男は呆然と彼を眺め、青い顔で言った。


「酷い……こんな幼い子供を狙っていたのか」


「答えろ! なんでお姉さんを……!」


「ボク。よく聞いて」


 男はそう切り出すと、少年の背丈に合わせて地べたにしゃがんだ。


「あのお姉さんは、人間じゃない。化け物なんだよ」


 目線が揃った男の顔は、人殺しには見えない優しい面持ちをしていた。


「あれはね、周りに馴染めない人間に近づいて、精神を喰ってしまう化け物なんだ。君があのお姉さんと仲良しだったのだとしたら、あのお姉さんは君の孤独に漬けいって、喰う気でいたってことなんだ」


 男がなにか言っていたが、少年の耳には届いていなかった。


「返せ。お姉さんを返せ……!」


 氷のダイヤモンドは、触れた熱だけで呆気なく溶けてしまう。幼い少年の淡い初恋は、儚く散った。


 そして少年は、復讐を誓う。


 この世界には、人ならざる者がいる。それを狩る者がいる。彼はその世界の仕組みを知った。人ならざる者たちは、無抵抗でも突然殺される。少年はそんな理不尽に耐えられなかった。

 大きくなったら、必ずお姉さんの仇を討つ。そのためならなんだってしよう。

 そう心に決めた彼は、ひとつひとつの準備を重ねた。

 まず、自分の置かれる社会において、できるだけの地位を確立すること。人間から信頼を得ていた方が、騙しやすい。

 計画を実行できるまでに成長したら、次は人ならざる者と連携する。彼らは文字どおり人ではない。当然危険は付き物だったが、扱いを覚えれば案外喰われない。彼らには生への執着がある。駆け引きでも脅しでもいい。彼らを狩る人間の情報を集めるのだ。


 しかし狩る者たちはなかなかその正体を現さない。人ならざる者らに見つからないよう潜んでいるのだろう、その人数も、組織構造も、ヒントはなかった。


 少年は高校生になり、ついに計画を実行した。

 狩る者たちはまだ謎に包まれていたが、人ならざる者を殺そうとして失敗した者に関しては、人ならざる者の方が顔を認識している。そういうケースを細々と拾い集め、ひとりずつ、確実に潰していく。

 あるときは、直接近づいた。言葉巧みに高所へ誘い出し、自殺に見せかけて突き落とす。

 またあるときは、筆跡が残らない手紙を用意して、人ならざる者がいるかのような嘘で高所に誘き寄せた。この方が直接話さないぶん手軽だったが、死体から証拠品の手紙を回収する面倒があったので、時間や場所は選んだ。


 高所に呼び出された者たちは揃いも揃って、少年の姿を見て、ぽかんとした間抜け面を晒す。

 少年が誰なのか、なぜ呼び出されたのか、全く分からず説明を求める彼らに、少年はなにも教えてやらなかった。ただ、トンと、胸を突き飛ばして落としてしまうだけ。見知らぬ少年から突然殺されるとは思わないのだろう、落とされる方も、激しく抵抗する暇もなく死んでいった。


 罪の意識などない。

 人ではないからという理由で殺される、彼らへの理不尽を許せないから。大好きなお姉さんを殺した人間を許せないから。

 これは理不尽への、正義の制裁だ。

 そのためなら、少年は自分の手を汚したとしても、「汚れた」と感じなかった。


 やがて彼は、ひとりの少女と出会う。


「レイシー……レイス、霊姿……レイシー」


 放課後の教室で、ひとり言を呟く少女。


「狩人、妖怪、物の怪……レイシー、事案」


 少年は「見つけた」と思った。

 長年調べているから分かる。この少女、或いはこの少女の近くの人物は「狩る者」だ。

 この少女は、ずっと謎だった「狩る者」たちの実情を知っている。奴らの核心に迫れる。

 近づかない手はなかった。

 視線に気づいたのか、少女がこちらを振り向いた。頭の回転が速い少年は、にこりとはにかむ。


「あっ……ごめんなさい、つい見つめちゃった」

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