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かくもエゴイスティック

  深夜零時、老朽化した廃ビル。

 モッズコートに身を包み、チェシャ猫はそこへ現れた。小栗の指示どおりに行動するのは少々癪だったが、こればかりは仕方ない。念のため、コートの中には拳銃とナイフを仕込んでおいた。

 錆びた階段を上り、その屋上へと出る。ひゅっと、冷たい風が吹いた。彼の頬を突き刺すように撫でて、通り過ぎていく。

 風の行先に、その姿はあった。

 暗闇の中に馴染んでシルエットしか見えないが、その背丈には見覚えがある。影の髪が、風に吹かれている。屋上の柵に腕を乗せ、チェシャ猫に背を向けて夜の街並みを眺めているようだった。


 このまま突き落としても、気づかないかもしれないな。と、チェシャ猫は思った。

 無防備なその背中に、徐ろに声をかける。


「あのさ。あんた、あいつのこと、別に好きじゃなかったんだな」


「……びっくりした。本当に気配がないですね」


 柵に凭れていたが振り向く。


「ずるいですよ。背後取るの」


「さっきも言ったが、意図的に気配消してるわけじゃない。元から影が薄いんだ」


 風の音が空を切る。チェシャ猫はひとつ、まばたきをした。


「ていうか、あんたが勝手に背を向けてたんだろ。クソガキ」


 振り向いた少年――小栗海代は、少しつまらなそうに苦笑いしていた。


「もっとびっくりしてほしかったんだけどな……」


 風に揺れる細い髪、落ち着いた話し方、賢そうな眼差しも、昼間に話していたあの健気な少年そのものだ。

 だけれど、愛莉の名を騙ってここへチェシャ猫を呼び出したのは、他でもない。彼、小栗なのだ。


 チェシャ猫は手紙を入れたままの懐を一瞥し、ぽつぽつ話した。


「大して驚けなくて、すまん。あんたの工作も芝居も、下手したら見抜けないくらい上等だった」


 手紙の文面は、いかにも愛莉らしい。且つ、小栗が店で話していたように、チェシャ猫をここへひとりで呼び出すための要素を短い文の中に的確に込めている。


「あいつのことも、本当に好きなんだと思ってた。変な奴だなとは思ったけど、そういう趣味なんだろうと」


 愛莉に淡い恋心を抱いて、彼女を追いかけている。そんな真面目で愛情深い少年に見えていた。


「でも気づいた。手紙を見た時点で」


「意地が悪いな。そのとき言ってくれないと、無駄に芝居を打ってしまうじゃないですか」


 小栗が肩を竦める。


「あなたはそこまで見破ってたのに、ここへ来てくれた。それなら堂々とお誘いすればよかった」


「あんた、なかなか性格破綻者だな」


 チェシャ猫の声が、北風の音に掠れる。

 

「俺も散々あいつを蔑ろにしてきたから、言えた口じゃないけど。流石にその扱いは非道だろ。あいつが行方不明になったのを利用して、俺をここへ呼び出そうなんて」


 つまり、行方の分からない愛莉など、微塵も心配していない。

 彼女の安否が不明であるこの事態を、好機として利用したのだから。


「あんた、レイシーを知らずに生きてきた人間じゃねえだろ。むしろ詳しいんじゃないのか」


 チェシャ猫はひと呼吸置いて、続けた。


「猫殺しの件からずっと、あんたが気にかかってた。なにが妙なのかはっきりと言葉にならなかったけど……なんか、言動が不可解だった」


 猫殺しの犯人を捕まえると意気込んで公園に張り付くような少年が、目の前で人が消えたのにも拘わらず、ろくに捜しもせずに引き上げた。そしてそのあとは、不自然なくらい興味を示さない。

 それは彼にとって、もう猫殺しの件に執着する理由がないから。確認すべきことが確認できたからなのだとしたら。


「あの日のあんたは、猫殺しの犯人を捕まえるためにあそこにいたんじゃない。真の目的は、レイシーを捜しにくる俺を待つこと、だったんじゃないか?」


 チェシャ猫が目を伏せる。


「レイシーを目の前にした俺がどんな行動を取るか、確かめていた。俺が狩人であると、裏付けるために」


 小栗は無言で、柵に寄りかかっている。チェシャ猫はひとつ、白い息を吐いた。


「元を辿れば、あいつに言いよってたのも、俺に近づくためか。あいつを利用してたんだな」


「……ふふっ。『レイシー』。チェシャさんたちは、『彼ら』をそう呼ぶんですね」


 小栗が再び口を開く。


「おっしゃるとおりですよ。俺は愛莉ちゃんを利用してました。あなた方が『レイシー』と呼ぶ『彼ら』のことも、知っています。『彼ら』を問答無用で殺して回る、あなた方のことも」


 ただのなにも知らない高校生だったはずの小栗は、冷たい視線で、やけに滔々と言葉を重ねた。


「彼らは人間の社会に紛れています。俺たちは知らず知らずのうちに、生活の中で彼らと接している。でも誰しも、他人なんてそんなに見てない。今話した相手が、すれ違った人が、人間じゃなかったとしても案外気づかない」


 風が冷たく頬を刺す。


「だけど、ふと違和感に気づいてしまう人間もいる。例えば、俺みたいに」


 小栗はにこりと、柔らかく目を細めた。チェシャ猫の眉間に皺が刻まれる。


「じゃああんたは、狩人の家の生まれとかでもなんでもなく、自主的にレイシーの存在に“気づいた”わけだ」


 チェシャ猫はまた、手紙の入った懐に目をやった。

 これまでに起きた、狩人の飛び降り。死んだ狩人たちは、取り逃したレイシーから手紙を受け取っていた可能性がある。羽鳥から聞いたと、シロから伝えられている。

 チェシャ猫が受け取った『愛莉からの手紙』は、それと手口が殆ど同じだ。


「狩人の連続飛び降り事件、あれもあんたが呼び出してたのか?」


「狩人って、『彼ら』を殺すのを生業としてる、チェシャさんみたいな人殺したちのことですよね」


 小栗が首を傾げる。


「まるで正義の味方みたいな名乗りですね。不意打ちという汚いやり方で、彼らの命を奪ってきたくせに」


「そういう言い方。あんたはレイシーの味方で、レイシーを片す狩人を憎んでるんだな」


 チェシャ猫の白い息が、夜の闇に馴染んでいく。


「俺を呼んだのも、他の狩人たちと同じように、ここから落として殺すためだったのか」


 今までの狩人の飛び降りは、レイシーの仕業ではない。取り逃したレイシーを装った、生きた人間の手によるものだったのだ。

 小栗が少し、俯く。


「だってそうでもしないと、あなたたちは彼らを殺すじゃないですか」


 風の音が、ふたりの間を通り抜ける。


「彼ら……チェシャさんの言葉を借りると、レイシー。レイシーの中には、狩人に殺されかけて、命からがら逃げきる子たちがいます。俺は彼らとコンタクトを取ったんです。そしてレイシーたちを追い回す者、即ち狩人を特定した」


 夜の闇を背に、小栗は平板な声で話した。


「俺はレイシーたちを、狩人から守ろうと思った。だから、狩人に殺されかけた経験を持つレイシーから、狩人の情報を聞き出して、狩人を捜し出していたんですよ」


「なるほど。だからレイシーを取り逃して身バレした狩人ばかりが死んでたか」


 狩人たちは、レイシーの呼び出しだと受けて現場に赴いた。そこにレイシーはおらず、人間の小栗がいる。レイシーであれば相手に気づかれる前に駆除するが、そこにいるのが人間では、狩人はなにもしない。

 そしてわけも分からないうちに、小栗に突き飛ばされて「飛び降りた」。

 小栗はふふっと、僅かに空気を震わせた。


「猫殺しの件のとき、言いましたよね。俺は、理不尽なのが嫌いなんです。正当な理由がないのなら命を奪っていいはずがない。ましてや不意打ちなんて卑怯なやり方、許されていいわけがない」


「正当な理由がない?」


 チェシャ猫は眉を顰めた。


「あいつらは化け物だ。殺さなければ人を喰う。不意打ちでないと圧倒的な力の差でこっちが押し負ける。殺される前に殺すんだよ。それは正当な理由じゃないのか?」


「そんなのそっち側の勝手な独善だろ!」


 突然、小栗が声を張り上げた。


「狩人の皆さんはどいつもこいつも、そう自身を正当化しますね。自分は悪くないって。相手が悪いから殺すんだって」


「事実そうだろうがよ。レイシーを駆除する者がいなくて世の中がレイシーの思いどおりになったら、あっという間に人間社会は侵略されるぞ」


「確率の話でしょう? 実際にそうなったわけじゃない。あなた方は机上の空論で、この世をただ生きて彷徨う彼らを殺してる」


「実際にそうなったら手遅れじゃねえか。あんたバカじゃないはずなのに、そんなことも分かんねえのか」


 チェシャ猫は白い息を吐き、腕を組んだ。


「あんた、随分レイシーに肩入れしてるな。あいつらの存在に気づいたっつう話だったが、そこまで情が移るものか?」


「彼らと交渉もせず、ただ殺すだけのチェシャさんには分からないでしょうね」


 小栗の声は、震えることなく芯が通っていた。


「自分にとって都合の悪い相手なら、死ぬまで嬲っていいと思ってるんですよね!」


「本気でそう思ってんのか。おめでたい奴だな」


 チェシャ猫はまた、苦いため息を洩らす。


「最初はそれなりに、躊躇った。シロさんに拳銃持たされても、引き金を引けなかった。レイシーは人間じゃないけど、意思の疎通ができて、感情があって、生きてる」


 面倒くさそうに話すチェシャ猫の脳裏に、一年半前の夏が蘇る。初めて出会ったシロから突然拳銃を手渡された、奇妙な思い出だ。


「でもあいつらは、あんたが思ってるほど豊かじゃないんだよ。あんたがあいつらに情けをかけても、あいつらはあんたなんか餌にしか見えてない」


「どうして、そう言いきれるんですか。彼らの立場になり得ないのに」


「研究だ。長いこと研究してる研究者たちが、そう解析してる」


「それもまた確率や可能性の話ですよね。彼らがなにをどう感じているかなんて、彼らにしか分からないんですから」


 小栗の声が尖っていく。チェシャ猫はうーんと唸った。


「まあそうだな。そう思わないとやってらんねえから、自分に言い聞かせてるだけだ。実際のところ、自分以外の頭の中なんか、分かりようがない。それはそうかもしれないけど……」


 冷たい風が、チェシャ猫の重い前髪を擽る。


「そうかもしれないけど、あんたが殺した狩人も、意思も感情も持った、生きた人間だったんだよ」


「……ん」


 小栗は微かに、喉を震わせた。数秒の沈黙ののち、彼はいや、と首を横に振った。


「分かってます。でも、俺が殺したのは仕方がなかった。殺さないと、彼らが殺される。ちゃんと理由がある」


「それで、何人殺した?」


「何人であろうとも関係ない。殺さないと、彼らが……」


 小栗の声が上ずる。チェシャ猫はうん、と小さく頷いた。


「正義って、怖えよな」


 そのときだった。小栗が急に、チェシャ猫に背を向けた。寄りかかっていた柵に足を引っかけ、その向こう側へと飛び出す。

 小栗の体が、柵の向こう側へと降り立つ。足場の幅は、彼の足が全て乗り切らないほどの狭さだった。

 チェシャ猫はぎょっとして駆け出し、彼の腕を掴んだ。


「おいクソガキ。なにしてんだ」


「初めから決めてたんですよ。暴かれてしまったら、こうしようって」


 チェシャ猫が掴む小栗の腕は、冷たい空気に晒されて氷のように冷たくなっていた。


「勉強して、弁護士になって、弱い人々の味方になりたかった。全ての理不尽がしっかり正されて、完璧な無謬の世の中になるように。彼らを守るために人間を殺すのだって、そのためには仕方ない犠牲なのに」


 小栗の口から、白い吐息が流れる。それが風に乗って、かき消されていく。


「でも、それが受け入れられないのなら、俺はもう生きてる価値がない」


「被害者面でゴチャゴチャうっせえな。バカなのはもう分かったからいい加減にしろ」


 チェシャ猫の手に力が入る。柵の方へと引き付けても、小栗はもう、内側へ戻ろうとはしなかった。


「離してください」


「いや死なすかよ。罪を償ってからにしろ」


「離せ」


「ついでに、あいつに謝れ。好きだって言われたのを真に受けて、ちゃんと悩んでた、あいつに謝れ」


「離せ!」


 小栗が腹から叫ぶ。


「あなたはレイシーが、人を喰う化け物だから殺すんでしょう! なら人殺しの俺も化け物だ。これは化け物退治だ。殺せばいいだろ!」


 小栗の足が、屋上の床からずり落ちた。体が宙に浮く。小栗の腕を掴んでいたチェシャ猫の手に、彼の全体重がかかった。全身が引っ張られて、チェシャ猫自身も柵に打ち付けられる。


「うわっ……」


 成人と変わらないほど完成された人間の体重を、片手で支えきれるはずがない。チェシャ猫の手指がかくっと震える。ぶら下がった小栗は這い上がろうとする様子もなく、ただだらりと体を投げ出していた。

 チェシャ猫の手の感覚が鈍っていく。もはや掴んでいた腕の感触はなく、上着をようやく握っているだけになっていた。引っ張り上げる余裕など、とうにない。しかし、手を離すわけにもいかない。チェシャ猫は残っていた力を振り絞り、小栗を引き上げようとした。


 しかし、現実は非情なものだった。

 老朽化したビルの柵は、錆び付いて脆くなっていた。細い金属の柵が、メキッと音を立てて崩れ落ちる。

 一瞬、時間が止まった錯覚があった。

 柵に体重を預けていたチェシャ猫の体が、小栗もろとも夜闇の空中に投げ出された。


「あっ」


 声を上げたのはチェシャ猫だったのか、小栗だったのか。

 体が傾いて落ちていく感覚は、体内の時計が狂うのかやけにスローモーションに感じる。そのくせ、どこかに掴まる余裕はないのだ。

 ふたりはあっという間に、足元に広がる夜の闇に吸い込まれた。渦巻く風の轟音に呑まれ、冷たい刃に切り裂かれるように頭から落ちていく。チェシャ猫の手からは、いつの間にか小栗は離れていた。

 体じゅうが分厚い空気の層を切る。 意識が遠くなる。


 ふたりの体が、ぼふっと柔らかな空気の塊に包まれたのは、その数秒後だった。

 チェシャ猫はいつの間にか閉じていた目を細く開けた。少し固いクッションに、全身がめり込んでいる。

 つんと詰まった耳に、聞き慣れた飄々とした声が届く。


「ナイスキャッチ! ふたりとも無傷だな」


 深月の声である。他には、待機していた警察官のざわめき。


「命に別状はありませんが、小栗少年の方は失神してますね。念の為、ふたりともすぐに病院へ……」


 警察が用意した分厚いクッションにうもれながら、チェシャ猫は思った。誰かひとりくらい、自分と同じ屋上に配備してくれても良かったのに。


「チェシャくん!」


 耳に馴染んだ声が、駆け寄ってくる。それがシロの声だと理解すると、妙に安堵が込み上げて、チェシャ猫の体はよりクッションに沈み込んだ気がした。浅い呼吸をして、チェシャ猫はゆっくりと目を閉じた。

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