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消えた愛莉

 そのビルの外壁には、「ポイソンコーポレーション」の立体文字が刻まれていた。この建物の地下室は、四畳もない狭い室内に、毛布が一枚。それからマットレスと、小さな猫のぬいぐるみがある。

 マットレスにしゃがんだダイナが、天井の一角を見上げて言った。


「今日、チェシャ猫のお兄さん、来てるのネ」


「ああ。初めて会った日以来だな」


 別室のモニターからそれを見ていたチェシャ猫は、マイクで返事をした。


 ダイナがここに収容されて、三日が経つ。地下室は、最初はさしずめ刑務所の個室のようだった。コンクリートで固められたがらんどうの室内に、毛布があるだけ。天井にはカメラがあり、室内の様子はモニタールームから二十四時間監視される。地下室から声を発すればモニタールームに届き、逆にモニタールームのスピーカーから、地下室に声をかけることもできる。

 ダイナは右手だけは解放されていたが、呪術を使う左手だけは、手錠を嵌められ、左脚の腿に固定されていた。


 ダイナがカメラを見上げ、チェシャ猫に言った。


「ここに収容されてもテレポートできるって、嘘ついた。ごめんなさい。本当は、できないの分かってた。でも、ひとりぼっちされるの、やだった。地下室閉じ込められるの、怖かったから……意味ないよって嘘ついた。そしたら、閉じ込められないって、思った」


「ああ、そうか。そりゃすまんかった」


 チェシャ猫があっさりした口調で受け流す。ダイナは泣きそうな顔でさらに訴えた。


「本当ヨ! ダイナ、狭いとこ、ひとり、怖い。寂しいの嫌い、逃げたかった」


 幼い少女の訴えをモニター越しに見て、チェシャ猫の隣にいた山根が憂う。


「なんか、かわいそうになるわよねえ」


 チェシャ猫はちらっと山根に目をやり、マイクの電源を切った。


「あいつに同情しての、マットレスやぬいぐるみか」


「あれを置いたのは私の部下よ。レイシーとはいえ、小さい女の子がこんなところに閉じ込められてるんだもの。できるだけ温かくて柔らかいところで寝かせてあげたいって」


 ダイナのいる地下室には、ポイソンコーポレーションの職員、山根班のメンバーが何度か出入りしている。班員は山根を入れて六名、彼らはダイナの世話や、身体検査や実験、諸々の理由で直接触れ合っていた。

 その度に地下室の扉は開けられているが、ダイナは自ら出ようとはしなかった。暴れもしない。なにもない地下室で、ただただ時間が過ぎるのを待っているのだ。


 そんな姿に胸を痛めた職員は多かった。ダイナは食事をしないなど、人間とは全く異なる体質ではあるものの、悪意を見せず、攻撃もしかけてこない。レイシーなのは明らかでも、危険性がなければ情が移るものである。

 毛布しかなかった部屋にマットレスが増えたのは、ダイナがやってきた翌日だった。その次の日に、ぬいぐるみが増えた。ダイナは、職員たちにかわいがられつつある。


 チェシャ猫はモニターに映った少女を、じっと睨んだ。


「それでもあいつはレイシーだぞ。気を許すなよ」


「分かってるわ。だから呪術実験の際以外は、左の手は動かせないようにしてある。彼女に触れる職員たちにはちゃんと危険性を周知してるし、私も緊張は緩めてない。……つもりよ」


 山根は大きな欠伸をして、ひとつ、深めのまばたきをした。


「それよりチェシャくん。愛莉ちゃんは、まだ見つかってないの?」


 その問いかけに、チェシャ猫は一瞬言葉を詰まらせた。モニターを睨んでため息まじりに答える。


「あのバカ。全っ然、連絡つかねえ」


「心配ね。シロちゃんもさぞ落ち込んでるでしょう」


 三日前の、ダイナを回収した夜。

 あの日以来、愛莉は忽然と姿を消した。


 役所の車が彼女を置いて出発したあと、それきり音沙汰がない。自力で帰ると言っていたはずなのに、愛莉は家に戻っていなかった。

 今では警察が動いて、彼女が消えた林を中心に捜索が続いている。唯一の手がかりは、工場の裏の林に落ちていた彼女の携帯だけである。


 チェシャ猫が壁に背中を預ける。


「シロさんは悪くないはずなんだが……気にしないわけねえな」


 愛莉がいなくなったと知ってから、シロは店を閉めている。あのとき、やはり愛莉を車で家まで送るべきだった。そもそも現場に連れてこなければよかった。悔やんでも悔やみきれない。

 なにより彼を後悔させているのは、愛莉が消える直前に、愛莉からシロ宛に入っていた電話だ。シロは車内で応答したのだが、愛莉の声はなく雑音だけが入り、やがて切れてしまった。間違い電話だろうと判断したシロは、あとから確認のかけ直しもしなかった。

 それが、愛莉からの最後のアプローチになっている。


「あの電話で違和感に気づいて、引き返していれば……って、思ってるんだろうな」


 チェシャ猫が眉間に皺を刻む。山根は彼を横目に見てから、モニターの中のダイナに視線を移した。


「愛莉ちゃんの身に、なにが起こったのかしら。ダイナちゃん以外にもレイシーでも潜んでたとか……」


 山根の声が、小さく萎む。チェシャ猫は胸の中で、それはない、と呟いた。愛莉にはレイシーは寄ってこない。今のところ、例外なくだ。


「もしくは事故か、或いは人間のよる犯行」


 チェシャ猫が下を向く。


「レイシーだろうが事故だろうが人災だろうが。必ず見つけるというのは、変わらない」


「あら。頼りになるわね」


 山根はふにゃりと目を細めた。


「あなた、愛莉ちゃんを疎ましがってるけど、なんだかんだ好きよね」


「そんなこと言ってらんねえ事態だろうが」


 チェシャ猫は鬱陶しげに言い、モニタールームをあとにした。


 *


『和心茶房ありす』の扉に、オープンのプレートが下がっている。久々にこれを見たチェシャ猫は、つい短く「あ」と声を出した。

 扉を開けると、カウンターの向こうで湯茶をいれるシロがいた。眠れていないのか、顔色が悪い。

 そしてその向かい、カウンター席には、見覚えのある少年がいた。猫のレイシー事件以来になる、小栗だ。

 ふたりは音もなく現れたチェシャ猫に気づかず、話をしていた。


「愛莉ちゃんの件は、シロさんのせいじゃないですよ。愛莉ちゃんの家族も、シロさんを責めていません」


「うーん、誰も僕を責めないけど、だからこそ僕が僕を責めてるというか。僕があの電話をもっと気にしていれば……」


 シロはいれたてのコーヒーを、小栗の前に置いた。


「愛莉ちゃんと、出会わなければよかったな」


「というと?」


 小栗がコーヒーのカップとシロを見比べ、慎重に問う。シロはうーんと、小さく唸った。


「昔からそうなんだ。僕と親しくなった人たちは、次々と……まるで呪いみたいにね」


 半端に暈す彼を、小栗は数秒、黙って見つめていた。コーヒーの香りが鼻孔を擽る。小栗のため息が、白い湯気を歪めた。


「呪いだなんて。偶然でしょう?」


「どうだろうね」


「偶然ですよ。シロさんが悪いわけないんですから」


「慰めてくれてありがとう」


 シロはくすっと微笑み、それから投げやりな口調で言った。


「なんてね。こんなふうにごちゃごちゃ悔やんだって、今更仕方ないんだ。今はそれより、彼女が早く見つかるように、情報や手がかりを集めないと、だよね」


「分かってんじゃねえか」


 チェシャ猫が口を挟むと、彼の入店に気づかなかった小栗とシロが同時に肩を弾ませた。


「うわあっ、チェシャさん!?」


「びっくりした。頼むから、気配を出して現れてくれよ」


「意図的に気配消してるわけじゃない。それよりシロさん、ちゃんと寝てんのか。……聞くまでもないか」


 そう言いながら、チェシャ猫はテーブル席に腰を下ろした。シロがカウンターに腕を乗せる。


「店を閉めてる間、愛莉ちゃんの足取りが途絶えている林に行ったよ。だけど警察が入ってて、一般人の僕は捜索できなかった」


「俺もその近辺、調べてる」


 愛莉が戻らないことに最初に気づいたのは、愛莉の姉だったという。

 あまりにも帰りが遅く、そのうえ連絡がつかない。愛莉がよく遊びに行っている喫茶店として聞いていた『和心茶房ありす』に電話をかけて、シロも愛莉が消えたと知った。そして最後に愛莉からの着信を受けているのが、シロだと判明した。


「シロさん、少しは落ち着いたな」


 チェシャ猫が言うと、シロは力なく笑った。


「少しはね。冷静を装わないと、冷静に判断できないから」


 愛莉が消えたと知ったシロは、焦燥しきって呆然としていた。判断力を失って、愛莉の家族に「レイシーの事案に巻き込まれたかもしれない」と口走りそうになったのを咄嗟に黙らせたのはチェシャ猫である。

 愛莉がレイシー事案に巻き込まれたのなら、家族にもそう伝えるのが筋かもしれない。しかしレイシーは、一般的に認知されない存在だ。仮に巻き込まれていたとしても、たとえ被害者の家族であっても、その事実は伝えられない。


 小栗がコーヒーをひと口飲み、切り出した。


「俺もあの夜、愛莉ちゃんとメールしてたんです。俺が猫の画像送ったらすぐに返事をくれた。特に変わった様子はなかったんですけど……」


 彼は寂しげに俯き、それからやけに力強い声色で続ける。


「でも、あの子は無事です。必ず、すぐに会えます」


「随分はっきり言い切るな」


 チェシャ猫が言うと、小栗はちらとチェシャ猫の顔を見て、次にシロの様子を窺った。シロが紅茶の用意をしているのを確認すると、小栗は椅子を立った。そしてチェシャ猫のいるテーブルにやってきて、そっと、彼の前に一枚の紙切れを置く。

 真剣な眼差しで、無声音で囁く。


「これを、見つけました」


 差し出されていた紙に、チェシャ猫の視線が動く。

 そこには、黒い丸ゴシックの文字がぽつぽつと並んでいた。


『チェシャくんへ。愛莉だよ! びっくりしてるかもだけど、私は無事だよ。ただ今は少し、事情があって会いに行けないの。でもめっちゃ元気だし、誰かに攫われたわけでもないし、心配ないよ! この手紙を読んだら、深夜零時、シロちゃんのお店の北にある廃ビルの屋上に来て。必ず、チェシャくんひとりで来てね。そこで全ての事情を話すよ! 大好きだよー!』


 読み終えたチェシャ猫が、じろりと目を上げる。彼がなにか言う前に、小栗は人差し指を立てて自身の唇に当てた。


「シロさんには言わないで」


 声を潜めて、小栗は言った。


「これ、さっきこの店の前で拾ったんです。愛莉ちゃんはここに来てたんですよ。来てたことにも、この手紙にも気づかなかったとなったら、シロさんが余計に自分を責めてしまいます。だから、これは秘密にしてください」


「なるほど。じゃ、これから警察に届けに行くか」


 チェシャ猫も小栗に合わせて声を抑える。小栗は首を横に振った。


「俺も拾った直後はそう思いました。でも、これにはチェシャさんにひとりで来るように書かれています。そのとおりにしないと、愛莉ちゃんの身に危険が及ぶのかもしれない」


 小栗の眼差しは真剣である。


「俺、最初にこれ見たとき、罠じゃないかと思いました。『本当に愛莉ちゃんかな』って疑ったんです。愛莉ちゃんが何者かに攫われていて、その犯人が愛莉ちゃんを脅してこの手紙を書かせた、或いは愛莉ちゃんを装って書いた。そうしてチェシャさんをおびき寄せて、なにか要求するつもりなのかもって」


「まあ、自然とそう考えるよな」


「だとしたら、チェシャさんをここへ向かわせるにしてもチェシャさんの安全のために警察にこっそりついてきてもらうべきだと思います。だけど、恐らくこれはそうじゃない。これは愛莉ちゃんが書いたもので間違いないと思います」


 小栗はシロの様子を窺いながら、慎重に手紙を指さした。


「愛莉ちゃんが脅されて書いたのなら、なにかもっとこちらに向けてヒントになるような言葉を隠すはず。そして愛莉ちゃんを装った他人なら、こんなに愛莉ちゃんらしい文は書けない」


「こんな頭の悪い文は、素人が簡単に真似できるものじゃないと」


「そうは言いませんけど……」


「ほう。あんた、やっぱり頭の回転が速いな」


 チェシャ猫がそう返したときだ。盆に紅茶を載せ、シロがカウンターを出てきた。


「仲良しだね。なんの話をしてるの?」


 途端に、小栗は手紙を引っ掴み、チェシャ猫の上着の懐に突っ込んだ。いきなり強引に掴まされ、チェシャ猫は不愉快そうに眉を顰める。

 小栗はシロの方を振り向いて、にこっと笑った。


「なんでもないですよ! 愛莉ちゃんが心配だって話してただけです。シロさんはあんまり気に病まないでくださいね」


「ありがとう。小栗くんは優しいね」


 紅茶をテーブルに置き、シロが立ち去っていく。小栗は彼がカウンターに戻るのを見届けて、チェシャ猫に小声で言った。


「ともかく。愛莉ちゃん自身が『ひとりで来るように』と言ってるんです。事情は分かりませんが、彼女がこういうからには理由がある。約束を破れば、彼女が危ないのかもしれない。分かりますね?」


「分かったよ。行けばいいんだろ」


 チェシャ猫が冷たく返す。小栗は元の席に戻りかけ、再度チェシャ猫を振り向いて念を押した。


「本当は俺が行きたいくらいなんですけど、愛莉ちゃんがチェシャさんを指名してるから仕方なく引いてるんです。俺の分まで、しっかり頼みますよ」


「はいはい」


 チェシャ猫の返事は一層、気だるげに沈んだ。

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