豚と塩胡椒
その後日。開店後、客が来なくて暇を持て余していたシロは、カウンターの中で新聞を読んでいた。
今朝の朝刊には、飛び降り自殺の記事はない。すでに亡くなっている狩人たちに関する続報もない。
シロは新聞を畳み、作業場の端に置いた。コーヒーでもいれようかと立ち上がった彼に、突然声がかかった。
「なあシロさん」
「うわっ!」
珍しく大声を上げ、シロは声の方を振り向いた。テーブル席に座っているチェシャ猫がいる。
「びっくりした。気配消して話しかけないでよ。いつからいたの?」
「シロさんが新聞読みはじめた辺りから」
「意地が悪いな。僕が気づいてないの分かってたんなら、声をかけてよ」
「だから、かけた」
「遅い……まあいいや、飲み物作るね」
シロはチェシャ猫のいつもの和紅茶と、自分用のコーヒーを作りはじめた。店内にほんのりと、茶葉の香りが広がる。
「それで。なあに?」
「ん?」
「『なあシロさん』って話しかけてきたでしょ。なにを言おうとしたのかなって」
窓から午前九時の柔らかな光が差し込んでいる。チェシャ猫はちらと窓の外の人の流れを一瞥し、訥々と話し出した。
「大したことじゃないんだが。あいつ、巡ともすんなり仲良くなった」
「愛莉ちゃんか。流石というべきか、だろうねと言うべきか」
チェシャ猫の断片的な言葉から、シロは諸々を察した。
「愛莉ちゃんが巡ちゃんを見て、怯えたり哀れんだりするとは思えないものね。彼女のことだから、取り繕ったりもしてないんでしょ?」
「そうだな、あれは素だと思う」
声のトーンがさらに落ちたチェシャ猫に、シロは顔を緩ませた。
「ふふ。これでチェシャくんの中で、愛莉ちゃんの株が急上昇しちゃうね」
「うぜえのは変わらねえ」
チェシャ猫はぶっきらぼうに言ってそっぽを向いたが、シロはまだ緩んだ頬が緩みっぱなしだった。
大切な妹を、かわいがってくれる人がいた。妹も彼女に懐き、良い関係になれそうだった。チェシャ猫はそれが嬉しくて、真っ先にシロに報告した。
その全てに、シロの胸はほっこり温まっていた。
「それより、上戸先生と話をした」
チェシャ猫が改まって切り出した。シロも綻んだ顔を真顔に近づける。
「そうだった。大事な話があるから、って呼ばれたんだったね」
シロの鼻先で湯気が漂う。紅茶を注いだ湯のみとコーヒーのカップを盆に載せ、その横に花札の茶托を置く。盆を手にカウンターを出るシロに、チェシャは淡々と続けた。
「海外に、巡のような患者の治療に特化してる医者がいる。最先端の整形技術で、顔を元に戻るかもしれないとのことだ」
「え、じゃあ元の巡ちゃんに会えるかもしれないの!?」
盆を運ぶシロは、嬉々として声を弾ませた。チェシャがこくりと頷く。
「まだ技術的に安定してないけど、もしかしたら、目も回復できるかもしれない、って」
「目が!」
「眼球を移植して、機能するように脳の神経と繋げれば……視力が完全に元に戻るわけじゃないが、見えるようになる可能性はある、らしい」
「すごいじゃないか!」
シロは茶托をテーブルに置き、さらにその上に湯のみを載せた。
「巡ちゃん、元に戻れるんだ。良かったねえ!」
「もちろん簡単な話じゃない。整形は何度も繰り返して元の状態に近づけていくんだ、巡への負担が大きい。目の手術に関しても、まだ技術的課題が残ってる」
「それでも! 可能性が見つかったのは大きな前進だよ!」
自分のことのように舞い上がり、シロはコーヒーを置くと盆を胸にそわそわと彷徨いた。
「嬉しいなあ。この手術、もちろん受けるんだよね?」
浮つく彼に、チェシャ猫は面食らいながら慎重に言った。
「あの、シロさん。簡単な話じゃない、んだ」
その声の調子を受け、シロは足を止めた。チェシャ猫の方を振り向き、ひとつまばたきをする。チェシャ猫は和紅茶をひと口含み、少し、声を萎ませた。
「専門医は海外にいる。巡に手術を受けさせるなら、巡は今の施設を出て、しばらくはそっちの国で過ごす。面倒見るためにも、俺も行かなくちゃならない」
チェシャ猫の声は、澱んでこそいないものの暗くはあった。
「しかも手術は保険適用外だ。成功するか分からないのに、費用は莫大にかかる。今、俺がシロさんに返してる借金より、もっとだ。それに加え海外で暮らす準備でまた金がかかる……」
「なるほどね」
シロが静かに返す。チェシャ猫は眉間に皺を作って言った。
「違う、シロさんに金をせびろうとしてるんじゃねえぞ」
「分かってるよ、けど困ってるんだよね」
チェシャ猫の向かいの椅子を引き、シロはそこに腰を下ろした。
「君のことだから、一縷の望みにかけてでも巡ちゃんに手術を受けさせたい。しかしそのためにはお金が必要で、この国からも離れなくちゃならない。僕への借金を返しきっていないのに、さらに別の借金を抱えることになる。しかしここを離れるなら、狩人は続けられない」
チェシャ猫は無言で、湯のみに手を添えていた。シロが盆を抱き寄せる。
「それだけリスクがあるのに対し、手術が成功する可能性は高いとは言えない。巡ちゃんに余計な負担をかけるだけかもしれない。それでも、巡ちゃんを元の顔に戻すチャンスがあるのなら、ここで自ら引き下がりたくない」
窓から差し込む日差しが、テーブルの和紅茶とコーヒーの水面を光らせている。
「その判断を委ねられる責任は、重いよね。君、まだ若いのに」
「やっぱ、シロさんには見透かされるな」
チェシャ猫はやや不満げに、それでいてどこかほっとしたような目で、和紅茶の水面を見つめていた。
シロはふうと、コーヒーに吐息を吹きかけた。
「巡ちゃん自身は、なんて?」
「まだ伝えてない」
「そう……」
静寂が訪れる。
チェシャ猫は和紅茶を見つめ、シロはそんな彼を眺めていた。しばらく経ったのち、シロが口を開いた。
「手術受けるかどうか、すぐにでも決断しなくちゃいけないの?」
「いや、今すぐにってわけじゃねえ。ただ、最先端医療だけに常に予約が詰まってるらしい。早めに決めた方がいい」
「そうか」
「今の段階で巡に話しても、金がなくて無理ってなったら、無駄な期待だけさせてしまう。もう少し先行きが見えてきたら、話そうと思う」
「そうだね。一緒に準備していこう」
シロはそう言うと、カップの中のコーヒーに唇をつけた。
「早いに越したことはないけれど、焦らなくても大丈夫。僕にできることがあれば協力するよ。チェシャくんには世話になってるからね」
「それ、なんだけど」
シロの応援を受け、チェシャ猫は複雑そうに目を伏せた。
「俺の問題もそうだけど……俺がいなくなったら、シロさんの代わりになる狩人がいなくなる」
そう言って、和紅茶の湯のみを持ち上げる。途端に、シロはくすっと笑った。
「おっと。そんなこと気にしてたの? 心配ないよ、君が現れる前までの僕に戻るだけさ」
コーヒーの香りを吸い、彼は力なく続けた。
「レイシーの発見と調査だけして、あとはこの喫茶店を運営する日々。それでも深月くんたちは、叔父の足取りを調べてくれるだろうし」
話すシロを、チェシャ猫は上目遣いで見上げる。
「自分で動けないのが焦れったいから、俺を雇ったんだろ」
「まあそうだ。受動的でいられるほど、僕も冷静じゃないんでね。でもそれならそれで、君以外の新しい狩人を育成するさ」
シロは彼と目を合わせ、いたずらっぽく目を細める。
「前にも言ったけど、チェシャくんにこだわる必要はないんだ」
「……そうだったな」
チェシャ猫が頬杖をつく。感情の籠らない声色だが、シロの目に映る彼は、どこか不服そうに見えた。そんな彼を可笑しそうに観察し、シロはくすくす笑って煽った。
「次に育てるのはどんな子がいいかなあ。今度は愛想のいい子が欲しいな」
「っせえな」
チェシャ猫が悪態をつく。シロは尚更面白そうに、彼を眺めていた。
「僕の心配なんていらないよ。君は自分と、巡ちゃんのことだけ考えて」
すると、チェシャ猫ははあと大きなため息をついた。優しげに声をかけるシロを、ぎろっと睨む。
「あのなシロさん。俺はあんたの、そういうところが好きじゃない」
「わあ」
睨まれたシロは、わざとらしく首を竦めた。そんな彼から、チェシャ猫は目線を外さない。
「余裕ぶってて、人を一歩引いて見てて。あからさまな甘い言葉をかける。まるで俺がひとりではなにもできないみたいに。そのせいで、俺は」
そこまで言って、チェシャ猫はふっと下を向いた。
「俺は、本当にひとりではなにもできないと、自覚させられる」
そのときだった。扉の鈴が元気よく揺れて、ふたりに来客を知らせる。
「おっはよー! 今日もお客さんはチェシャくんだけかあ」
白い息と冷気を纏って入ってきたのは、愛莉である。チェシャ猫は顔を上げ、シロも背中を伸ばして愛莉を出迎えた。
「いらっしゃい。今日も元気だね」
「それが取り柄だからね! 寒かったあ、あったかいもの飲みたいな」
寒さで顔を赤くした愛莉は、腕にひと抱えもある紙袋を抱いている。彼女はそれを抱きしめるように両腕で運び、ふたりのいるテーブルに駆け足で寄ってきた。
「チェシャくーん! 今日も機嫌悪そうだねー!」
愛しそうな甘え声でそう叫ぶ愛莉を見て、チェシャ猫はくたっと肩の力を抜いた。
「なんか、あんた見てるといろんなことがどうでも良くなってくるな」
なんだかまるで、数日室内に籠って突然外に出たときの太陽のような、そんな眩しさだった。心を優しく包み込むというよりは、遠慮なく踏み込んでくるタイプの光である。
諸々考えて思い悩んでいたチェシャ猫だったが、愛莉を見て一気に、考えるのがばからしくなった。
分かっているのかいないのか、愛莉はにぱっと笑って褒め言葉と受け取った。
「うん? それも取り柄? だからね!」
そして近くのテーブルから椅子を引いて、その上に飛び乗るように座る。
「あのね、さっき小栗くんからメールがあったんだ。昨日の夕方、おじいちゃんちから帰ってきたんだって。お土産買ってきてくれたよ。チェシャくんとシロちゃんにも! 今日明日くらいには届けに来るんじゃないかな」
「ほんと! ありがたいね」
シロが両手を合わせて拝む。
「ところで、愛莉ちゃんのその大きな荷物はなに?」
「おっ、よくぞ触れてくれたね! 聞いて驚け、これはね」
愛莉は嬉々として、紙袋の中に手を突っ込んだ。中から出てきたのは、またもやひと抱えもある、赤いリボンのかかった不織布の袋である。愛莉はそれを掲げてファンファーレを口ずさんだ。
「じゃんじゃかじゃんじゃんじゃーん! これは巡ちゃんへのプレゼント! お近付きの印に!」
「はあ、巡へ?」
チェシャ猫が怪訝な顔をするも、愛莉は自信満々に頷いた。
「すっごくかわいい豚のぬいぐるみだよ。昨日雑貨屋さんで見つけて、ひと目惚れで買っちゃった」
「あのなあ、巡は目が見えないんだぞ……」
チェシャ猫が呆れ顔になる。しかし愛莉は、それでも上機嫌で続けた。
「でしょ。だからね、触り心地が抜群のぬいぐるみが良かったの!」
それを聞き、チェシャ猫とシロは思わず目を丸くした。唐突で無鉄砲に見えて、愛莉はきちんと、巡を思いやって選んでいる。面食らうふたりを気にもせず、愛莉は袋越しのぬいぐるみに頬をうずめている。
「これ、ふわっふわでぽふんぽふんで、抱きしめると自分が取り込まれそうになるんだよ」
愛莉はやはり、眩しい。
彼女を取り巻く周囲の人間たちを、明るく照らしている。ときには、真夏の太陽のごとく容赦なく、だ。
呆気に取られるチェシャ猫を横目に、シロは愛莉に笑いかけた。
「いいね! 僕も取り込まれてみたいな」
「最初に開けて最初に触るのは巡ちゃんね。シロちゃんはあとで巡ちゃんに貸してもらってくださーい」
「はは、そうだね」
楽しげに話すふたりを横目に、チェシャ猫は呟いた。
「じゃああんた、また巡に会いに行かねえとな。それ届けに」
彼の小さな声を拾い、愛莉は満面の笑みで頷いた。