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お兄ちゃん

 チェシャ猫が談話室に戻り、上戸は施設の職員と話しはじめ、やがて子供たちの検診が始まった。チェシャ猫と愛莉は施設を引き上げ、傍のコンビニへ立ち寄る。チェシャ猫がサンドイッチと紅茶を買うと、愛莉も真似て同じものを購入し、紅茶はミルクティーを選んだ。

 コンビニの駐車場は、車が一台もない。外に置かれたベンチにチェシャ猫が座ると、愛莉も隣に腰を下ろし、無邪気に聞いてきた。


「ねえねえ、チェシャくんあのおじさんと、なんの話してたの?」


「上戸先生な。おじさんとか言うな」


 チェシャ猫がサンドイッチの包装を開ける。


「上戸先生は、この辺にクリニックを持ってる開業医だ。こうして定期的に検診に来てるから、巡が手術を受けて以降の怪我の管理は、全部先生に任せてる」


「ふうん」


「今日ここに来たのも、先生と大事な話があったからだ。で、その大事な話をしていた」


 内容までははっきり答えず、チェシャ猫はサンドイッチを口に近づけた。愛莉はその横顔を眺め、自分もサンドイッチを開ける。


「巡ちゃんって、すっごくかわいいね」


 サンドイッチの角を食んでいたチェシャ猫は、動きを止めた。


「は? 顔分かんねえだろ」


「顔の話じゃないよ! 穏やかでふわふわしてて、お兄ちゃん大好きで、そういうところがかわいいの」


 愛莉もサンドイッチをひと口齧り、うっとりと目を細めた。


「いいなあ、あたしもかわいい妹、欲しいなあ。あ、でもお兄ちゃんも欲しいな! チェシャくんみたいなお兄ちゃん!」


 楽しそうに思いに耽ける愛莉を前に、チェシャ猫はしばらく静止していた。そしてまた、サンドイッチを食べはじめる。


「巡に会った感想がそれか。まあ、あんたはそういう奴だよな」


「巡ちゃんにも言われたよ。皆、怖がったり同情したり、腫れ物を触るように接するって。でもあたしは、巡ちゃんはチェシャくんに優しくされる特権を持ってるすごい女の子! って思ったね」


 愛莉がいたずらっぽく笑う。チェシャ猫はサンドイッチをもぐもぐと咀嚼し、正面の道路に顔を向けた。くすんだ空と、地方の垢抜けない街が広がっている。


 夏休みのある日。

 出かける家族に呼ばれたが、暑くて眠くて億劫で、ついていかなかった。まさかあのまま両親が戻らないとは思わなかった。妹の顔がなくなるとも思わない。

 自分だけが、助かってしまった。

 せめてあの朝、目を開けていれば、妹の顔を見ておくことができたのに。


 チェシャ猫がぽつりと、話し出す。


「巡は、脳の神経系にも衝撃を受けていて、長く生きられない」


「……そうなの?」


 愛莉がか細い声を出す。チェシャ猫は続けた。


「長く生きられないけど、生きてる限りはなるべくいい生活させてやりたくて……そのためには、金も惜しまない」


 やや猫背のせいだ。姿勢が前屈みだから、長い前髪が顔を隠して、愛莉からは表情が見えにくい。


「シロさんとは、事故の一週間後に出会った」


 冷たい風が、紅茶の湯気を運ぶ。


「高額な手術を頼んだはいいけど、俺はフリーターで、金はなかった。金を借りる宛もない。あの街に戻って働いてたバイト先でシフト増やしたりとか、他のバイト掛け持ったりとかしてみたけど、どう計算してもその程度で稼げる額じゃない」


 訥々としながらも、それでいて妙に落ち着いた声色だった。


「街で闇金っぽい業者のビルに入ろうとしてたら、通りすがりのシロさんに捕まって、なんやかんやあって……あの人は俺に大金を貸してくれた」


 それを聞いて、愛莉が怪訝な顔をする。


「通りすがりが貸してくれたの?」


「そうだ。なんつうか、利害が一致してな」


 藁にもすがる思いだった。チェシャ猫はよく考える余裕もなく、彼に借金をした。その借金を返すため、チェシャ猫はシロに促されるまま狩人になった。


「狩人は金になる。技術も適性も必要なうえ、命懸けの仕事だ。且つ、役所の委託で活動する堅い仕事でもある」


「じゃあ、シロちゃんがチェシャくんにこのお仕事を紹介してくれたの、感謝だね」


「まあな」


 愛莉は数日前の、チェシャ猫の言葉を思い出した。


『俺はあんたに借金を返しきるまで、狩人であり続けなくちゃならない』


 彼にヘマは許されない。それはシロへの借金返済のためであり、すなわち、妹のためなのだ。

 愛莉はぱく、とサンドイッチにかぶりついた。


「なんかチェシャくんって、あたしが思ってたよりずっと良いお兄ちゃんだった」


「どういう意味だ。つうか、良い兄でもなんでもねえだろ。怠くて寝過ごして、自分だけ助かってんだから」


 チェシャ猫は舌打ちして、紅茶のカップを口元で傾ける。


「だが、俺が代わりに死んでおけばよかったとも思わない。後悔してないと言えば嘘になるが、やり直せるわけじゃねえ。生き残ったからにはやるべきことをやる。命は助かった巡とどう生きていくか、それだけ考えればいい」


「おお……チェシャくんかっこいい。やっぱり素敵なお兄ちゃんだよ!」


 愛莉はサンドイッチを口の前で止め、目を輝かせた。


「巡ちゃんは恵まれてるね。奇跡的に命が助かったのも、妹想いのお兄ちゃんがいるのも。シロちゃんが救いの手を差し伸べてくれたのも、神様に愛されてるみたい」


「すげえポジティブ。これはレイシーも逃げ出すわ」


 チェシャ猫がサンドイッチにぱくつく。中のレタスだけがずるりと抜けた。彼は口から垂れ下がるレタスを、もぐもぐと吸い込んでいく。愛莉はその様子を眺めつつ、尋ねた。


「チェシャくんとシロちゃんの利害の一致って、どういうこと? チェシャくんがお金欲しいのは分かるけど、シロちゃんにはなんのメリットがあったの?」


「自分の代打を探してたんだよ。気配がなくて金もなくて、後先考えてる余裕もない奴を」


 レタスを飲み込み、チェシャ猫は気だるげに聞き返す。


「あんた、山根さんからどこまで聞いてる?」


「うーん、叔父さんが行方不明なのと、シロちゃんがその叔父さん捜してるって話は聞いた。手がかりを掴むためにレイシー関係のお仕事もしてるけど、でも自分は狩人にならずにチェシャくんを狩人にしたって」


「それだよ。シロさんは、叔父さんの行方を探るためにレイシーに関わる必要はあったが、シロさん自身は実戦には向かない。だから俺は、シロさんに金で雇われて狩人になった」


「なるほど。チェシャくんはお金が必要、シロちゃんは狩人が必要だったのか」


 言ったあとで、愛莉は首を傾げた。


「山根さんが、シロちゃんが狩人にならなかったのは『向いてなかったから』だって言ってた。狩人ってそんなに向き不向きがあるの?」


「ある。シロさんはマジで向いてない、らしい」


 チェシャ猫ははっきり答え、レタスのなくなったサンドイッチをひと口齧った。愛莉は紅茶を飲み、へえと気の抜けた返事をする。


「チェシャくんは向いてるから無事なんであって、向いてなかったら一層危険なお仕事なんだろうなあ。シロちゃんは、なりたくてもなれなかったのかも」


「それは知らん」


 素っ気なく返して、チェシャ猫は残りのサンドイッチを口の中に詰め込んだ。愛莉ももぐもぐとサンドイッチを頬張る。

 チェシャ猫が紅茶を飲んで愛莉を待つ。愛莉はたまごサンドのたまごサラダを口の端に付けて、無邪気に笑った。


「あたし、今日ついてきてよかった。お兄ちゃんしてるチェシャくんという珍しい一面を見られたし、こうしてデートしてるし、巡ちゃんかわいかったし!」


「あんたは本当、どこまでも能天気だな」


 チェシャは呆れ目で言い、熱い紅茶に息を吹きかけた。


「最後のだけは、同意するが」


「あはは、あたしには冷たいのに巡ちゃんにだけ甘い。そういうところも好きだよー」


「うるせえ。口の端にたまご付いてる」


 吐き捨てるように指摘して、チェシャは紅茶を飲み干した。

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