真の飼い主
つきとじ寮、福祉部。
『和心茶房ありす』の最寄り駅から電車で一時間、降りた駅から徒歩十五分の場所に、それは建っている。広い庭に少しの遊具、古びた平屋の建物があり、門にはその施設の名前が刻まれている。
チェシャ猫の後ろからついてきていた愛莉は、その門の文字を見上げ、数秒足を止めた。
「福祉施設……?」
立ち止まる愛莉のことなど無視して、チェシャ猫が門から入っていく。愛莉は慌てて追いかけて、彼に続いた。
「チェシャくんの妹さん、こういうところに住んでるんだ」
「ついて来るな」
「もう遅いよ。ここまで来ちゃった」
数人の子供たちが遊んでいる庭を歩き、建物の中へと入る。施設の職員がチェシャ猫を受け付け、中へと通す。歩みが進むに連れて、愛莉の高揚もより高まっていった。
「チェシャくんの妹かあ、チェシャくんに似て目つき悪いのかな? それともすっごく美少女だったりして」
チェシャ猫はなにも答えなかった。
辿り着いたのは、入り口からすぐの談話室だった。ここにも小学生から高校生くらいの子供何人か、テーブルで過ごしている。チェシャ猫は、その中のひとりに声をかけた。
「巡」
「お兄ちゃん?」
風鈴の音を思わせる澄んだ声が、部屋の中に響く。
声の主の方へ、チェシャ猫が歩いていく。愛莉もそれに続いた。
いよいよ、愛莉はチェシャ猫の妹とのご対面の瞬間を迎えた。振り向いたその少女を見るなり、目をぱちくりさせて絶句した。
黒い髪を肩の辺りで切り揃えた、小柄な少女がそこにいた。まだ未成熟な体は、木の椅子の中にちんまりと収まっている。
なにより愛莉の目を引き付けたのは、その顔である。
額から鼻の頭にかけて、包帯をぐるぐるに巻き付けられているのだ。露出しているのは鼻から下だけである。手元に開いているのは、視覚障害者向けに点字で書かれた本。
頭の重々しい包帯とのコントラストで、桜貝のような唇が異様に儚げに見える。その小さな口が、細く割れた。
「お兄ちゃん」
「巡。来たよ」
チェシャ猫の声が聞こえると、少女は本を膝に置いて、細い両腕をめいっぱいに前に突き出した。
「お兄ちゃん、来てくれたのね。どこ?」
チェシャ猫が椅子の脇に寄る。そして宙を撫でていた少女の手のひらを、そっと取った。
「ここ」
「お兄ちゃん」
少女の口角がふわりと上がり、声が弾む。
「見つけた。あはは、お兄ちゃんの手、冷たい。外、寒そうだね」
そう言って笑う少女は、両手でチェシャ猫の手を包んで擦り合わせた。冷たい手を撫でられるチェシャ猫が、僅かに目を細め、愛しそうにまばたきをする。
頭の整理が追いつかなかった愛莉は、しばらく口を半開きにして少女とチェシャ猫の姿を眺めていた。
この少女には、顔の上半分がない。よく見ると、包帯の下の露出している頬に、爛れたような傷がはみ出している。それより上、包帯で覆われた鼻から上は、同様に爛れていると物語っている。
想像の及ばなかったその姿は衝撃的で、愛莉の思考はしばらく停止した。やがてやっと、声を絞り出す。
「この子が妹さん……」
愛莉の声を聞くなり、少女――巡は、びくっと肩を弾ませた。
「誰かいるの? お兄ちゃんの他に、誰か来てる?」
「心配ない。こいつは気にしなくていい」
チェシャ猫に冷たくあしらわれ、愛莉は普段の調子を取り戻した。
「ん! こんにちは、巡ちゃん。あたしは愛莉――」
「勝手についてきた。他人以上顔見知り未満」
愛莉の挨拶に、チェシャ猫がやや大きい声を被せた。愛莉がぶんと顔をチェシャ猫に向ける。
「ちょっとー! 妹さんに『お兄ちゃんの将来のお嫁さん』って自己紹介しようと思ったのに!」
「巡に嘘をつくな」
「そっちこそ、『顔見知り未満』ってことはないでしょ! 少なくとも顔見知りではあるでしょ!」
「他の子供たちの中には聴力が敏感な子もいる。むやみに騒ぐな」
愛莉とチェシャ猫が喧嘩していると、くすくす、と華奢な笑い声がした。愛莉が一旦静かになる。見ると、巡が手を口元に当てて楽しげに笑っていた。
「お兄ちゃん、楽しいお友達ができたのね」
「友達じゃねえ」
チェシャ猫が決まり悪そうに否定するも、巡は嬉しそうである。
「この人を紹介しに来てくれたの?」
「違……」
「私、お兄ちゃんが楽しそうだととっても嬉しい。できれば顔を見たかったな。愛莉さん、これからもお兄ちゃんをよろしくね」
巡の花笑みに、愛莉はまた喫驚させられた。顔が半分しかないのに、優しく微笑んでいるのが充分に伝わってくる。兄のチェシャ猫はまるで愛想がないのに、妹の方はこんなにも素直で穏やかだ。兄とは正反対の、穢れない天使のような少女だ。
その純粋無垢な妹に充てられたか、チェシャ猫は数秒宙を仰ぎ、それからぽんと巡の頭に手を置いた。
「全く……もういいや、なんでも」
巡の姿も衝撃的だったが、愛莉にとってはチェシャ猫の態度も信じがたかった。あの冷徹な狩人が、別人のように柔らかい表情を浮かべている。こんな優しい顔つきは今までに一度も見たことがない。
と、そこで、談話室の戸が開く音がした。
「こんにちは。おお、巡ちゃんのお兄さん。もう来ていたんだね」
声と共に、男が入ってくる。チェシャ猫と愛莉は戸の方を振り向いた。
入ってきたのは、すらりと背の高い白衣の男だった。白髪混じりの髪に、細身の眼鏡の、品のいい紳士である。
「先生。お世話になってます」
チェシャ猫が小さく会釈する。愛莉がチェシャ猫越しに白衣の男を窺っていると、男の方から声をかけた。
「おや、お兄さんが人を連れているなんて珍しいね。初めまして、お嬢さん。私はここに入所している子供たちの定期検診に来ている、上戸和寿です。巡ちゃんの主治医です」
彼、上戸の会釈を受け、愛莉も頭を下げた。
「初めまして! 」
愛莉と挨拶を交わしてから、上戸はチェシャ猫と目を合わせた。
「約束の時間より三十分早いけど、今なら私も時間がある。話せるかな」
「はい」
チェシャ猫は巡の手を離し、上戸へと歩み寄った。そして離れた手を浮かせたままでいる巡に、声をかける。
「巡、先生と話してくる。また戻ってくるから」
「分かった」
巡が頷くと、チェシャ猫と上戸は談話室を出ていった。
一方、愛莉は談話室に残された。巡の椅子の脇に立ち、チェシャ猫と上戸が消えた戸を無言で眺める。
数秒の沈黙ののち、巡が口を開いた。
「愛莉、さん。いる?」
目の見えない巡は、愛莉が黙っているといるかどうかを判断できないのだ。それに気づいた愛莉は、テーブルの上に落ちていた巡の手の甲に、自身の手のひらを載せた。
「いるよ。ここ」
巡の口元が嬉しそうに吊り上がる。
「愛莉さんて、お兄ちゃんのお友達なのよね。顔を見たかったんだけど、ごめんなさい、私、目が見えなくて」
「謝ることないよ」
「愛莉さん、声が若くて、手が小さくて柔らかい。もしかして私と同い歳くらい?」
「巡ちゃんはたしか十四歳だったよね。あたしは高校生だから、巡ちゃんより少しお姉さんだよ」
「じゃあ、愛莉お姉ちゃんね」
子供たちの明るい声が広がる室内に、ふたりの会話がぽつぽつと続く。
巡は自分の手に乗せられた愛莉の手に、もう一方の手を重ねた。
「愛莉お姉ちゃん、私を怖がらないでくれて、ありがとう」
「えー?」
「大抵、ちょっとびっくりされちゃうの。普通に振る舞ってくれてても、手の温度とか、強ばり方とか、あとは声の調子で伝わるのよね」
巡はそう言って、自重的に笑った。
「私、顔がぐちゃぐちゃだから。包帯してる姿も不気味だろうしね。それから若いのにこんなになってる私に対する、『痛々しい』って同情もあるんだと思う」
愛莉はちらりと、巡の顔に目をやった。包帯の隙間から、爛れた痕が僅かにはみ出して見える。
「だけど愛莉お姉ちゃんの手は、お兄ちゃんと同じくらい平常。声も普通」
巡のはにかみ笑いを見て、愛莉は小首を傾げた。
「うーん、本当はびっくりはしたよ。こんな大怪我して、こういう施設で暮らしてると思わなかったし、そもそもチェシャくんに妹さんがいたなんて知らなかった」
「チェシャくん?」
「あ、巡ちゃんのお兄ちゃんね。チェシャ猫みたいだからチェシャくん」
愛莉は巡の包帯絡めの顔を覗き込んだ。
「なににせよ、怖いとかかわいそうとかはあんまり思わなかったかな。どっちかっていうと、優しいチェシャくんの方が、あたしの知ってるチェシャくんと違いすぎて怖い」
「あははっ、なにそれ」
巡が笑い、きゅっと、愛莉の手指を握る。
「お兄ちゃんは、昔から愛想はないけど私には優しいの。といっても、べたべたに甘いわけじゃないけど……」
そこで、巡は口を閉ざした。俯いて愛莉の手を握っている。
それから数秒経つと、彼女はまた、話しはじめた。
「去年の夏にね、私、お父さんとお母さんと一緒に、ショッピングモールに出かけたの。お盆休みでお兄ちゃんが帰省してて、ご機嫌だったお父さんが、キャンプを企画してね。その用品を買いに行ったんだ」
「ふうん」
「お兄ちゃんも買い物に誘ったんだけど、面倒がってついてこなかったの」
「……うん」
「私とお父さんとお母さんは、その道中で交通事故に遭った。引火する薬品を運んでたトラックが横転してきて、私たち家族の車は下敷きになって……」
巡はそこまで話して、再び押し黙った。
愛莉は握られた手をしばらく眺め、それから視線を巡の顔に移した。包帯で隠れた顔を見つめては、嫌でも察した。
「私だけ、死なずに済んだの。まあ死にかけてはいたんだけど、頭蓋骨骨折と顔の火傷で済んで、首の皮一枚っていうのかな。意識がなくなってたから覚えてないけど、病院に運ばれて緊急手術になったみたい。気がついたら、こんな体になってた」
巡は小さくため息をついた。
「そのとき、莫大な手術費が必要でね。慰謝料とか、保険の範囲で保証できる金額じゃないほどの……」
彼女の憂う声に、愛莉はどきりとした。
シロがにこにこしながら話していた、チェシャ猫が狩人になった理由が脳裏を過ぎる。
「お兄ちゃんは引き続き、私のここでの生活費とか、治療費を稼ぐために、一生懸命お仕事してくれてるんだ。無愛想だけどね、そうやって私のために頑張ってくれる人なのよ」
「そっかあ」
愛莉はそれだけ言って、目を閉じた。