音なき彼女
ババババッて感じで彼女が手を動かす。眉間に皺を寄せ、目に涙を溜めて。めちゃくちゃな顔で必死に手を動かして、私に訴える。
「わからない」
そんなに早く喋られたら、私にはわからない。ちゃんと言葉にして注意しても、必死な彼女の耳には入らない。
つむぎ出される言葉は私の網膜に焼き付くばかりで、脳みそで理解することはできない。これで伝わると思っている彼女の盲目的な信頼と、愚かしさが腹立たしい。だからちょっと理性を失った。やばいと思っても、既に言葉は吐き出されてしまう。
「わからないって言ってるでしょう!お願いだから、私にもわかるようにしてよ」
ぐさりと、突き刺さる。くしゃりと、歪む。じわりと、溢れ出す。
「待って、茜」
掴もうと伸ばした手は空を切り、力なく振り下ろされる。ガタンと大層な音を立てて、扉が閉まる。鍵が閉められて、彼女の心は閉ざされる。
部屋に置かれた机を見やると、その上には彼女のピンクのスマートフォンが置かれている。
私は大きくため息をついた。
こうなってしまっては、音を持たない彼女と、意思疎通を図ることは不可能だった。
彼女が篭っている小部屋は、外からも鍵を開けられるようになっている。でも、無理やりこじ開けるのはフェアじゃない。それに、扉は開けられても、彼女の心はそう簡単には開けられない。
扉にもたれかかるように座って、もう一度大きくため息をつく。
だから、話したくなかった。だから、会わせたくなかった。
昼間、母親に言われた言葉が蘇る。
どうして、女の子なの。
どうして、喋れない子なの。
どうして、・・・・・・。
どうして、・・・・・・。
どうして、・・・・・・。
どうして、・・・・・・。
どうして、・・・・・・。
どうして、・・・・・・。
どうして、普通に生きてくれないの。
私の意見も、思いも聞かないで、矢継ぎ早に質問を繰り返して、挙句の果てに彼女と私の事を蔑んで。一体、どうしてあの人にそんなことを言う権利があるのか。親だからといって子の幸せを否定する権利なんてあるのか。
昔からそうだった。箱入り娘で、ろくに社会経験もせず家庭に入った母は、異常なほど了見が狭い。自分のような生き方をする者が人間で、それ以外は敗者。
その気持ちの悪い考えの賜物か、彼女は私以外の兄弟達を立派に育てあげた。
私だけが、敗者。私だけが、汚点。私だけが、悪。
嫌いだ。本当に。母も、母の言いなりの兄弟達も。今頃彼らは母から敗者の話を聞いて、嘲笑っていることだろう。
もう、慣れっこだ。あんな人達、家族ではない。私の家族は、彼女だけだ。
だから、この扉を開けないと、私は生きていけない。
「ねえ、茜。あの人の言うことなんて気にしなくていいから」
当然のことながら、返事は帰ってこない。
その代わりに壁を叩いたような音が、扉の向こうから響く。何度も、何度も。たぶん、怒っている。
「私が悪かったよ。お願いだから出てきて。そこにいたら何もわからないよ」
返事は帰ってこないし、扉が開く気配もない。わずかな記憶から、彼女が閉ざしてしまう前、何を言っていたか思い出す。
『私』
『ばかり』
『あなた』
『幸せ』
『怒る』
思い出されるのは断片的な単語ばかりで、それを並べてもさっぱり彼女の意図はわからない。
大きなため息を着いた時、カチャリと音がした。
扉から離れて、机に置かれた彼女のスマートフォンを持って、戻ってくる。
扉は開かれていた。小部屋の中で、ライトブルーのカバーが着いた便器の蓋に彼女は突っ伏していた。
「ごめんね、怒鳴って。ごめんね、わかってあげられなくて。でも、茜の言葉、ちゃんと理解したいから。私にもわかるようにゆっくり話して」
彼女は振り向いて、顔を上げると私の手からスマートフォンを奪い取った。
ゆっくりと、彼女の手が動いて、言葉を紡いでいく。
『どうして、わたしの事ばかりなの?芽生の幸せちゃんと考えて。だから、怒った。』
下手くそで、不器用な文章が心に響く。でも、彼女の勘違いだ。私は、いつだって私自身の幸せのために動いている。
『私のせいで、芽生とお母さんが喧嘩するの。嫌だ。』
「違うの。私は、あの人より茜のことを優先しているだけ。私がそうしたいから、そうしたの」
『でも、私のせいで。それは、嫌だ』
「いいの。あなたのこと悪く言うような人、家族じゃない」
言葉を聞いて、彼女の目が見開かれる。また、雫が溜まる。
彼女はスマートフォンを投げ出し、自分の言葉で、私に訴える。
『もう1回』
『話す』
『お母さんと』
『約束』
彼女が小指を差し出す。
本心はもう話したくない。もう会いたくない。でも、私のことを思ってこんなにも涙を流す彼女の気持ちと思いやりを尊重したい気持ちもある。
迷いながら、指を絡める。
彼女が、頷く。
「でも、最後の最後は、茜のこと優先する。それは、絶対だから」
彼女は、逡巡しながらも、コクリと頷く。そして、私に抱きつく。
音を持たない彼女の精一杯の愛情表現を受け入れながら、私はそっと彼女の肩口に顔を埋めた。
この子を幸せにすることが、私の使命なのだと、盲信する。
何度も何度も信じ直す。
だって、彼女以外、私にはいらないのだから。
失声症の女の子と、親に見放された根無し草の女の子のお話。
(訂正:失語症ではなく失声症でした。)