君子危うきに近寄る(弐)
その日は、家に帰ってからも気分が晴れなかった。
「何なのあれ? はあーっ? 何なの? はあーっ?」
ボクは何度も机をパンパンと叩く。
鈴木先輩の手を引いて教室を出て行く、花梨さんの後ろ姿を思い出す度に腹が立ち、勉強に身が入らない。
四日後に迫るテストにむけて、今は追い込みの時期だというのに!
こんな日に限って家政婦の喜多は急な用事があるとかで外出し、家には気分転換をする話し相手もいない。
姉も調べ物があるとかで、帰りが遅くなるらしい。せっかく今日は生徒会の仕事がオフなのだから、早く帰って来ればいいのに。
「あー、ボクはどうなっちゃったのーっ!?」
机に突っ伏して、足をジタバタさせてみても、気分はどうにも晴れない。
そんなとき、玄関のチャイムが鳴った――
姉はチャイムを鳴らさないで入ってくるし、喜多はそもそも玄関から入ってくるところを見たことがない。
何かの勧誘の人だったらやだなぁ……もし怪しい人だったら、小学生の子どものふりして帰ってもらおうかな。パパもママもいませんって。
そんなことを考えながら階段を降りていくと、モニターに長い髪の女の人が映っていた。
「こんばんは、弟くん……」
玄関の扉を開けると、ボクの予想通り、工藤美紀さんが立っていた。
制服の胸元を少し緩めて、学校で見るよりも何となく艶めかしい感じに見えるのはボクの思い過ごしかもしれない。
「えっと……姉はまだ帰って来てないんですけど」
「うん、知ってる」
「え」
「だって、私はキミに会いに来たんだもの」
小指を折り曲げて、耳にかかる艶やかな黒髪をかき上げて、工藤さんはにっこりと微笑んだ。
「うーそ! ……驚いた?」
「は、はい。ちょっぴり驚きましたけど……」
外で立ち話というのも失礼だと思ったので、玄関の中へと招き入れた。
「それにしても、改めて見るとこの家の玄関は広いわねぇ」
「あ、そうなんですか? ボク、他の家に行ったりすることがないんで、全然気付きませんでした。そっか……ここ広いんだ……」
言われてみると、ここは入ってすぐ左側には靴などを収納する場所があったり、右側にはガレージへの通路があったりするので、普通の家とは間取りが少し変わっているかも知れない。
「実はこの家、以前は父の事務所としても使われてたんです。たぶん、その関係で普通の家よりも広いのかもしれませんね」
「へえー、そんなんだ。お父さんは何の仕事をしていらっしゃるの?」
「探――」
ボクはハッと気付いて口を押さえた。
工藤さんは家に何度も遊びに来るほどの友達なのに、父の職業が探偵ということを知らされていないらしい。
つまり、姉は何かの事情があって、工藤さんに教えていない可能性があるんだ。
「えっと……いろんな手続きを代行したり、報告書を作ったりする仕事らしいですよ?」
嘘は言っていない。
工藤さんの真っ黒な瞳がじっとボクに向けられている。
背中から変な汗がにじみ出るのを感じる。
「あ、あの……もし良かったら家に上がって待っていますか? 今、ボクしかいないので、大してお構いはできませんが……」
ボクは後ろめたい気持ちを隠すように、あたふたと来客用のスリッパを用意した。
「……ん。じゃあ、上がらせていただこうかしら……」
靴を脱ぐ工藤さんの黒髪から漂う、淡いリンスの香りがそっとボクの鼻を打った。





