春の嵐(弐)
「あ、そのだし巻き玉子、美味しそう。一個ちょうだいよ!」
自分のお弁当をあらかた食べ終わろうとしている花梨さんは、口をもぐもぐとさせながらボクの弁当を覗き込んできた。
豪華絢爛な彼女のお弁当に対し、喜多が作ってくれたボクの弁当は、鶏そぼろが乗せられたご飯に、豚の角煮と玉子焼きという、ごく普通の弁当なんだ。
だから一瞬、ボクはからかわれているのではないかと疑ってしまったけれど、彼女の目はボクの弁当箱の中に釘付けになっていて、半開きになった口元から今にもヨダレがこぼれ落ちそうだった。
花梨さんって、ただの食いしん坊……なのかな?
でも、たしかに喜多の作る玉子焼きは、色も香りも高級料亭なみのクオリティなのだから、その気持ちも分からないわけではない。
「うん、いいよ。一切れぐらいなら……」
「やったー!」
無邪気にはしゃいでみせた彼女を見て、からかわれているのではという不安が吹き飛び、ボクはちょっぴりうれしくなった。だけどその直後、すこし前屈みになって目を閉じ、口を『あーん』と開けている彼女を見て、ボクはまたしても後悔することとなる。
そういえば、花梨さんって、周りの空気を読めない子だった……
ドア付近を陣取る男子たちからは「けしからんでござるな」とか「場をわきまえぬ行動は万死に値する」とか言われているし、黒板側にいる女子集団からは奇異の目を向けられている。
「か、花梨さん! あーんはまずいよ、あーんは!」
「え!? なんでー?」
周りの視線を気にしながら小声で忠告するも、花梨さんはきょとんとした顔を向けてくる。この状況をまったくと言っていいほどに分かっていないらしい。ボクは真っ赤に火照った顔を隠すのに精一杯だというのに……
「あの……好きなだけ食べていいから、自分のお箸で取って……くださいっ!」
「えーっ、それはできないよ! 他人のおかずにお箸を付けるのは恥ずかしいことなんだって、ばあやが言ってたよ? ショタ君は教わらなかったの?」
駄目だ。
花梨さんと話しをしていると、ボクの中の『常識』というものがだんだん分からなくなってくる。もしかして、彼女の言っていることが常識で、ボクは非常識なんじゃないだろうかと不安になってくる。
根負けしたボクは、玉子焼きを自分の箸でつかんで花梨さんの口に運ぶ。
花梨さんは『あーむ』と声を漏らしつつ口を閉じる。
「んーっ、ほれはほいしいー! ほいしいよふぅー」
両手をぶんぶん振り回す大げさなジェスチャーで喜びを爆発させている花梨さん。しかし、そんな彼女には目もくれずに、ボクは自分の箸の先端を見つめていた。
しっとりと濡れているその先っぽから目が離せなかったんだ。
なんだろう…… この感覚は……
「ショタ君のお母さん、料理の達人じゃない! なにこの美味しさ、あんたいつもこんな美味しい料理を食べさせてもらってるの? もう一切れよこしなさいよ!」
そんなボクの気持ちも知らずに、テンション高めの花梨さんがぐいぐい迫ってくる。
ボクの頬はカッと熱くなる。
あれ、おかしいな。
家では姉と食べさせ合いなんかいつもやっているし、喜多や母ともやっているし。だから、玉子焼きのひとつやふたつ、花梨さんの口に運ぶことなんて容易いことのはずだったのに……
「だ、だめだよ! これはボクの玉子焼きなんだからっ!」
ボクは弁当の残りを一気にかっ込んだ。
味はまったく分からない。
「あーっ……」
その花梨さんの声と同時に、教室のドアがガラリと開いて、スポーツ刈りの男子が入って来た。
「あー、いたいた。二人にちょっと話しがあるんだけどさー」
彼は中学時代は野球でけっこう活躍した選手らしく、クラスでは当然のように体育委員に推薦されたスポーツ大好き系男子だ。
そんな彼が、頭の後ろに手を当てながら、ばつが悪そうにボクたちに近づいてくる。
その後ろには、同じく体育委員になった猫目の女の子とその仲間たちが、ニタニタ笑いながら覗いている。
得体の知れない黒い影が、ボクと花梨さんを包み込もうとしていた。





