天使の寝顔と動乱の予兆(結)
その時ボクは、一面に広がるお花畑の真ん中で、ぽっかりと空に浮かぶ真っ白い雲をぼんやりと見上げていた。
しばらくすると、花たちがざわざわと騒ぎ始め、真っ黒い雲がまたたく間に空を覆いつくした。
これは嵐が来る前ぶれだ。
ボクは急いでその場を離れようとした。
けど……
『……ボクはどこへ帰ればいいの?』
自分が誰だか分からなくて、途方に暮れる。
頬にポトリと雨の滴。
頬を拭った手のひらはとても小さくて、ボクは幼子なのだと知った。
『ここはどこ? ボクは誰?』
風がビューっと吹いた。
小さな手のひらで顔を覆う。
どこまでも続く真っ黒いお花畑の中心で、幼いボクはしゃがみ込む。
耳をふさいでも聞こえてくる風の音。
人の笑い声――
「うっ……うん? あれ、誰かな……?」
夢うつつの状態で、うすく目を開けると、黒い人影が見えた。
その人物は忍者のような黒い服を着て、抜き足差し足の姿勢のまま固まっている。
うん。これはまだ夢の中だよね。
だって、現代日本において、忍者のような人がいるわけがないもの。しかも、真夜中のボクの寝室に……だよ?
たしか、姉には優秀なボディーガードがついていて、その人は忍者の末裔であるみたいなことを父から聞いたことがあるけれど、それは先祖が忍者だったということであり、その人が現役の忍者という意味ではない。
よし、もう一度ちゃんと寝よう!
ボクは再び目をつむる。
まだ夢の中にいるならば、ちゃんと寝ておかないといけないものね。
ところが、そんなボクの思惑とはうらはらに、しだいにはっきりとしてくるボクの意識。
えっと……やっぱりこれは……現実なの!?
ボクはむくりと起き上がり、目を凝らして黒い服の人物を見てみると、まだ同じ姿勢のまま固まっていた。
切れ長の目だけがこちらに向けられ、少し遅れて顔が『ぎぎぎ』という効果音が鳴りそうな感じで向けられた。
「あ、なんだ喜多さんかぁ……どうしたのこんな真夜中に……?」
忍者のように見えたのは、黒い作務衣を着ている喜多だったんだ。彼女は抜き足差し足の前屈みの姿勢のまま、口を引きつらせるようにしゃべり始める。
「しょ、ショウタさま……ご機嫌うるわしゅうございます……何か悪い夢でもごらんになっていたのでしょうか? 額に汗がにじんでおられますようで……?」
「うん。すごく変な夢だったよ。ボクってあまり夢を見たりしない方なんだけれど、今の夢はすごく怖くて……」
ボクはベッドの上で足を折り曲げ、肩に手を置いて丸くなる。
「夢というものは――」
喜多の声色が変わった。
いつもの落ち着いた感じのトーンで、ボクのベッド脇まで近寄りながら。
「――とかく不思議で、奇妙きてれつなものですからね。そうかと思えば、妙に現実的な部分もあったりもするわけで……」
ボクの目の高さに合わせるように、喜多はベッド脇に片膝をついた。
切れ長の目が優しくボクを見つめている。
「深夜の12時過ぎの寝室で、こうして私とショウタさまが〝二人っきり〟でおしゃべりしているこの世界は、本当に現実なのか、あるい夢まぼろしなのか……それを見極めるのはとても困難なことなのです……」
喜多の細くて長い指先が、ボクの汗ばんだ額をそっと撫でていく。
まるでボクを誘惑しているかのように、濃艶な雰囲気を作り出している。
「えっと……これがもし夢の中だとしても、ボクは喜多さんに伝えなければならないことがあるんだ!」
「えっ」
ボクの頬まで下りてきた指先が止まった。
「ありがとう!」
ボクは喜多の指先にそっと手のひらを重ねる。すると彼女は「ふえっ!?」と短く声を上げた。
「ボクが学校のことで悩んでいるということに気付いて、心配して様子を見に来てくれたんでしょ? でも、ボクは大丈夫だよ。この試練、絶対にのりこえてみせるから、心配しないで!」
両手で喜多の手を握りしめ、ボクは宣言した。
すると喜多は「ふわぁーっ」と素っ頓狂な声を上げたけれど、ちゃんとボクの話を聞いてくれているだろうか?
「それから、もしこの先お姉ちゃんにも気付かれるようなことがあったら、喜多さんから伝えてくれないかな? ボクは一人前の男として、自分の問題は自分で解決するから、何も心配いらないよって!」
「しょ、ショウタさま……」
喜多の細い指がボクの手から抜けて、代わりにボクの手を喜多の手のひらが包み込む。ひんやりと冷たいけれど、心安まる喜多の体温。
「立派に成長なさいましたね。分かりました。ええ、分かりましたとも。私は手出しはしません。ですが、私の助けが必要なときは……この編み紐をぎゅっと握って、私の名を呼んでください。たとえそこが地獄の果てであったとしても、この家政婦の喜多は、馳せ参じますゆえに……」
ボクの左手首に巻かれた編み紐のミサンガを、人差し指でぐるりとなぞりながら喜多が言った。
彼女の指先は、日頃の水仕事のせいで、少しカサついていた。
「うん。そうするよ。ありがとう喜多さん!」
ボクはにこりと笑いながら答えた。
そう、これはボク自身が解決しなければならない問題なんだ。学級担任の星埜守先生とクラスメートの鮫嶋花梨。入学初日でこじれてしまったこの二人との関係をボク自身の力で修復し、一人前の男になるための第一歩とするんだ!
時間が解決してくれるなんて、弱腰でいてはダメなんだ!
「では、私はこれにて失礼します。カエデお嬢さまもきっと、ショウタさまの奮闘を陰から見守ってくれるはずです」
「うん。そうだといいな!」
そうでなければ意味がない。ボクは生徒会長として頑張っている姉を支えるために、星埜守高校に入ったのだから。
喜多のおかげで、ボクは初心に戻ることができた。
喜多は本当にスーパー家政婦なんだ。
夢の中に戻ったボクは、『地獄の果て』と書かれた大っきな立て札の前にぽつんと立っていた。
ずり、ずり、ずり……と、引きずられていくピンク色の子鬼が目の前にいる。
どうやら腕を引っ張っているのは閻魔大王のようだ。
子鬼が引きづられたあとには、色とりどりの花びらが落ちている。
「あ、さっきの嵐はあの子鬼のしわざだったのか……」
幼子のボクは、泣きわめくピンク色の子鬼を見送りながら、そっとつぶやいた。