天使の寝顔と動乱の予兆(弐)
喜多に差し出された紙の資料には、この四月から星埜守学園に赴任してきた新任教師、星埜守律子のプロフィールが細かな文字で印字されていた。
これは生徒会での一件の後あとすぐ、パパの事務所の増田にメールで依頼していた身辺調査の報告書だ。
そうか、喜多はこの報告書を受け取りに事務所へ行ってくれたのか。彼女にとって大切な物のはずの寿司屋セットを片付けもしないで、一体どこへ行っていたのかという疑問が、これで解決した。
「えっと……星埜守律子、二十四歳独身。生後間もなく、両親とともにアメリカへ移住。父親はビジネススクールを経営する日本人で、母親は日系アメリカ人の元モデル。ハイスクールを卒業と同時に単身日本へ帰国し、某国立大学教育学部に入学……ふーん、ずいぶんと変わった経歴の持ち主のようね」
私が感じた違和感は、彼女が外国育ちだからなのかも知れない。そうだとしたら少しだけ安心できる。意外と悪い人ではないのかもしれない。
さらに報告書を読み進めていくと、私の知りたいことがしっかりと書かれていた。
「ふーん、なるほどね。星埜守という姓が偶然の一致とは思っていなかったけれど、まさか学園の創始者の孫だったとはね。一族の中でも直系中の直系じゃない! でも、そんな人がどうして一教師としての立場で学園へ……? 創始者の一族ともなれば、もっと上の立場で学園の経営に関わることもできるでしょうに……」
「それについては、星埜守一族は学園の経営から手を引いているからだと思いますよ? 星埜守学園はすでに横浜に本社のある会社が経営を引き継いでいるゆえに。理事長もその会社の出向社員に過ぎないのです。あの……そんな基本的な情報を、お嬢さまはご存じなかったのですか?」
初耳だった。でも、それを素直に認めたくはない!
「……し、知っていたもん! ちょっとあなたを試してみただけだから!」
「はっ、これは失言でした! どうか私の無礼をお許しください」
そう言いながら喜多は片膝をつき、深々と頭を下げる。
私はその様子を口の端をヒクつかせながら見ている。
私は自分が通っている学校の経営者が誰だなんて興味はないから、調べようともしなかった。
いくら私が生徒会長だとしても、関わるのはせいぜい校長先生どまりであり、理事長などという立場の人物と会うどころか、名前すら知らないのだ。
生徒会長が理事長室に呼ばれて、学校の経営に関わる相談を持ちかけられたり、生徒の要求を通すために理事長室に乗り込むなんて、テレビドラマの世界だけのものなのだ。
そもそも、うちの学校に『理事長室』なんて部屋が存在するのだろうか?
「でも、それならどうしてあの人はうちの学校へ来たのかな? アメリカにいる両親から離れて、単身日本に帰ってきてまで、星埜守学園で働きたいと思うに至る動機がまるで分からないわ」
「――じっちゃんの名にかけて、この学園の癌を追い出して、学園を救うんだーっ!――という感じかもしれません」
「あはっ、なにそれ? テレビドラマか何かのセリフなの? もうー、喜多ったら、そんな大衆娯楽のネタなんて、どうやって仕入れてくるのかなー? あははははは」
いつもは冗談の通じないはずの喜多が、自ら拳を突き上げ、少年のような声色で変なことを言い出すものだから、私は可笑しくて可笑しくて、お腹を抱えて笑い転げてしまった。
何なのよ、〝学園の癌〟って。
そんな人、丸々二年間学園にいたけれど、見たことも聞いたこともないよ。
〝学園を救うんだー〟って?
そんなのまるで昭和時代の戦隊ヒーローのセリフみたいじゃない。
それ、まだテレビがブラウン管だった時代の話よ。
「もうー、ほんと、あなた最近変だよー、あははははは」
笑い転げている私は、すっかり忘れていたのだ。
ここが祥ちゃんの寝室であることを――
「うっ……うん? あれ、誰かな……?」
水玉模様のパジャマの袖で、目をゴシゴシ拭きながら、祥ちゃんがむくりと起き出した。
私は焦った。
このままでは祥ちゃんに変な目で見られてしまう!
喜多なら、いつものようにどろんと天井裏へでも身を隠すだろう。
だけど、忍者ではない私が隠れる場所といったら――
ベッドの下に隠れた。
眠りの深い祥ちゃんは、誰もいないと分かったら、またすぐに眠りにつくはず。
そうすれば、すべて解決する。
そう思っていたのに……
「あ、なんだ喜多さんかぁ……どうしたのこんな真夜中に……?」
喜多は身を隠すことなく、祥ちゃんに見つかってしまっていたのだ。





