天使の寝顔と動乱の予兆(壱)
深夜の十二時を過ぎたころ、私はいつものように祥ちゃんのベッドの脇に座って、天使のような寝顔を眺めていた。
真っ暗なところでは眠れない祥ちゃんは、天井のライトを常夜灯にしている。オレンジ色の暖かな明かりに照らされる祥ちゃんのふっくらと柔らかそうなほっぺたに引き寄せられるように、私は顔を寄せていく――
「ご依頼の報告書を持って参りました……」
「ひゃっ!?」
とつぜん耳元で声をかけられ、思わず変な声を出してしまった。
「し、心臓に悪いから……こういうのは止めてくれないかな! 私が死んだら、あなたも困るよね? しかも祥ちゃんが寝ているベッドの脇でだよ? ……でも、それも悪くはないかな?」
「なかなかにツッコミどころの多い状況ではありますが、驚かせてしまい申し訳ありませんでした。しかし、気配を消して死角から忍び寄ることは忍者の特性ゆえに、おいそれと止めるわけには参りません……」
そう言いながら恭しく頭をたれる喜多は、黒っぽい生地に桜模様の作務衣という出で立ち。彼女は人目を避けて深夜に忍者の修行をしているらしいけれど、万が一にも警察から職務質問を受けたときのために、こういう服装を選んでいるという。……まあ、それでも十分に怪しいと私は思う。
「本当にあなたって人は、寿司職人になったり、忍者になったり、相当忙しいわね! でも、あくまでも家政婦が本業なんでしょう? 最近のあなたを見ていると、その認識があやふやになってきて、対応に困るん――ふがふが!」
突然後ろから首に腕を回され、口をふさがれてしまう。
「しっ! ショウタさまが起きてしまいます!」
見ると祥ちゃんは「うう……ん」と寝言を言いながらごろりと寝返りをうった。
危ないところだった。今、この状況で祥ちゃんに目を覚まされてしまうと、『お姉ちゃんが変なことをしようとしていた』と勘違いされてしまうかもしれない。
私はただ、祥ちゃんの寝顔を眺めていただけなのに……
祥ちゃんがまた寝返りをうった。
顔が再びこちら側に向けられて、天使の寝顔が常夜灯のぼんやりとした明かりに照らされた。
すー、すー、と可愛らしい寝息が聞こえる。
私たちはその様子に目を奪われ、しばし無言となった。
「穏やかな寝顔ですね……ショウタさまの寝顔は本当に癒やされます……」
「でしょー? 一日の終わりに祥ちゃんの寝顔を眺める。これ、最高の贅沢なのよ! だから、この時間は誰にも邪魔されたくはないの! 分かるでしょ?」
「そのように堂々とおっしゃられては、私も反応に困りますが……まあ、今夜のところは水に流しましょう。私にはキッチン周りの片付けを任せっきりにしてしまった負い目もありますし……」
「そうよ! あなたがどろんと姿を消しちゃった直後にママは事務所から緊急の電話があってすぐに帰っちゃうし、祥ちゃんは入学式で疲れているのにお片付けを手伝おうとするし、私一人が大奮闘だったんだから!」
祥ちゃんのベッド脇に片膝をつき彼の寝顔をじっと見つめている喜多の横顔に向かって、腕を上下にぶんぶん振りながら文句を言った。
しかし、喜多の視線は、祥ちゃん向かってどこまでもまっすぐで、揺るがない。
あれ? 聞こえていないの?
たしかに私は祥ちゃんを起こさないように小声で話しているけれど、喜多はけっして耳が遠いわけではない。むしろ、隣の部屋で落とした針の本数を聞き分けられるほどの超人的な聴力の持ち主のはず。
そんな喜多が、祥ちゃんの寝顔をまっすぐ見つめたまま、動かざること山のごとしである。
「――ぷはっ、危ないところでした。……お嬢さま、今何か言いましたか?」
一国の王に接見する民のように、祥ちゃんのベッド脇で片膝をついた喜多は、顔だけをこちらに向けてきた。
彼女はまるで妄想という名の深海から浮上した潜水士のように、深く息を繰り返している。
「……やっぱりあなた最近、少し変だよ?」





