喜多さんの、にぎにぎ握り寿司(結)
寿司は、味の淡白なネタから始めて、徐々に濃い味のネタを注文するのが通の食べ方なんだとか。
母は仕事上の付き合いで、ときどき寿司屋に行くらしい。それにくらべて、本格的な寿司屋はおろか、回転寿司にすらあまり行くことのないボクと姉は、テーブルにずらりと並べられた寿司ネタをみて、次に何を注文すれば良いか決めかねていた。
「お二人は、私にお任せいただいてよろしいでしょうか? 寿司屋に入ってご自身で注文なさるのが難しいときには、だいたいの好みと予算を伝えて、あとはお任せするのがよろしいかと……今宵はお金の心配は不要ですし、お二人の好みについては承知しておりますゆえに……」
「うん、よろしく頼むよ喜多さん!」
「私もそれでいいかな……」
「へい、お任せコース入りましたー!」
喜多の威勢の良い返事が『喜多寿司』の店内に響き渡る。
それからはボクらが食べるペースに合わせて、タイミング良く寿司が出てきて、ボクらは舌鼓をうつ。
その合間には、母からの注文も入るのだけれど、三人ともほとんど待たされることはなかった。それほどまでに、喜多の動きは無駄がなく、完璧なんだ。
喜多の握る寿司は、どのネタも美味しい。きっと食材に適した切り方と工夫をしているんだと思う。
もちろんネタが新鮮ということもあるだろうけど、ネタを握りやすい大きさにただ適当に切っただけでは、ここまでに美味しい寿司は作れないだろう。
「さすがショウタさま! その若さにして、この寿司のこだわりにお気づきになるとは、恐れ入りました!」
心の中で思っている言葉が口からこぼれ落ちる、いつものボクの癖が出ていたようで、喜多がものすごく喜んでいる。
「あ、そんな恐れ入るようなことではないと思うよ? ボクはただ、喜多さんの握るお寿司が本当に美味しいから、いろんな工夫を凝らしているんだろうなと想像していただけだから……」
そう。ボクは食通ではないし、そもそも本物の寿司屋に入ったことすらないのだから、寿司の美味しさについて語る資格はないよね。
でも、ボクの弁解は彼女の耳には届いていないようで……
「うれしい、うれしいです……三年にわたる地獄のような修行期間が、この時のためにあったと思えば、私の人生もなかなか素敵なものに思えてくるのです……」
「えっ……地獄のような修行!?」
ボクと姉は驚いて、顔を見合わせた。
喜多は若い頃にやんちゃな時期があって、そのときに父と出会ったということは以前に聞いたけれど、それ以外のことについては何も知らなかった。それは姉も同じだったようだ。
喜多の目をまっすぐ見つめると、彼女は少し頬を赤く染めて、語り始める。
「これは私がまだ若かったころの話です……。私は郷の外れにあった、とある寿司屋を半壊させてしまいました。すると店の大将にひどく叱られ、大将の弟子にさせられて、住み込みで働かされるようになりました。十二の春の話でございます……」
「えっと、十二歳って……若いというよりまだ子供だよね? 大丈夫なのかな、法律とかで子供の労働は禁止されているとかはないのかな?」
「本当に非道い話です。若くして親元を離れ、修行の身となったのです。学校には通わせていただきましたが、地元の中学校では数々の伝説を残したのも、今では良い思い出でございます、ええ。……あの、それについても詳しく知りたいですか?」
天井からぶら下がった照明の光が包丁にキラリと反射した。
ボクはごくりとツバを飲み込む。
「……ううん。だって、それは喜多さんにとって、あまり思い出したくない過去なんでしょ?」
「そうですか、残念です……」
すると喜多は、なぜかがっくりと肩を落とし、玉子焼きを切りはじめた。
「今思うと、あれはやんちゃな私に手を焼いた親が、大将に子育てを丸投げしたのではないかと推測していますが……。まあ、今となっては真実は闇の中。死人に語る口はありませんので……」
そっか。もうその件に関係する人たちは亡くなってしまったのか。
喜多の表情は寂しげで、口の端がぎゅっと結ばれている。
でも、喜多にとってのその三年間の修行は本当に〝地獄のような〟ものだったのだろうか。なぜか、ボクにはそう思えない。
「さ、ショウタさま……これを召し上がってみてください。先代の女将から受け継いだ味でございます……」
それは玉子焼きの握り寿司。見た目は何の変哲もないただの玉子焼き。
一口食べると、ジュワッと甘い出汁が口の中に広がって、ほろっとくずれるすし飯によく絡んでいく。
ガツンとくる旨さではないけれど、優しい美味しさだ。
「最近は市場で仕入れてきた品を出す店が増えているのですが、本来は店の味が込められている究極の一品、それが玉子焼きなのです。私はこの味を守るために、時々こうして奥さまにご賞味いただいているのです。今年はショウタさまの入学祝いだからと、この席を用意していただきました。奥さま、ありがとうございます……」
「今ごろ大将も、天国で奥さんの玉子焼きに舌つづみをうっているかも知れないわね」
「あの大将のことゆえに、あの世でも大酒を飲んで叱られているのではないでしょうか。それに引き換え、私は幸せ者です。愛する方と、そのご家族にこうして腕を振るうことができるのですから……」
そう言いながら、喜多は大きな海苔を広げ、巻物を作り始める。
その手際の良さに、母と姉とボクはしばらく無言で見とれていた。
数秒後――
「はっ!? 今あなた、さらっと恐ろしいこと口走らなかったかな?」
「んんっ?」
姉はガタンと手をついて立ち上がり、母は腕を組んで大きく首を傾げた。
「おっと、口が滑りました。では、本日はこの鉄火巻きにて締めさせていただきます!」
と言いながら、喜多は大きく手を振り上げると、天井に届くほどの高さまで鉄火巻きが宙を舞い、やがて放物線を描くように落下して、突き刺さるように三人の皿に積み重なっていく。
『お後が、宜しいようで…………』
口をあんぐりと開け、それを見ていたボクたちが気付いたときには、もう喜多の姿はどこにもなかった。彼女が立っていた場所には、『お吸い物が奥の鍋に入っているので召し上がれ』という毛筆の達筆な書き置きが残されていた。
「……えっと、お吸い物があるって」
「あ、祥太ちゃんは座っていて! そのくらいママがやるわよ」
「じゃあ、私はお茶を淹れようようかな……」
母と姉が喜多寿司の暖簾をくぐり、キッチンへと下がっていった。
ボクはひとりで、鉄火巻きをつまみ食いした。
「やっぱ、美味しい……」
天井裏から、ゴトンという音が聞こえてきた。