喜多さんの、にぎにぎ握り寿司(参)
右手に置いた寿司飯を軽くまとめて、左の指先に薄く切ったタコをのせる。そのタコの上に、寿司飯をさっとのせ、両手の指を使ってくるっと回転したと思ったら、あっという間に握り寿司が出来上がっていた。
かかった時間は、およそ7秒。
注文からわずか十五秒で、ボクの前に置かれた木の板には握り寿司が二貫乗せられていた。
「へい、タコお待ち!」
「うわー、すごいね! 本当に握り寿司だね!」
「ありがとうございます……さあ、どうぞお召し上がりください……私の手のぬくもりが残っているうちに……」
「えっ、あ、うん……」
どうしてここで手のぬくもりの話が出てくるのかは分からないけれど、確かに寿司は握った人の手のぬくもりと共に、おもてなしの心が込められている感じがするよね。
ボクが見上げると、喜多はほんのり頬を赤く染めて、微笑んでいた。
ボクの両サイドにいる姉とママは、そんなボクらを見て、頬を引きつらせているように見えたけれど……、それはボクの思い違いかもしれない。
それはさておき、ボクは今、とても後悔している。
学校の話題から逸らすために、目の前で捌かれていたタコを注文してしまったけれど、本当はあまり得意じゃないんだよね……タコ。
ボクはかみ応えのある食べ物は、ちょっと苦手。きっと、ボクはあごが弱いんだと思う。
でも、勢いで頼んだボクが悪いんだ。
ここは男らしく、食べるしかない!
木の板に並んだうちの右側の寿司を、右の三本指で持ち上げる。
ボクの指先に三人の視線が集まっているのを感じ、少し手が震えてしまう。
親指でネタを落とさないように押さえながら、ひっくり返して醤油を付け、口に運んでいく。
「うまい!」
「はっ」
「えっ」
「ふっ……」
思わず口をついて出たその言葉に、ボク自身が驚いていた。
姉と母も、ボクのその反応に驚きの声を上げ、喜多はしてやったりの表情になった。
「えっと、ちょっと待って! 祥ちゃんはタコが苦手じゃなかったかな?」
「うん、ボクはタコが苦手だった。でも、今この瞬間に奇跡が起きたんだ! 柔らかくて美味しいんだよ、喜多さんの握るタコのお寿司は!」
「え、すごい……じゃあ私も」
「お待ちください!」
「ふぇっ!?」
姉が残りの寿司に手を付けようとしたとき、喜多が怒濤の勢いでその手首をつかんで止めた。
いつも冷静沈着な喜多にはめずらしいことだ。
「この一貫はショウタさまのために握った物ゆえに、何人たりとも手を触れてはなりません! ご希望をおっしゃっていただければ、握りますのでこの手はいったんお引きください」
「くっ……そう言われたら返す言葉もないわ。では、改めてタコをいただこうかしら!」
「へい、よろこんで!」
姉はテーブルの下で手首を振って痛がる素振りをみせている。喜多に手首をつかまれたぐらいで、そんなに痛いものだろうか? 喜多はそんなに握力があるようには見えないのだけれど……
「さあ、ショウタ様……わたくしの心を込めて握った寿司を、もう一つ召し上がりください。寿司は二貫でひとつ。いわば、物語の上巻と下巻のようなものなのです……」
「あ、うん。じゃあ、いただこうかな」
やっぱり美味しい。
タコは柔らかくてすぐにかみ切れるし、口の中で寿司飯がほろりとくずれて、お酢と醤油の味も合わさってコクと甘さが広がっていく感じがする。
「わっ、ほんとに美味しい。このまえ、生徒会の皆と食べたお寿司とは雲泥の差ね」
自分の分が置かれるなり、すぐに口に入れた姉は、ほっぺに手を当てながら、ぴょんと腰を浮かして驚いた。そこで初めて気づいたけれど、姉の手首には、強力な何かでぎゅうっと握られたような赤いあとがついている。
「あらやだ、楓ちゃん。ママが腕を見込んだ喜多の寿司を、町の回転寿司と比べないでくれるかしら? あ、私にもタコちょうだい」
「へい、よろこんで!」
威勢の良い返事と同時に、寿司飯の桶に手を入れる喜多の動きは、まるで熟練の寿司職人の手慣れた動きそのものだ。
まあ、ボクも本格的な寿司屋に連れて行かれたことはないから、あくまでも想像なんだけれど。
「喜多さん、すごいなぁ……本物の寿司屋さんみたいだよ。ママは喜多さんの特技のことを知っていたんだね!」
「うふふ……、ママは喜多のことは何でも知っているわよ? だって、この子がウチに来たのは、ちょうど今の祥太ちゃんと同じ十五の春だったものね。うふふ……ママとパパが出会うきっかけを作ったのはこの子なの♡ パパが警察を辞めるきっかけを作ったのもこの子なの……」
途中まではうきうきと喋っていた母だったけれど、最後は遠い目をしながらため息まじりになっていた。
「おお、お、奥さま! ショウタさまとお嬢さまの前で、その話は……へーい、タコお待ち!」
いつもは冷静沈着な喜多が、ひどく焦った感じで母の前に置かれた木の板に、二貫のタコの握りを置いた。
それから二人はしばらく無言で目を合わせていたけれど、まるで火花がバチバチと散っているようなにらみ合いに見えたのは、ボクの目の錯覚にちがいない。