君子危うきに近寄る(玖)
「待ちなさい、美紀さん!」
階段を降り始めたところまでは、犯人を追いつめる探偵の気分だったけれど、状況はどう考えても私の方が不利だった。
「ちょっと待ってよー!」
日本舞踊を習っているという美紀さんは、身のこなしも軽やかに階段を駆け下り、玄関まであっという間に到達しようとしている。
「お願い、待ってえぇぇぇー!」
最後には、恋に恋する乙女が意中の男を追いかけるようなセリフを吐いてしまっていた。
美紀さんは玄関のドアに手をかけた状態で固まった。
私は勢い余って、ドアに勢いよくドーンと両手を付いて、美紀さんとの衝突を避けた。
――相手はドアだから、これは決して壁ドンではないと思うの。
美紀さんはくるっとこちらを向いて、目を見開いた。
わなわなと震える薄くて形の良い唇からは、浅く早く吐息が漏れている。
柔らかそうな美紀さんの唇。
ベッドの上での感触が蘇ってきて、つい目が惹き付けられてしまう。
なにか得体の知れない背徳感に、心がかき乱されていく。
「ち……ちが……うから……」
「ふぇっ?」
美紀さんの唇から漏れる声に、思わず変な声を上げてしまう私。
だが、そんな私の反応がかえって美紀さんを勇気づけたらしく、言葉を繋げていく。
「私は……カエデから弟くんを奪ったりはしないから! だから、全部私に任せてくれないかな? 絶対に悪いようにはしないから! 私を信じて!」
美紀さんはカバンの取っ手をギュッと握って、うつむく。
頬を赤らめてきゅっと唇を結んだその表情は、強い意志を感じさせた。
「ご、ごめん美紀さ――」
「分かるよね!? カエデなら、私が言いたいこと、全部お見通しなんだよね!?」
「はわっ?」
パッと顔を上げられた私は、激しく動揺してしまう。
「え、ええ、まあ……もちろん美紀さんが言おうとしていることは分かっているわ……ええ、分かっていますとも!」
じどろもどろに答えると、美紀さんの顔がウソみたいにぱあっと明るくなった。
「良かったー! 一時はどうなることかと思ったけれど、カエデの誤解も解けて良かったー! 私、今日ね、ものすごく勇気を出して来たんだよ?」
「え、あっ、そうなんだー……」
ひどい生返事だ。
いったい私は何を誤解して、その誤解がいつ解けたというのだろう?
マズい! 全然わからない!
何でも知っていて、何でもやれるという私の自我に危険信号が点っている。