君子危うきに近寄る(陸)
内側に開いたドアにもたれかかった姉は、胸元のリボンをしゅるりと取り去る。
玉のような汗がブラウスの第一ボタンが外れて垣間見える胸元に流れ落ちて吸い込まれていく。
「この部屋……暑いわ……」
そう言いながら、エアコンのリモコンを壁のフォルダからスッと抜いて――
何度も何度もボタンを押し始めた。
「祥ちゃん待っててね? すぐ快適温度になるからね?」
「あ……う、うん」
そう返事をしたものの、ボクは呆然と姉の奇行を見守るしかなかった。
姉の細い指先がリモコンのボタンに触れる度に、エアコンの本体からピッと音が鳴り、やがてピーッと長い電子音が鳴り響く。
たぶんこれ、エアコンで設定できる最低温度まで達しているよね。
リモコンを操作する姉の表情は、前髪が被さっていてよく見えない。けれど、口元はニヤリと笑っているように見えた。
それを見たボクは少し安心したけれど、隣の工藤さんは、ぶるぶると全身が震えている。
「カ、カエデ……あの……これは……ね……」
なんとか声を絞り出そうとしているけれど、声まで震えてしまっている。
こんな様子の工藤さんをボクは初めて見た。
先程までの、ぬいぐるみを手にして嬉しそうに笑う工藤さんとはまるで別人のようだ。
ブルブル震える手で握られた、黄色いワニと青いライオンの顔がひどく歪んで、ボクに助けて言っているように見えた。
「お、お姉ちゃんお帰りなさい!」
「うん、ただ今祥ちゃん!」
顔を上げた姉の前髪がぱらりと分かれ、いつもの感じの笑顔がみえた。
「あの……今ね、工藤さ――」
「プリン買ってきたから後で食べましょう!」
ボクの言葉を遮るように、リモコンをもつ手を上げた。
「あれれ? プリンを持っていたはずの手に何でリモコンが? あ、そっかー、私ったらおっちょこちょいだから、玄関に置いて来ちゃった。カバンも投げ捨てて来ちゃったかもー。悪いけど、祥ちゃん玄関に見に行ってくれないかな?」
そういってニヤリと笑う姉の目は、ボクの隣で震えている工藤さんへと向けられていた。
そっか。
姉は工藤さんが家に遊びに来ていることを知り、慌てて帰って来たんだ。
じゃあ、ボクが邪魔しちゃ悪いよね。
「うん、分かった!」
ボクは工藤さんにペコリと頭を下げ、玄関へと向かった。
▽
階段を降りていく祥ちゃんの足音が遠ざかっていくのを確認し、私はドアを閉める。
「あ、あの……カエデ……?」
「口を開かないで! あなたは私の質問に答えるだけでいい!」
強い口調でそういうと、美紀さんは『ひっ』と短い悲鳴を上げて身体を硬直させた。
そんなに焦るぐらいなら、初めから何もしなければいいのに……
私はため息を吐きながら、ドアの内鍵を締めた。
今話は少し短めですが、引きを残して次話に繋げるためにここで切りました。