君子危うきに近寄る(伍)
ベッドから起き上がり、乱れたシャツを直しているボクのすぐ目の前には、鼻歌交じりにウサギのぬいぐるみを鞄にしまっている工藤さんの後ろ姿という、ちょっとおかしな状況だ。
「あのぅ……工藤先輩?」
「センパイなんて他人行儀な呼び方はしないで。私たちはバディなんだから、親しみを込めて〝美紀〟って呼んでくれていいのよ?」
振り向いた工藤さんは、ニンマリと笑っていた。
こんな表情の彼女は初めて見た。
「じゃ、じゃあ……美紀さん?」
「なあに? 弟くん」
どうやらボクの呼び方は変えるつもりはないらしい。
「美紀さんは姉の友達なんですから、ぬいぐるみが欲しければ姉に頼めばいくらでも貰えるとおもいますよ?」
「そんなこと頼めないわよ! カエデに卑しい女って思われてしまうもの!」
「えっ」
突然、まるで小さな女の子のように、頭をぶんぶん横に振る工藤さん。
ボクは一瞬、次の言葉を失った。
でも――これだけは言わなくちゃ!
「姉はそんなことで人を見下したりはしません! それは親友の美紀さんが1番知っていることじゃないんですか?」
強い口調で言ってしまってから、慌てて口をふさいだ。
工藤さんが切れ長の目を見開いてボクを見ていたからだ。
「ご、ごめんなさい美紀さん!」
「あ、弟くんが頭を下げる必要はないのよ! そうよね、カエデはそんなことぐらいで私を見下したりはしないよね……うん。そんなことぐらいでは……ね」
工藤さんは慌てた様子で手を何度も交差させてから、最後にフッと息を吐いて視線を横に流した。
どこか寂しげなその表情が何を意味するのかは分からないけれど、ボクが何かマズいことを言ってしまったことだけは分かっていた。
「あの……ぬいぐるみで良かったら、好きなだけ持っていっていいですからっ」
「え、いいの!?」
「はい! 姉も友達の工藤さんが大切にしてくれるなら喜んでくれるはずです!」
思わず口から飛び出した言葉だったけれど、工藤さんの顔がぱあーっと明るくなったのを見て、ボクはほっと胸をなで下ろす。
「ううーっ、どれにしようかな? これがいいかな? うーん、あっ、これもカワイイーッ!」
ぬいぐるみをベッドに並べて、わいわい騒いでいる工藤さんの後ろ姿は、まるでおもちゃ売り場にいる小さな女の子みたいだ。
「あーん、でも鞄に入るのは三個が限度よねぇー……うん、キミとキミに決めた!」
工藤さんは黄色いワニと青いライオンのぬいぐるみを両手に持って、くるっと振り向いた。
「ありがと♡ 大事にするね!」
満面の笑みを浮かべるその顔は、やはりボクの知らない工藤さんだった。
「じゃあ……私からもお礼をしなくちゃ……だよね」
「あ、これから勉強を教えてもらうんですから、他にお礼なんていりませんよ?」
「ううん。勉強を教えてあげるのはバディとしてだよ? そうじゃなくて、弟くんにはもっといろいろと教えてあげたいの」
「いろいろ?」
色々なことって何だろう?
星埜守学園の七不思議とか、生徒会執行部しか知らないウラ校則とか?
ボクは首を傾げて考え込んでいると、工藤さんがぬいぐるみを持ったまま近寄ってきた。
「カエデのことが大好きなキミとなら、私はうまくやれる気がするの。ねえ、キミの願いを言ってみてよ。私はなんでもやってあげるよ?」
着崩れた工藤さんの制服の胸元が近づいてくる。ボクの頭の後ろに二つのぬいぐるみが押しつけられて――
ボクは石けんの香りに包まれた。
「じゃあ、お願いしようかな……」
「ん。言ってみて、男子高校生くん!」
プハっとボクは顔を上げると、工藤さんのやや固い表情の顔が間近に見えた。
「これからも、ずっとずっと、姉の友達でいてください。姉はああ見えて友達は少ないんです! だから、美紀さんだけは……ずっとずっと姉の友達でいてください!」
これはいつか言おうと思っていたけれど、なかなか言う機会がなかったこと。だから、工藤さんと二人っきりになった今がチャンスだと思ったんだ。
そのボクの言葉を聞いた工藤さんの顔から固さがスッと抜け、しだいに頬が紅潮し始める。
「なにこの天使わぁ! 弟くんマジ天使ぃぃぃー!」
ぎゅうぅぅぅっと抱きしめられしまった。
次の瞬間、ドアがバーンと開く。
ゼーゼーと息をしながら汗だくになった姉が、ドアにもたれかかっていた。