君子危うきに近寄る(肆)
工藤さんはこれまでにも何度か家に遊びに来たことがある。とはいえ、家に上がると姉の部屋に入ってしまうため、ボクと彼女は廊下ですれ違うときに挨拶を交わすぐらいの間柄でしかなかった。
一度だけ、『弟を紹介する』といって姉に呼ばれ、居間で会話をしたことがあるくらいだろうか。
当時のボクはまだ中学生。初めて面と向かっておしゃべりをしたときは、工藤さんのことが随分と大人の女性に見えたものである。
姉の『可愛らしさ』は、弟のボクから見ても世界ランク10以内に入っていてもおかしくないレベルだけれど、工藤さんだって日本の平成3大美女に選ばれてもおかしくないレベルの美人。
それがボクの第一印象だった。
ただ、最初に会ったときから感じていた、時折向けられる鋭い視線の謎は、未だに解明されないままである。
「へえー、きれいに片付いているじゃない」
ボクの部屋に入るなり、工藤さんはキョロキョロと見回している。
「……と、いうよりも、ちょっときれい過ぎじゃないかしら? まるで女の子の部屋みたいじゃない?」
「え、そうなんですか? ボク、友達の部屋に行ったことがないんで知りませんでした。あの……工藤さんの知っている男の部屋って、どんな感じなんですか?」
「あー、弟くん! その言い方はちょっと失礼じゃないかなぁー?」
「は、はへー!?」
ボクの鼻が、工藤さんの白くて細い指でつままれてしまう。
「私は誰とも付き合ったことはないしぃー、その予定もないんだからね?」
「はひ!」
工藤さんは唇をとんがらせて、ボクをのぞき込むように顔を近づけてくる。
焦ったボクがこくこくと頷くと、ようやく鼻から指を離してくれた。
「ほら、ドラマとかで女の子が男の子の部屋に入ったりするじゃない? すると、部屋は散らかっていて、ちょっとエッチなポスターが貼っているのが普通でしょう? 一応、うちには兄がいるんだけど、あの人の部屋は別の意味で怪しいから……」
「あ、そういうことですか」
確かにドラマとかではそんなイメージがあるかも。でも、それは創作物の中の話しであって、現実はそうとも限らないんじゃないかな?
それにしても、工藤さんのお兄さんってどんな人なんだろう。また新たな興味が湧いてきてしまった。
「んんー? この部屋ってよく見ると、カエデの部屋に雰囲気がとても似ているわ。なぜかしら?」
「あ、それはきっと、この部屋にある物は全部、姉からのお下がりだからですね!」
「ええーっ!?」
ボクが自信をもってその疑問に答えると、なぜか大声を上げるほどビックリされてしまった。
工藤さんは後ろへよろよろと下がり、ゴンと戸棚に背中をぶつけた振動で戸棚の扉が開いて、中に詰めていた大量のぬいぐるみバササ……と頭上へ降っていく。
目を見開いたまま工藤さんはストンと座り込み、ぬいぐるみを両手で掴んで持ち上げた。
「あは、あはは……これも、これも、これもこれも、全てカエデのお下がりだというの!? なんてうらやま……いえ、驚いたわ! ぬいぐるみに囲まれて暮らす男の子ってどうなのかしら?」
「え、それは違いますよ! ボクは決してぬいぐるみが好きなんじゃなくて、姉が好きなんですっ!」
ボクは全力で否定した。
だって、ぬいぐるみ遊びをしている男子高校生なんて、ちょっと変だということぐらいボク自身も分かっているんだから。
それに、ボクは何事にも完璧な姉を尊敬している。だから姉が選んで買った物は、大型家具から消しゴムの一つまで無駄にしてはいけないというのも真実なのだ。
「や、やっぱり……あなたたち姉弟は……そ、そういうことなのね!」
工藤さんはぐわっと勢いよく立ち上がり、ボクの肩を掴んできた。
その迫力に圧倒されて後ろに二歩三歩と下がると、ベッドにつまづいて仰向けに倒れ込んだ。
まるでボクは工藤さんにベッドの上に押し倒されたような形になってしまった。
「せ、先輩……?」
「弟くん……」
工藤さんのゴクリとつばを飲み込む音が聞こえてきた。
鼻息はやや荒く、目は小刻みに動いている。
工藤さんの顔がボクに近づいてくると、マットレスがぐぐっと沈み込む。
爽やかな石けんの香りが鼻孔をくすぐる。
なぜか、ボクは目を固く閉じてしまった。
ボクの頬に柔らかな物が触れた。
ビクッと全身を震わせた。
「お、弟くん……これ、一つもらっていいかな?」
「えっ」
目を開くと、目の前にピンク色のウサギのぬいぐるみが押しつけられていた。