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「きゃっ……!」
衝撃でメリルの身体が前に傾く。受け止めたのは意外にもゼクスだった。どうやらとっさに身を乗り出してしまったらしく、ゼクスは気まずげな顔ですぐにメリルから離れた。
「何かあったのでしょうか? 様子を見てまいります」
メリル達が止める間もなくサーナが立ち上がろうとする。しかし彼女が外を見るまでもなかった。馬車のドアが乱暴に開けられたのだ。
現れたのは、ガラの悪そうな大男だ。手には長剣が握られている。彼の後ろに二人ほど、同様の男達が控えていた。とても検問の類には見えない。
「これが貴族の馬車だとわかっての狼藉でしょうか?」
ワインレッドの瞳が嫌悪に歪む。ゼクスのその問いに、男は下卑た笑みを浮かべた。
「ずいぶんキレーなお姫様がいるじゃねぇか。行きがけの駄賃にそいつはもらっといてやるよ。おいボウズ、怪我したくなかったら引っ込んでな。おっと、通行料の金目のもんを出すのも忘れんじゃねぇぞ!」
「いや……ッ!」
男はまっすぐにメリルを見ていた。サーナのことも目付の老婆のことも目に入らず、ゼクスのことも軽視して。この男にとって狩りたい獲物はメリルだけなのだろう。
舐めるような視線を向けられて、恐怖のあまり身体がこわばる。全身が総毛立ち、震えも止まらなくなる。
直接的な、欲望に満ちた目。息を詰まらせたメリルは両手で自分を抱きしめた。
「おい、やっちまえ!」
男の一人が号令をかけると、残る二人もとびかかってきた。まさか貴族街のど真ん中で、こんな目に遭うなんて。メリルはぎゅっと目をつむった。
「メリル!」
「下衆が――メリル様に触るなッ!」
温かくて柔らかい衝撃を感じた直後、鋭い声音でゼクスが叫ぶ。続けて聞こえた醜い悲鳴は、男達のものだった。
「なに……?」
メリルはそっと目を開ける。まず真っ先に目に入ったのはサーナの肩だ。どうやらサーナはとっさにメリルを庇おうとして、覆いかぶさるように抱きしめてくれていたらしい。その向こうでは軽く身構えたゼクスが立っていて、リーダー格らしき男が腹部を押さえて這いつくばっている。
――ゼクス様は完ぺきなんです! お勉強はもちろん、とてもお強くて……。
蘇る声はシトリーのものだ。子供の言うことだと思っていたが、あながち間違ってはいなかったらしい。サーナが思わずといったように感嘆の声を上げて拍手をしているところから、メリルが目をつぶった一瞬の間にゼクスがその男をいなしたのだろう。
「目の前でみすみす婚約者をさらわれた無能な臆病者だと、人に思われては不愉快ですので。間違っても貴女のためではありませんので勘違いはしないでください」
ゼクスは慌てた様子でメリルを見た。そのまま彼は矢継ぎ早に訊いてもいない言い訳を述べる。「はぁ……」戸惑いがちに頷くと、ゼクスはほっとしたように男達のほうへ向き直った。
「目をつぶっていただくことをお勧めします。ご婦人には少々刺激が強い光景かもしれませんので」
他の二人がなんとかリーダー格の男を立ち上がらせようとしている。ゼクスの忠告を聞き、メリルは無意識のうちに再び目をつむっていた。目付の老婆は腰を抜かして気絶しているので大丈夫だろう。
「洗いざらい、吐いてもらいます、から、ね。この襲撃の、意図と、黒幕を――」
ゼクスの言葉が途切れるたびに鈍い音が挟まれる。一体まぶたの向こうで何が起きているのだろうか。怖かった。襲撃者はもちろんゼクスも怖い。
声と音はだんだん遠ざかる。どさ、どさ、どさりと外で何かが音がする。そーっと薄目になってみれば、ゼクスが三人組を馬車から蹴り落とした音のようだった。
「もう目を開けていいですよ」
ゼクスに声をかけられて、メリルとサーナはおずおずと目を開けた。ドアのすぐそばで、ゼクスはまるで何事もなかったかのように立っている。
「つ、強いんだね」
「……たまたまですよ。周囲の安全を確認してまいります。貴女がたはそこで動かないでください」
思ったことを正直に言うと、ゼクスは苦虫を噛み潰したような顔で振り返った。何はともあれ、彼に同乗してもらって本当によかった。三人だけで帰っていたら、今頃どうなっていたことか。全員無事だったことに安堵して――――メリルは声を張り上げた。
「ゼクス後ろ!」
「ッ!」
襲撃者は三人だけではなかった。四人目がいたのだ。哨戒か、従僕や御者の見張りをしていたのだろう。他の三人の様子がおかしいと気づいた四人目がこちらにやってきて、異変を目の当たりにしてしまったのだ。
メリルの警告もむなしく、四人目が振りかざした長剣がゼクスを切り裂く。しかしゼクスがそれに構わず四人目の顔面に肘打ちを決めると、四人目は呻き声と共に崩れ落ちた。
「血……血、血が出てるよ!? 切れてる! すごい切れてる!」
「落ち着いてください、メリル様。血ぐらい出ますよ、私も人間ですから」
「わたくし、人を呼んでまいります!」
そのままゼクスも膝を落としたものの、斬りつけられたゼクスよりも見ていただけのメリルのほうが慌てている。ゼクスは苦痛に顔を歪めていたが、はたで慌てふためている者がいるせいかそちらに意識を持っていかれているらしい。同様の理由でサーナも冷静だった。ぴょんと馬車の外に飛び出していく。
「御者さん無事かな……あっ、ディバール邸に戻らないと……」
「家に、ですか?」
「うちの馬車がなかったのもこの襲撃と関係してるんだったら、今家に帰るのは危険だよ。なら、ディバール邸のほうが安全じゃない?」
「……ふむ」
幸い御者には大した怪我もなかった。あとのことはサーナが連れてきた騎士達に任せ、馬車は来た道を引き返す。すっかりメリルの口調は素に戻っていたが、やはり誰もそれには触れなかった。
*
「お邪魔しまーす……」
メリルがそっと開けた扉はゼクスの部屋のものだ。室内は暗く、耳をすませばかすかな寝息が聞こえてくる。メリルは忍び歩きでベッドに近づいた。
血の流し過ぎでゼクスが気絶するという事故はあったものの、今は手当ても済んでゼクスも静かに眠っている。ディバール侯爵が慌てて手配した医師の話では、安静にしていればすぐによくなるそうだ。臓器を傷つけるほどの大怪我というわけでもなかったらしく、大事には至らないという。
「あの、今日はありがとうございました。正直貴方のことは嫌いだけど、助けてもらって感謝はしてます」
仮面舞踏会の夜は優しかった。とはいえ、かかわったのはほんの短い時間だけだ。そのせいで、ゼクスの本性は見抜けなかった。
初めて顔合わせをした時は驚いた。それまで普通に話していたのに、突然とても失礼な申し出をしてきたから。ぶしつけなゼクスにメリルが腹を立てたように、頑として譲らないメリルにゼクスは何を思っただろう。
婚約者として顔を合わせるたび、ゼクスへの好感度は下がっていった。暴言は家族や使用人仲間で慣れている。彼の態度は我慢できないほどではない、我慢できないほどではないが……そもそもどうして、自分が我慢しなければならないのか。家を出るのに、何故嫁ぎ先でまで疎まれなければならないのだろう。
ゼクスは、会うたびに嫌味を言ってくるような男だ。好きになれる道理はないし、淡い想いが砕け散るには十分すぎる――――それでも、嬉しくはあった。どんな理由があったって、今メリル達が無事なのはゼクスが襲撃者と戦ってくれたおかげなのだから。
「ゼクス様、どうして貴方はわたしとの婚約に否定的なんです? わたし、貴方に何もしてないですよね? ……貴方がもっと、歩み寄ってくれるなら……わたしだって……」
ゼクスは深い眠りに落ちている。どれだけ待っても答えなんて返ってくるわけがない。だからこそ尋ねられた。
もしもゼクスが、二人きりの時でもメリルに優しかったらどうだろう。彼の本心は二人きりの時に見せる辛辣なものであって、他人と一緒の時に見せる婚約者の顔はあくまでも演技に過ぎない。それでもそっちが本物だったなら、きっと愛のある結婚ができたのに――――メリルにも、本当の家族ができたのに。
「……」
不意にゼクスがぴくりと動いた。思わず身体がこわばる。しかし彼は寝返りを打とうとしただけのようだ。結局痛みによって断念したらしいが、かといってそれで起きる気配もなかった。
「メイ……ナ……さ……ま……」
「あ……」
苦しそうな顔で、悲しそうな声で、彼は誰かの名前を呼んだ。ゼクスの手がゆっくり動く。その名に縋るように、その名のあるじを探すように。
「ゼ――――は、貴女……の……」
まるで不可侵の聖域を侵してしまったような罪悪感。そんなものが己の胸に芽生える理由もわからないまま、メリルはばたばたと部屋を出ていった。
* * *
「――っ!」
飛び起きると、背中の傷がじくじく痛んだ。けれどその痛みこそが、ここが現実であることをゼクスに教えてくれる。
(私は……生きて……? あれから、何が……)
血を流しすぎたせいだろう、頭がくらくらする。それでも何とか記憶を掘り返した。
乗っていた馬車が襲われて、襲撃者達を返り討ちにしたところで予期せぬ四人目に斬りつけられて、それで――――大丈夫、メリルは怪我ひとつ負っていない。
(背後を取られるとは、我ながら相変わらず詰めが甘い。だが、よかった……メリル様が無事で、本当によかった……!)
襲撃者の狙いがメリルだとわかった時は背筋が凍った。剣を向けられるのは苦手だ。それでも戦えた自分を褒める。撃退に多少の不安はあったが、なんとか身体はついてきてくれたようだ。
勘頼みの体術だったが、案外動くものらしい。力を過信せず素早さを頼りに、的確に急所を狙っていったのがよかったのだろう。相手が油断しているうちに片をつけることができてよかった。
(思わずぼろが出そうになって焦ったが、たとえ取り繕わなかったところで嫌われていることに変わりはないだろう。すべては順調と言っていい。あとはこのまま彼女に婚約を破棄してもらえば……)
背中の怪我はいい理由にならないだろうか。たとえ普段は隠されているとしても、大きな傷跡を不気味がる令嬢は多いはずだ。この怪我におびえるメリルを見れば、父やジェイラ侯爵も破談に向けて動いてくれる可能性がある。
それでも無理なら、事故に見せかけて死ぬのも視野に入れておくべきなのかもしれない。メリルとは関係のないところで、一人で。
だが、それは方々に迷惑をかける選択肢だ。まだ幼かったころ、聖職の道に進もうと考えたときのように。だからこそ、それは最後の手段でなければならなかった。
(それにしても……思った以上にこたえるな、わざと人に心ない言葉を吐いて嫌われるのは)
ふとそんな思いがよぎったのは油断のあらわれか、怪我で弱っているからか――――それとも、良心の悲鳴だったのか。次の瞬間、ゼクスははっとして頭を抱えた。
「笑わせるな……! はじめにあのお方を裏切ったのはどこの誰だか忘れたのか? 私など嫌われて当然だ、私はあのお方に嫌われていなければならない! 私は二度と、あのお方の騎士にはなれないのだから……!」
そうだろう、ゼクス・ディバール。貴様は生まれ変わっても赦されない大きな罪を犯したのだから。それが今さらあのお方と結ばれるなど、そんなことができるわけがないだろう。
彼女は何も覚えていない。だからこそ、だからこそ嫌われるべきだ。何も知らないあの少女にまた好意を寄せられて、またそれに応えようとするなど、同じ罪を犯すことに他ならなかった。もう二度と、そんな過ちは犯してはならない。
何度も何度も自分にそう言い聞かせ、呼吸を落ち着かせる。抱くことすら罪深い、馬鹿げた想いはすぐに霧散した。
(どうか、メリル様には幸せになってもらいたい……。あの方にふさわしいのは、私のような男ではないのだ)
もう一度ベッドに身体を横たえる。痛む背中に気をつけながら、痛む心を無視しながら。
ふと、妙な違和感を感じた。まるでメリルがつけている香水のような、華やかな香りがかすかに漂っていたのだ。
「誰か、この部屋にいたのか?」
思わず独り言つが、答えなど返ってくるわけがなかった。
* * *