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「刺繍も満足にできないとは、とんだ愚鈍ですね」
メリルが贈ったハンカチを、ゼクスはまるで汚らわしいもののようにつまみあげた。
試行錯誤を重ね、何枚もの失敗作を犠牲にしてできた奇跡の一枚なのに。確かにメリルがそのハンカチに施したディバール家の刺繍は、少し歪んでしまっている。だが、半年で身につけた付け焼刃の刺繍の腕としては十分すぎるくらいの出来だった。
「お言葉ですけどゼクス様、貴方は刺繍をやったことがありまして? 人には向き不向きというものがありますの。苦手なことを強制されて、望ましい成果が出るとでも?」
「苦手なことを苦手なままにしておくのが愚かだと言っています。何故それを潰す努力をしないのです?」
「何故努力をしていないと思いなさったのかしら!」
レースの長手袋で隠していた包帯だらけの指をさらすと、ゼクスはそれを鼻で笑った。
「おや、努力した結果がこれなのですか。どうやら貴女はつくづく神に見放されているようだ」
どうしようもない怒りと悔しさでぶるぶる震える。ゼクスのワインレッドの瞳は冷たいままだった。
「その顔はなんです? 婚約を解消なさりたいのならば、ご自由にしてくださって結構ですよ。……今後、私に贈る刺繍などなさる必要はないでしょう。貴女が無駄に怪我をするだけです」
女性が婚約者に、相手の家紋を刺繍したハンカチを贈るのはこの国の貴族のならわしだ。
だから仕方なくメリルも針と糸を手に臨んだのだが、大きな間違いだったらしい。こんな男にあげるハンカチなんて、使い古したぼろぼろの雑巾で十分だろう。
「とにかく、これはお返しいたします。このようなものを私が使っていると知られたら、貴女も恥をかきますよ? 自分の無学さを、人々に露呈することになるのですから。周囲には、貴女のみごとな刺繍に感激した私がハンカチをしまい込んでしまったのだとでもおっしゃってくださいね」
突き返されたそれを、メリルは無言で奪い取る。
義務だからと言い聞かせて、眠る時間も削りながら二週間以上刺繍に取り組んでいたのが馬鹿らしい。だから帰宅したメリルはハンカチの刺繍部分をはさみで切り落として、そんな事実はなかったことにした。
一部を切り取られたハンカチは、サーナに頼んで普段使い用の髪留めとして作り替えてもらった。ついでに嫌がらせとして異臭を放つ黒ずんだ雑巾をゼクス宛に贈り届けておいたが、特に返事は来なかった。
*
「貴女に向けられる、いくつもの未練がましい眼差しに気づきましたか? ……貴女は一体、何人の男に色目を使って惑わせてきたのです? いまだに貴女を手折ろうと望む男達の嫉妬に狂った視線に射殺されるかと思いましたよ」
とある屋敷で催された晩餐会で、酔いを醒ますために出たバルコニー。メリルの後を追うようにしておもむろにやってきたゼクスは冷笑を浮かべていた。
「心当たりがございません。何をおっしゃっているのですか」
毅然として言い返すメリルに、彼はいっそう嘲笑を深める。「あの夜も、どうせ貴女が相手を誘ったのでしょう? 私はそれにも気づかず、くだらない駆け引きを邪魔してしまった。まさに道化です」――――その言葉は、メリルから冷静さを失わせるのに十分すぎた。
「勝手なことを言うのはたいがいにして! あのとき、わたしがどれだけ――!」
「一度目をつけた獲物に逃げられて、さぞ悔しかったのでしょう? それとも、代わりに釣れた魚が侯爵家の嫡男であったと知って喜ばれたのでしょうか? ああ、みなまで言わずとも結構ですよ。どちらであっても私は気にしておりませんから。男遊びがしたいのならば、これからも続けるとよろしい。妬み深い男達に刺されるのはごめんです。それともいっそ、破談にしてしまいますか? そのほうが面倒はないかもしれません」
食って掛かるメリルを遮り、ゼクスは偽りの慈愛に満ちた声でそう告げた。
あまりのことに声の出ないメリルに「夜風に当たりすぎるとお身体が冷えてしまいますよ」とわざとらしく上着をかけて、彼は屋敷の中に戻っていく。
(なんなの……なんなのあいつ……! あーもう、頭にきた!)
メリルは晩餐会が終わってもゼクスの上着を返さず、ジェイラ邸の自室に戻るまで脱ぎもしなかった。
周囲はそんなメリルを微笑ましげに見ている。それは気に障ったが、いつまで経っても上着を返してもらえないと気づいたゼクスの笑みがやや引きつっていたので少しすっとした。肌が粟立つのをこらえた甲斐がある。
一目で上質なものとわかる上着を、ゼクスだと思いながら振り回したり踏みつけたりするともっとすっとした。
ゼクス(偽)は一日でぼろぼろになり、三日目でついに本来の用途を果たせなくなった。
物に罪はないと頭では理解しているが、しかしゼクス(真)を思えば彼の所持品にすらも憎悪が向く。裁ちばさみを手にしたメリルは無心でゼクス(偽)を切り刻み、むしった雑草を焼くために庭師が起こした焚火の中に混ぜ込んだ。ゼクス(偽)はすぐに変わり果てた姿になった。
結局ゼクス(真)は上着を取り返しにはこなかった。もし来たなら燃えかすを渡すつもりだったのに残念だ。しょうがないのでゼクス(偽)の残骸はきちんとごみとして処分した。
*
「私との婚約を解消したければ、ご自由になさってくださいね。いつでも、貴女のお好きな時に」
読んでいる分厚い本から顔を上げず、ゼクスは気だるげに告げる。見ればそれは、何かの学問の専門書のようだった。きっと彼が研究している分野の本なのだろう。
メリルには表題の意味すらもわからない。そんなものを目の前で読むことこそ、メリルへの拒絶のあらわれのように思えた。
「まだ解明せねばならない科学の謎があるというのに、こうして縁談を押しつけられるのは迷惑としか言いようがない。……貴女だって、まだ遊び足りないでしょう? なにせ貴女は、ようやく社交界に出ることができたのです。これまでやりたくてもやれなかったことなど数えきれないほどにあるはずだ。得た自由を手放すのは、それを満喫なさってからでも遅くはないですよ」
この男と話をするのは億劫だ。だからメリルは聞こえないふりをして、味のしない紅茶を喉奥に流し込んだ。
「貴女の病弱さを挙げることに不都合があるなら、私の多忙さだけを理由になさい。そうすれば、どちらにも瑕疵なく破談にできます。女性からの訴えであればなおのこと。そうなさったほうが、貴女のためですよ。そうすれば、このくだらない時間も終わらせることができる」
婚約者として振る舞うためには、メリル達は最低でも週に一度顔を合わせなければならない。それがミットクレード王国のしきたりだからだ。
だから夜会のない週は、メリルがディバール邸に行くか、ゼクスがジェイラ邸に来ている。来訪者と来訪先は交互に代わり、今日はメリルがディバール邸に赴く日だった。
政略としての結婚だからこそ、婚約者同士の歩み寄りは両家の結びつきの強さに匹敵する。身も蓋もない言い方をすれば、せめて婚約期間中だけでも余計な火遊びをしないよう互いに監視させるための慣習だ。
中にはジェイラ侯爵のようなぼんくらもいるが、情のある婚約者同士であれば義務感なく逢瀬を楽しめるし、結婚後も円満な夫婦でいられるだろう。残念ながらメリルとゼクスではそうもいかないが。
「ああ、ただし、私の悪評を周囲に吹聴して他者の力を借りた形での破談を行うような、無意味なことはおやめください。その程度では、私が築き上げた信頼は揺らぎませんので。むしろ貴女の良識が疑われてしまいます。貴女が何をしようと私の名には傷ひとつつきません。ですから、ご自分がもっとも傷つかない方法を考えたほうが懸命ですよ。……ご自分の騎士の手綱は、しかと握っておきなさい」
流行っているんでしょう、暴君から姫君を救いだす騎士の恋物語が。それが現実になったところで、笑い者になるのは貴女達のほうです。行ったことは不貞とそう変わらないのですから――――
そう言って、けれど彼はページをめくる手を止めない。暴君に代わって姫君と婚約してくれる騎士には、残念ながら心当たりがなかった。
(むしろお姫様を助けてくれる王子様は、貴方のはずだったのに……なーんて、柄じゃないんだけどさ)
自嘲気味に笑い、メリルはティーカップをソーサーの上に置いた。ページをめくる音が支配する応接間に、かちゃんと耳障りな音が響く。
「そんな非道なこと、考えたこともありませんでしたわ。ゼクス様ではありませんもの」
「私こそ、そのようなことはしておりませんとも。私が貴女の恥を触れ回ったせいで、貴女の評価が地に落ちたと逆恨みされても面倒ですから」
ゼクスの言葉は真実だった。人前であれば、彼はメリルをけなすどころか大げさなぐらい褒め称えてくれる。空虚な台詞で、心にもない嘘で。
人はあっさりそれを信じてくれるから、メリルは気恥ずかしげに微笑んで軽くうつむくだけでよかった。同じようにゼクスに対する世辞を述べておけば完璧だ。
だから今のところ、二人の不仲は知られていない。ゼクスの多忙さ……すなわち家庭を顧みず貴族としてのつとめも忘れてしまう可能性を言い訳にして縁談を白紙にすれば、周囲はたいそう残念がって――――けれどゼクスの言う通り、さしたる不都合もなく終わらせられるだろう。メリルとジェイラ家の内部では、そうもいかないが。
「ところで――貴方からは、破棄なさらないのかしら」
解消に応じないメリルを待つより、一方的にゼクスの側から婚約を破棄してしまったほうが楽なのに。氷のように冷めきった目で尋ねる。すると、ゼクスはようやく顔を上げた。
「申し上げませんでしたか? 貴女がもっとも傷つかない方法で、この婚約を破談にしてくださればそれでいいのです」
ゼクスは微笑む。その笑みの真意などメリルにはこれっぽっちもわからない――――けれど。
(わたしにとってもっとも痛手なのは、この縁談が白紙になること。だから、それは選べない)
たとえ親友のサーナにだって、ゼクスとの不仲を悟られてはいけない。
もしその事実が広まってしまえば、父も義母も異母兄も、すべてをメリルのせいにするだろう。メリルが至らないから、ゼクスに嫌われてしまったのだ、と。ジェイラ家の面汚しだと罵られる自分の姿は、見てきたように思い描けた。
*
メリル達の婚約を発表するパーティーは、両家の連名で催された。
ディバール家の大広間には両家と親交のある王侯貴族が集まっている。しかしその中にメリルの知り合いは一人もいない。どこかの夜会で何度か踊った顔がいくつか、残念そうにメリルに声をかけてくるが、それだけだった。夜会の場を男漁りの場としか見ていなかった弊害だろう。
名前ぐらいしか知らない彼らに会釈を返し、メリルはグラスを片手に立っていた。最初に二人で挨拶をして以降、ゼクスはどこかに行ってしまっていた。彼は彼でどこかの輪に紛れているのだろう。
「あの方がゼクス様の婚約者? 本当に妖精のようにお美しい方ね。悔しいけれど……ゼクス様があの方を選ばれたのなら仕方がないわ」
「ああ、我が愛しのメリル嬢……何故この想いは届かないのか……」
「ディバール侯爵家のご令息とジェイラ侯爵家のご令嬢なんて、これほど似合いの二人もいらっしゃいませんわ。ああ、なんて羨ましいのかしら!」
「さすがに相手が悪すぎるな。なんといっても奴は『完璧な貴公子』だ、下手に粗を探せばこちらの品位まで疑われる」
雑音が煩わしい。この空間にいる者のほとんどはメリルの出自とゼクスの本心を知らないから、好き勝手なことが言えるのだ。
実のところ、今日のパーティーがちゃんと開催されるのかメリルは気が気でなかった。これをもってメリル達の婚約は正式なものになる。これまで以上に解消することが難しくなるだろう。結局、無事にパーティーは催されてゼクスも出席してくれたのでほっとした。
「あ、あの、メリル様、少しよろしいでしょうか?」
「ええと、貴方は……」
メリルに声をかけてきたのは、ふわりとしたピンクのドレスが愛らしい少女だ。八歳か九歳ぐらいだろうか。少なくとも、まだ社交界デビューできる年ではなさそうだ。「シトリー・フォーアと申します」と少女は慌てたようにお辞儀をする。
知らない名前だったが、すぐにピンと来た。ゼクスの親友として紹介された青年の家名がフォーアだったのだ。確か、名はカルヴァといったか。恐らくあの仮面舞踏会でカラスの仮面をつけていた青年だ。
カルヴァは四人きょうだいの次男らしい。この少女はきっと彼の妹だろう。年齢からして彼女が末妹かもしれない。
「ご婚約、おめでとうございます! こんな素敵な人がゼクス様の婚約者なんて嬉しいです!」
シトリーの瞳はきらきらと輝いていた。とても裏があるようには見えない。
それでも彼女の言葉を素直に受け取る気にはなれず、メリルは曖昧に微笑んだ。
「ありがとう存じます。祝福していただけてわたくしも嬉しいですわ」
「ゼクスにい……ゼ、ゼクス様は完ぺきなんです! お勉強はもちろん、とてもお強くて、それにすごく親切なのです! だから……だから、そんなに悲しそうなお顔はなさらないでください……」
「……え?」
そんなに顔に出ていただろうか。メリルは空いている手を頬に当てたが、自分ではよくわからない。
「わたしはゼクス様のこと、もう一人のお兄様みたいに思ってて……ゼクス様はいつだって優しいんです。でもゼクス様は、時々すごく寂しそうで悲しそうなお顔をするの」
だんだんシトリーの声が暗くなっていく。シトリーは先ほどまでの興奮した様子から一転して、しゅんと顔を伏せた。
「だからゼクス様にはいつも笑っていてほしくて、結婚は幸せなことだってお父様がおっしゃってて……だから、えっと、メリル様みたいな素敵な人ならきっとゼクス様は幸せになれるし、ゼクス様は完ぺきな方だからきっとメリル様も幸せになれて、それで……なのに、メリル様も、悲しそうなお顔をなさってる……」
シトリーは今にも泣き出しそうだった。しかしあいにくと泣いている子供のあやしかたはわからない。メリルはかがんでおろおろするシトリーに目線を合わせ、髪型を崩さない程度に優しく撫でた。
「ありがとう、シトリー様。でも、貴方が心配することはないわ。大丈夫だから、ね?」
「……」
少しわざとらしい声音になってしまった。だって、一体誰の話をしているのかまったくわからなかったからだ。
シトリーの言う“ゼクス様”は、メリルの婚約者であるゼクス・ディバールのことではないに違いない。同じ名前でこうも違うとは。今からでもそっちのゼクス様と婚約し直したい気分だ。
目にいっぱい涙を溜めて、シトリーはそれでも大きく頷く。メリルのぎこちなさには気づかなかったようだった。
「もしも、もしもですよ。もしもゼクス様がメリル様を泣かせたら、シトリーがいっぱいゼクス様をしかりますからね。カルヴァ兄様に言えば、きっと兄様もしかってくれます!」
「まあ、頼もしいわね」
そのままシトリーはくしゃりと笑う。彼女はまだ幼く、そして家族からの愛を一身に受けて育っているのだろう。その無邪気さが、純粋さが、ただただまぶしかった。
*
「お疲れ様でした。それではわたくしは、これで」
パーティーも終わり、メリルは事務的にゼクスへ別れを告げた。しかしディバール侯爵はそのメリルの冷淡さに気づかなかったらしい。
「ゼクス、送っていってさしあげなさい」
「ええ、もちろんです。さあメリル様、こちらへ」
ディバール侯爵の気遣いは、メリルとゼクスにとっては余計なことだ。それでもゼクスは断らず、またメリルも拒めない。
笑みを張りつけ、ゼクスはメリルを先導する。その手がメリルに触れることはなかった。
てっきりゼクスの付き添いは玄関までだと思ったが、彼は停車場にまでついてくる。だが、ジェイラ家の馬車がどこにも見当たらなかった。
「この辺りで結構ですよ、ゼクス様。自分達で帰れますので」
「ジェイラ家の馬車が来ていないでしょう。まさか歩いて帰るおつもりですか? 最近は貴族街でも不逞の輩が出没するという噂をご存知ないのでしょうか」
確かにゼクスの言う通り、ジェイラ家の馬車は迎えに来ていない。来る手はずになっていたはずだが、何か手違いがあったのかもしれない。馬車がないなら、徒歩で帰宅する他ない。
ディバール邸からジェイラ邸まではだいぶ距離がある。メリルの連れはサーナと目付の老婆だけだ。この三人で夜道を歩くのは少々心もとなかった。治安が悪いというならなおさらだ。メリルが黙ると、ゼクスは大きなため息をついた。
「こちらで馬車を出します。ジェイラ家には我が家の者に連絡をさせますから、これに乗ってお帰りください」
「え、でも、」
「送れと言われたので送るだけです。何かあっても寝覚めが悪い」
ゼクスはすぐに馬車を手配して、さも当然のように自分も乗り込んだ。戸惑うメリルを見下ろして、ゼクスは淡々と告げる。
そのすぐあとでやってきたサーナと目付もメリル達の間の微妙な空気を察したようだったが、二人とも口をつぐんでいた。
ディバール家の家紋のついた馬車がゆっくりと走り出す。目付の老婆は黙って座っていた。隣同士のメリルとサーナはゼクスと目付の手前、令嬢と侍女らしい口調で会話する。ちょうどメリルの向かいに座るゼクスは腕を組み、窓に頭をもたれさせて眠ったふりをしていた。
貴族街の通りはよく舗装されていて、わずかな振動こそあれど不快感や苦痛を覚えるほどではない。それなのに――――がたりと馬車が、大きく揺れた。