5
ついに迎えた顔合わせの日。約束の時間は昼下がりだったが、メリルは朝から落ち着かなかった。
家の中ではいつも質素なドレス―侍女服に比べれば格段に上等なものだが―を着ていたのに、今日はどこかに出かけるときのような格好をさせられている。サーナはメリルの身支度を、普段以上に丁寧に慎重に腕によりをかけて行ったようだった。
「あっ、あれじゃない? ほら、知らない馬車が来たわ」
サーナが窓を指さしたので、メリルもつられて外を見下ろした。確かに一台、見慣れない馬車がやってくる。遠目にもわかる豪奢な造りが、出入りの業者のものではないことを教えていた。
「よし。行ってくるね、サーナ」
「……うん。頑張って」
メリルは深呼吸を繰り返す。大丈夫、覚悟は決まった。
*
「……ッ」
応接間にやってきた青年は、メリルを見て目を見開いた。けれどそれは一瞬のことで、青年は優しげな微笑を浮かべて優雅に一礼する。メリルもドレスの裾をつまんでちょこんとお辞儀をした。
「ゼクス・ディバールと申します。お会いできて光栄です、メリル様」
「初めまして、ゼクス様。メリル・ジェイラです」
深みのある艶めいた低い声を聞いて確信する。やはり彼はあの道化師だ。ゼクスのほうでもメリルのことを思い出したのか、視線が気まずげに宙を彷徨った。
しかしそれを取り繕うように、ゼクスはメリルの父に二言三言声をかける。ジェイラ侯爵は鷹揚に頷いて言葉を返し、そのまま部屋を出ていった。
「先ほどは初めましてと申し上げましたが、本当は以前に一度会っていると思います。リッツ公爵が催した仮面舞踏会で、蔦の仮面を被った娘と踊りませんでしたか?」
「……あの令嬢は、貴女でしたか」
メリルの勧めに応えたゼクスがソファに腰掛けて早々、メリルは口火を切る。
「だから……それならやはり……」そうひとりごちた彼の表情がわずかにかげったのをメリルは見逃さない。一体何が『だから』で『やはり』なのだろう。
もう仮面舞踏会の話はしたくないとでも言うように、ゼクスはすぐに話題を変えた。メリルの趣味や好きなことを尋ね、メリルが同じことを尋ね返したら答えてくれる。その間、ずっとゼクスはメリルを見つめていた。
彼に見つめられているのが落ち着かなくて、彼と目が合うのが無性に気恥しくて、メリルはゼクスから目を逸らしていた。なんだかじっと観察されているみたいで居心地が悪い。
そんな状態が一時間ほど続いただろうか。あともう少ししたら、侍女達がお茶のお代わりを持ってくるかもしれない。メリルだって喉は乾くし、ゼクスのティーカップはもうとっくに空だ。おいしい紅茶だったのだろうか。
「さて、申し訳ありませんが……メリル様」
ぼんやりそんなことを考えていたメリルには、ゼクスが急に謝った理由がわからなかった。
「どうかこの縁談、なかったことにしていただけないでしょうか?」
「……え?」
「私はこれから父に破談を願いますが、それが聞き入れられる可能性は低いでしょう。ですが、もし貴方からも口添えしてくだされば、了承を得られるかもしれません」
本能が理解を拒む。心が疑問で埋め尽くされる。どうして、彼はそんなことを言うのだろう。
何かの間違いではないだろうか。けれど間違いなどではないことは、ゼクスが跪いて頭を垂れていることから明らかだ。
跪くゼクスの姿は、まるで姫に情けを乞う騎士のように美しくて。けれど彼がメリルに願っているのは清らかな誓いでもなんでもない。情景だけ切り取れば、画家が喜んで絵画にしそうな場面なのに――――状況の整理が追いつかず、代わりに浮んだ場違いな思いにメリルはふっと嗤った。
「ええと……そもそもこのお話は、ディバール家のほうから持ちかけていただいきましたよね?」
「その通りです。しかしまさか、本当に私が選ばれるとは……」
遊び半分の駄目元だったのか、それとも親が勝手に縁談話を進めたのか。いずれにしろ、メリルとの縁談はゼクスにとってあまり好ましくないことのようだった。
怪我もしていないはずの胸がじくりと痛む。仮面舞踏会でのひとときが失われていく。もしもこのまま失意に沈んで黙っていたら、きっとゼクスは一方的に破談の約束を取り付けてしまうだろう。
だが、それでは困る。だって父は、ゼクス……ディバール家との縁談にかなり乗り気だったのだ。なにせゼクスは『完璧な貴公子』にして『望みうる限り最高の相手』。そんな彼との縁談が破談になれば、他の誰と結婚しても父はずっと文句を言うだろう。
「メリル様はお身体が丈夫ではないとうかがっております。しかし私は仕事柄帰りが遅く、研究所に泊まり込んで不規則な生活をしがちなのです。そんな私では、貴女のおそばにいることはおろか大変な時に駆けつけられないかもしれません。それを理由にすれば、双方が被る不利益も最小のものに抑えられるはずです」
メリルが病弱だというのは、メリルがジェイラ家の娘として違和感なく社交界に溶け込むためのでっちあげだ。
確かにゼクスの言う通り、虚弱さと多忙さを理由にすればたとえ彼との縁談が破談になっても痛手はない。多くの場合、貴族令嬢は華奢で儚げであればあるほどいいとされていた。
しかし子供も産めないほど身体が弱いようでも駄目なのだ。まだメリルに求婚が届いている今ならいいが、破談になった後にそんな勘違いをされないとも限らなかった。
「ですが、ジェイラ家とディバール家が縁づくことは、領民の幸福および領地と両家の発展のためにとても有益なことだと存じております。ですから、破談などわたくしの一存ではお受けしかねることですわ」
「それは重々承知しております。これは私の我儘に過ぎません。しかし、私達の縁談はあくまでも一つの選択でしかなく、定められた唯一のものではないのです。両家にとって有益な相手は他にもおりましょう」
「何故、そのようなことをおっしゃるのです? そこまでわたくしは、貴方の妻にはふさわしくないということでしょうか?」
「……私が、貴女の夫にふさわしくないからですよ。他の方ならいざ知らず……貴女とだけは、結婚などできない」
ゼクスはずっと頭を下げている。だから彼の表情は読めない。けれどそれは振り絞ったような、かすれて震えた言葉だった。
そんな悲痛な声で、メリルを拒絶すると言うのか。メリルは拳をぎゅっと握りしめ、それでもなんとか笑みを作った。
「貴方のおっしゃりたいことはわかりました。どうか頭をお上げください。……けれどわたくしは、何があっても破談にはいたしませんから」
「貴女は……!」
何かを言いかけたようだったが、続く言葉は聞こえない。短いとは言えない沈黙のあと、ゼクスはようやく顔を上げた。
「私のことは、覚えておりませんか?」
そう尋ねるゼクスは自嘲気味に笑っていた。メリルはゼクスをまじまじと見つめる。怜悧な切れ長の瞳の、理知的な風貌の繊細そうな美男子だ。
記憶をさらっても見覚えはまったくない。だが、彼と初めて会ったのはあの仮面舞踏会の夜だった。顔を見てもわかるわけがない、とすぐに思い至る――――それなのに。
「……ッ!」
視界がかすむ。「××××」響いた深く柔らかな音は、夢でだけ聴こえる声だ。
どこかの荘厳な広間のような場所で、“彼”が跪いていた。その背中を覆う真紅のマントには、見慣れない紋章が刻まれている。
メリルが差し伸べた手を取って、“彼”は恭しく甲にキスをした。“彼”の顔はもやで覆われていてわからない。けれどきっと、優しく微笑んでいるのだろう。
「で……ですから、先月の仮面舞踏会でお会いしましたよね?」
「……ええ、そうでしたね。愚かな問いでした。お忘れください」
知らない、知らない、こんな景色は知らない。一瞬だけ視えた“彼”がゼクスと同じ銀髪だったのは、きっとただの偶然だ。
白昼夢を振り払うように口を開く。そう、そうだ。無事に夢の世界の幻覚を現実の記憶で上書きできた。これでいい。
「とにかく、婚約を解消する気などわたくしにはございません。わたくしは父が決めた縁談に従うだけですので」
「わかりました。そこまで言うのであれば、仕方ありません。では、今日はこれでお暇させていただきます。……私との婚約を了承したこと、必ずや後悔することになりますよ」
ゼクスは立ち上がった。強い意志を秘めた眼差しがメリルを貫く。しかしメリルは負けじとゼクスを睨み返した。
「望むところです。貴方のほうこそ、馬鹿なことを口走ったとあとになって悔やんでも知りませんから!」
*
初めての顔合わせの印象は最悪だった。まさか自分達の側から縁談を持ちかけておいて破談にしたいとは。不誠実にもほどがある。
「ね、どんな人だった? 相手は『完璧な貴公子』なんでしょ?」
「最悪。なんか変な人だった。どのへんが完璧なのかさっぱりだったし」
楽しそうなサーナには悪いが、返事はぶっきらぼうなものになってしまった。何かを察したのか、サーナはそれ以上訊いてはこない。よそいきのドレスを楽なものに着替え、メリルはベッドに飛び込むようにして横たわった。
(ふさわしい相手が他にいる、ってなんなの? 本当にいたらわざわざあんな男と婚約しないって!)
あれは選べる余裕と権利を持っているからこそ言えることだ。メリルのように、追い立てられながら伴侶探しをしているわけではないのだろう。それは性別の違いであり、生まれた家の違いがもたらす認識の齟齬だ。
ゼクスはメリルとの婚約を後ろ向きに捉えている。だが、彼一人では破談にできないはずだ。できているなら、メリルにわざわざ頼み込むわけがない。それだけメリル達の縁談はジェイラ家とディバール家にとって大切なものということだろう。
それに、メリルに発言権なんてものはない。ゼクスはそれを知らないから正直に頭を下げたのだろうが、まったくの無駄な行為だ。メリルがどれだけ声高らかに破断を訴えたところで、父に聞く耳などあるはずもなかった。
だから自分達の婚約は解消されることなく、そのまま結婚までこぎつけるだろう。当人達以外のすべてが幸せになれる縁談だ。
(でも……結婚した後は、どうなるの?)
ゼクスは言った。必ず後悔することになる、と。だからメリルも同じことを言い返した。夫婦がどちらも己の選択を悔やみ、自らの運命を呪うような結婚生活が幸せであるわけがない。近い将来……たとえばゼクスが家督を継いで今よりもっと強い発言力を得た時に、彼は現状を許すだろうか。
答えは否だ。嫌いなメリルをとっとと追い出して、新しく『ふさわしい相手』を探し出すに決まっている。そうなればメリルは路頭に迷うしかない。一度離縁された女が再び結婚できる例はまれだ。もしかしたらどこかの老人の後添いになれるかもしれないが、それまでこの家に置いてもらえるとは思えなかった。
(なんで、こんなことになっちゃったのかなぁ)
自分のことなのに、何もかもがままならない。あまりのもどかしさに頭がどうにかなりそうだった。
「……よしっ。ま、なるようになるでしょ!」
とはいえ、悩んでいても仕方ない。気合を入れるため、メリルは両手で自分の頬を叩くように包んだ。