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――××××。
甘くて懐かしい、愛おしい声がする。それが自分を呼ぶ声だとメリルは知っていて、けれど肝心の名前の部分は聞き取れないし声の主にも覚えはなかった。
かろうじて男性の声だということはわかる。しかしメリルの知らない人だ。その声の主はきっとメリルにとって大切な人で、なのにそれが誰なのか心当たりがない。
いつもこうだ。夢の中でだけ聴こえる、この声が響くたびに得も言われぬ焦燥に胸が締めつけられる。顔も名前もわからないあの人を愛していた。それは一体いつ、どこでのことだったか。だって自分にそんな存在はいないはずなのに。
もしかしたらこれは、巡る生命の輪が視せるつかの間のまぼろしなのかもしれない。メリルが生まれる前の記憶。メリルがメリルとして生を受ける前、まったくの別人だったころの記憶。
生命の輪――――転生は神の教えの一つだ。だが、生まれ変わってなお前世の記憶を継承できるなど聞いたこともなかった。だから、すべてはきっとただの妄想なのだろう。
「お嬢様、起きてくださいまし」
「んー……」
侍女仲間のサーナの声が上から降ってきて、身体がゆさゆさ揺さぶられる。
メリルは重いまぶたを開けた。眠い目をこすってゆっくり起き上がる。寝ぼけているせいか、現実でまで妙な言葉が聞こえたような。
「なぁに、お嬢様って。ふざけてるの?」
今日は非番だ。昼過ぎまでゆっくり眠ろうと思ったのに、こんな悪ふざけで叩き起こされてはたまらない。メリルは恨みのこもった目でサーナを見たが、サーナは意にも介していなかった。
「ふざけてなんかいませんよぉ。お嬢様は今日からお嬢様なんですって」
「はぁ? そもそもなんでかしこまってるのよ」
怪訝な顔をするメリルに、サーナは口を尖らせた。「だからあんたは今日からお嬢様なんだってば」といつもの砕けた口調で同じことを繰り返すが、意味はさっぱりわからない。
「とにかく、詳しい話は旦那様から聞いてください。わたしもお嬢様を起こすよう言われただけですし」
「えー、面倒なんだけど……」
文句を言いながらもメリルは起き上がって、クローゼットから侍女の仕着せを取り出す。途端にサーナが血相を変えてとびかかってきた。
「ちょっ、旦那様に会うのにお仕着せで行くつもりぃ!?」
「他に何を着ろって言うのよ。わたし達は侍女でしょ?」
「だーかーらー、あんたはもうお嬢様なのよ! 今日から本当のお嬢様になるの! それっぽい格好をしてなきゃ誰に何言われるか……」
「馬鹿ね。わたしがお嬢様みたいなドレスなんて持ってるわけないじゃない」
何を今さら。それについてはサーナもすぐに思い当たったのか、うっと言葉を詰まらせた。
その間にぽいぽい寝間着を脱いで侍女服に着替え、身支度を整える。どこから見ても隙のない侍女の出来上がりだ。
「旦那様は書斎にいらっしゃいます。あーもう、どうなっても知らないから!」
「はいはい。あっ、わたしのぶんの朝ご飯はちゃんと取っておいてね」
あくびをしながら部屋を出る。まだ少し眠かった。
*
「お呼びでしょうか、旦那様」
顔を伏せて尋ねる。返ってきたのは意外な返事だった。
「お父様、だ。お父様と呼べ」
「……はい?」
「お前は今日から、正式に我が家の娘として扱うことになった。ジェイラ家の名に恥じない振る舞いをするように」
思わず顔を上げてしまった。この男が一体何を言っているのか、寝起きの頭ではこれっぽっちも理解できない。いや、覚醒しきっていたところでまったくわからないだろうが。
「その恰好はなんだ。使用人の真似事は二度とするな」
「これまで一度もお給金をいただいたことがございませんので。私服もどなたかのおさがりばかりですし、人前に出られるような服はこの仕着せしかないのです。さすがお父様の手配なさったドレスですわ」
嫌味を織り交ぜながら笑顔で言い放つと、男の鉄面皮がわずかにひきつった。四歳のころから十二年間強いられてきた無償労働を知らないとは言わせない。
働きの報酬としてまかないと住む部屋以外のものを与えられたことなんてなかった。最低限の身の回りの物を揃えられたのは、一部の使用人仲間からの憐憫と同情があったからだ。
必要以上に華美なものや贅沢なものはない。それがいきなり「ジェイラ家の娘」とは。たいした出世もあったものだ。
「そもそも、わたくしをジェイラ家の娘として扱うとは一体どういうおつもりで? 妾の子など、ジェイラ家の恥を晒すだけではございませんか?」
この男は、忌々しいことにメリルの実の父親だった。父親らしいことなど一つとしてしてもらったこともないのだが。
しかしメリルの母親は、この男の正妻ではない。どこかの酒場の看板娘だと聞いている。すでに彼女はこの世におらず、母について詳しいことはメリルもよく覚えていなかった。
この男はかつて、既婚者だったというのにトチ狂って母を見初めたそうだ。やがて母はメリルを身ごもり、頭が花畑になった男は妻と離縁して浮気相手を後妻に据えようとした。
だが、妻とその実家からのきつい制裁によって正気に戻ったという。いっそ一生浮気脳のままだったら、メリルにとってはまだ救いがあったかもしれない。最低の屑に変わりはないが。
とはいえ、この男は中途半端にしか反省していなかった。きっと彼は根っからの馬鹿だったのだろう。メリルの母が死んだと聞いて、彼は幼いメリルを強引に引き取ったのだ。これが、メリルの不幸のはじまりだった。
メリルの父親であるこの男は、侯爵の位を戴く貴族だ。それもこの国の貴族の中でももっとも由緒正しい家柄、かつて領邦君主と呼ばれたいくつもの一族のうちのひとつ――――ジェイラ侯爵家の当主だった。
今でこそ統一がなされ、国名も改められてはいるのだが、かつてこのミットクレード王国は複数の独立した領邦から成り立つ国家だった。中央にこそ王家が座していたものの、それは形だけのもの。国の主権は諸侯が治める領邦にあったのだ。
当時の王朝が終焉を迎えたのは、今からおよそ三百年前だ。新たな王族がミットクレード王国を打ち立て、国土の統一を果たしてから三百年の間で国内の情勢はすっかり安定した。かつては領邦国家の君主として権勢を振るっていた諸侯も、現在はミットクレードの貴族という立場に収まっている。
前王朝時代であれば、ジェイラ家の当主とはすなわちジェイラ領を統べる領邦君主でもあった。今でこそ国内のいち領主ではあるが、並大抵の貴族ではジェイラ侯爵家が有する歴史と権威に太刀打ちできないだろう。
もっとも、当代の当主はしょせん生まれだけで地位を得た無能な男だ。家名に付随する権力はあっても当人の人望はない。浮気騒動まで引き起こしたことによって彼の信用は地に落ちていた。そのうえさらに浮気相手との子を引き取ってしまったのだから、もはや彼の味方はいないも同然だ。
メリルを見た正妻は当然怒り狂った。しかし彼女は、夫の勘違い甚だしい善意を前にしても愛想を尽かさなかったようだ。いや、せっかく嫡男を生んだのに侯爵と離縁するのはうまみがないと踏んだと言ったほうが正しいだろう。
正妻は、メリルを追い出したりはしなかった。その代わり、使用人として徹底的にこき使った。そして異母兄もそれにならった。二人から無理難題を押しつけられたり癇癪を起されたりするのはメリルだけだ。あまりにも理不尽なので、ささいな意趣返しとして雑巾の絞り汁をお茶に混ぜるなどをしているが、気づかれたそぶりはない。
周囲の冷たい目を浴び続け、父親もだんだん目が覚めてきたらしい。もともと正妻達には負い目があったこともあって一度たりともメリルを庇ってくれたことのなかった彼は、やがてメリルを疎ましがるようになった。どうやら、自分が意気揚々と引き取ったということはすっかり忘れてしまったらしい。
メリルがいるから自分の居心地が悪いのだと、すべての責任を棚に上げた男をどうして父親と思えるだろうか。「今日からお前を本当の娘として扱ってやる」と言われてメリルが感涙にむせび泣くとは大間違いだ。馬鹿にするのもたいがいにしてほしい。
「下品で低俗な生まれのお前には、それに合わせた物言いでないと通じないか? ……お前の母親は汚らわしい商売女だったが、美貌はなかなかのものだった。お前はあの女によく似ている。その顔で、どこかの良家の子息をたぶらかしてこい。そのために、お前を我が家の一員に迎え入れてやろうと言っているんだ。あの女の娘であるお前なら、生まれながらにしてそういった手練手管は備わっているだろう?」
その汚らわしい商売女とやらに夢中になったのは一体どこの誰だ。
メリルの父親が誰なのか、この男はどうやらすっかり忘れているらしい。それともこれは新手の自己紹介なのだろうか。
「かしこまりました。ジェイラ家と他家の仲を取り持ち、両家のさらなる発展の礎となればよいのですね?」
「……理解できたならそれでいい」
わざとらしい笑みと共に丁寧に言い直すと、父親は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
*
(退屈だなー。……あっ、あのツボ高そう)
半年におよぶ“令嬢特訓”の果て、メリルは無事ジェイラ侯爵令嬢として振る舞えるようになった。それはしょせん付け焼刃、生まれついての貴族令嬢のみが醸し出せる気品は備わっていないのだろうが。メリルが身も心も可憐で貞淑な貴族令嬢になれていたら、談笑する麗しい貴公子達そっちのけで調度品なんて見ていない。
侯爵家の娘、メリル・ジェイラ。彼女は生まれつき身体が弱く、ずっと領地内の別邸で静養生活を送っていた。しかし体調が安定してきたうえ適齢期も迎えたこともあり、十六歳にして二年遅れの社交界デビューをした……ということになっている。どこの誰のことだろう。
メリルにダンスを申し込む貴公子は、メリルが思ったよりも多かった。今日の夜会も、数多くの男性から誘いを受けている。ほとんどが別の夜会で出会った男性だったが、知らない顔の男性も混ざっていた。この国には一体何人の貴族令息がいるのだろう。
マナーはもちろんダンスもみっちり叩き込まれたため目に見えた失敗はしていないが、体力はどんどん減っていった。余計なことは喋らずおとなしそうに微笑んでいるという行為についても、精神的な疲労が溜まっていくばかりだ。
サーナのように気楽に話せる相手もいない。よその家の令嬢と並べば粗が見えてしまうような気がするので、友人作りもできそうになかった。適度に踊って適度に休む、ずっとその繰り返しだ。
(せめて食事が楽しかったらいいんだけど。あんなの作業と一緒だよねぇ)
少し離れたところには立食用のテーブルがあり、様々な料理が所狭しと並べられている。料理を食べながら歓談する男女も多く、メリルも何度かダンスではなく向こうのテーブルへと誘われていた。
しかしメリルには、生まれついての障害があった。食べ物の味がわからないのだ。だからメリルに味という概念は存在せず、食事とはお腹が空いた時にもにょもにょしたものを胃に流し込む行為でしかなかった。けれど普通の人はあれに付加価値を感じているらしく、それが味というものらしい。その味とやらがわかれば、食事も楽しくなるのかもしれないが。
「きゃあっ、ゼクス様よ!」
「いつ見ても素敵な方ね。わたくしと踊っていただけないかしら……」
「声をかけてみたらいかがです? ゼクス様ならきっと踊ってくださいますわ!」
そろそろ微笑を浮かべるのもしんどくなってきた。メリルは扇子で口元を隠し、着飾った令嬢達のそばを通る。きっと彼女達は己が背負った政略結婚という役目を理解しつつも、その中で愛を探せるのだろう。それが少し羨ましかった。