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その記憶は、物心ついた時から持っていた。
かつて、自分は“ゼノ”と呼ばれていた。ゼノは今やどこにもない国――――ラトルスト王国の、王に仕える見習いの騎士だった。けれどゼノの本当の忠誠は、国王に捧げられていなかった。
――ゼノ、我が一族の希望よ。我らの未来はそなたの働きにかかっているぞ。
ゼノが心酔していたのは、ゼノの故郷の村の長だった。その男は師父と呼ばれていた。
師父は当時狂信者と呼ばれた過激な宗派の指導者で、故郷の村はその宗派を信仰する者達による共同生活の場だった。そこで生まれたゼノは生まれた時からその宗派の教えに染まっていて、一族こそが自分の世界のすべてだと信じて疑っていなかった。
国の辺境にある故郷の村は小さく、貧しかった。村の外では、自分達一族は迫害の対象だった。正しくない教えを信じる者達が世界にのさばっているからだ。だから師父は、一族は、正しい教えを広めるために立ち上がった。
一族の中でも将来有望な子供達が、祖国のあちこちに散らばった。祖国の全土を、ゆっくりと正しい教えで包むために。祖国をじわじわと狂わせていくために。
ゼノもその一人だった。ゼノは騎士見習いとして王宮に出仕し、四つ年下の王女に取り入った。
実の親からも道具のように扱われる、寂しがりやの小さな女の子だ。その心の闇に付け込み、頼れる味方の役を演じていれば、無垢で浅慮な彼女に気に入られるのは簡単だった。
――ずっとそばにいなさい、ゼノ。
それが王女の口癖だった。彼女はいつもそう言っていた。ゼノを繋ぎとめるように、ゼノの存在を確認するように。
――もちろんです。ゼノはいつまでも貴女のおそばにおりますよ。
そのたびに、ゼノは必ずこう答えた――――彼女は、ゼノにとっては扱いやすい傀儡だったから。彼女のそばを離れては、ゼノの使命が果たせないから。
王女のお気に入りのゼノは、とても簡単に出世していった。王女のたった一人の味方であった美しい騎士には、年齢に不釣り合いな地位や金が与えられた。
ゼノも実力こそ示したが、ゼノよりその立場にふさわしい人間は掃いて捨てるほどいた。ゼノは確かに同世代の中ではもっとも強く有能だったが、それは年の功を覆すほどのものではなかったのだから。そんな分不相応な権力は、けれどゼノが求めるものだった。
そうしているうちに王が早逝し、幼い王女が女王になった。「貴女は女王なのだから」――――ゼノが囁く甘言を、女王は疑うこともせず受け入れた。彼女は愚かで、純粋だった。
女王はゼノの言葉ならなんでも信じた。ゼノは彼女を諫めることもしなかった。誰も女王と、女王の寵臣であるゼノには逆らえなかった。だからすべての実権は、女王ではなく騎士のゼノが握っていた。
ゼノは女王の我儘を助長させて悪政を進め、一族が入り込みやすい隙間をあらゆるところに作った。故郷のみながゼノの手腕を褒め称えた。それこそがゼノの求める本当の栄誉だった。
けれど、だんだんひずみができた。無邪気に自分を慕う女王の姿に良心が耐え切れなくなったのか――――あるいは、ずっと自分の心を騙していただけなのか。ゼノはいつしか、女王のことを傀儡として見られなくなっていたのだ。
自分が作り上げたと言っても過言ではない、愚かで傲慢な暴君女王。愛らしいこの少女が手にするはずだった栄光に満ちた未来は、自分が壊してしまった。それは、決して許されないことだった。
いつしかゼノは、師父から課せられた使命を忘れていた。それよりもただ、女王のための箱庭の国が続くことを願うようになってしまった。
――赦さぬ、赦さぬぞゼノ! 我らに対する反逆の業、いのちが潰えたあとも背負い続けるがいい!
ゼノの心変わりを、一族は裏切りだとみなした。だからゼノは呪いをかけられた。死してなお罪の記憶を引き継ぎ、いのちが巡った先の新たな生でも犯した罪の重さに苦しむという罰を下されたのだ。それは、ゼノの一族の教義においては地獄に堕ちるのと同義だった。
ゼノが一族に与することをやめたせいで、一族の得られる利権は減った。ゼノがせめてもの罪滅ぼしとして一族を秘密裏に粛清しようとしたことに気づき、一族は報復を先んじた。復讐の刃は女王に向けられた。
ゼノ本人ではなく、ゼノがもっとも大切に想っていた少女。ゼノの目の前で彼女を殺すことこそ、一族がゼノに与える最上の裁きだった。
彼女を、女王を庇ってゼノは死んだ。ゼノを殺したのは、故郷にいたころは幼馴染として育った青年だった。幼馴染は師父の命により意気揚々と女王を殺そうとしていた。だからゼノは彼と戦い、そして詰めの甘さのせいで敗れた。
そこから先に何が起きたのかはわからない。けれどのちの歴史にはゼノの名も、一族の名もない。女王は、それから一年間はまっとうに国を治めたものの自殺してしまったということだけ後世に伝わっていた。
自分で自分の罠にかかって策に溺れた愚かな男――――ゼノにまつわる記憶が前世のものであり、彼こそかつての自分であることを、ゼクスはよく知っていた。
故郷に背を向け、愛した少女を踏み躙り、祖国を荒らし、民をいたずらに苦しめた罪はそう簡単には贖えない。
だからゼクスは聖人を目指した。誰にも恥じない人間になるために。もう二度と、胸を張れない生き方をしないために。かつて苦しめた人々と同じ立場の者達を救うために。
犯した罪から逃げたくて善行を重ねる偽善者を、人は『完璧な貴公子』と呼んだ。けれど今、ゼクスはその仮面の上から別の仮面を被っている。外面だけはそのままに、一人の少女の前でだけ非道な振る舞いをする卑怯者だ。
それでもそうするしかなかった。だって何も覚えていない女王――――メイナの生まれ変わりと結婚してしまうなど、絶対にあってはいけないことなのだから。
* * *
ゼクスの見舞いは思ったよりも簡単に叶った。ディバール侯爵に挨拶をしたメリルは、ゼクスがいる寝室へと向かう。その途中、遠くから子供達の声が聞こえてきた。
「このお屋敷に小さな子はいたかしら?」
「ああ、若様がご自分で寄付してらっしゃる孤児院の子供達ですよ。若様が怪我をしたと聞いて、お見舞いに。ちょうど今から帰るところのようですね」
「……そうなの」
尋ねると、メリルを案内していた侍女はなんでもないことのように答えた。あの性悪男、本当によそでは慈善家のような真似をしているらしい。
けれど、聞いたところで額面通りには受け取れない。どうせ何か裏があるのだろうとさえ思ってしまう。メリルの知るゼクスは、清廉潔白な善人などではなかったから。本当はメリルだって、そんな彼を見たかったのに。
ゼクスの寝室に辿り着く。入室を許可する声が聞こえるなり侍女は去っていった。メリルは深呼吸してそのドアを開ける。上半身だけ起こしたゼクスは、憎たらしいほどいつも通りの笑みを浮かべていた。
「これはこれは。まさか来ていただけるとは思いませんでした。醜態を晒した私を嘲笑いに来たのですか?」
「ええ、その通りです」
肯定されたのが意外だったのか、ゼクスは目を丸くした。けれどすぐに笑いだす。嘘で固めたものではない、すがすがしい笑顔だった。
「あまり騒ぐと傷口に障りますわよ?」
「いや、これは失礼。では、この無様な男を存分に眺めていかれるとよいでしょう。こんな機会、これが最初で最後ですよ。たとえ同じことがまたあったとしても、二度とあのような手抜かりはいたしませんから。ああ、それより貴女が婚約を破棄するほうが先ですか」
不遜に答えるゼクスから目を逸らさず、メリルは一歩、また一歩と距離を詰めていく。いつもメリルが見下ろされる側だったのに、今はメリルがゼクスを見下ろしていた。
「ねえ、ゼクス様。貴方は一体、何に縛られてるの?」
「……え?」
ゼクスはぽかんとした様子でメリルを見上げた。間抜けな顔だ。
大丈夫、どんな舌戦が始まったとしても今なら絶対に負けない。心の中で自分を鼓舞し、メリルは素の口調のまま続ける。
「貴方、『完璧な貴公子』なんでしょう。でもわたし、貴方がそんなたいそうな名前で呼ばれる理由を見たことないの」
本当に完璧なら、そんなへまはしないでしょう? 言葉でゼクスの傷を抉るように、メリルはつとめて冷たい笑みを浮かべる。けれど零れた声は令嬢らしい言葉遣いで飾らない、ありのままのものだった。
「わたしの前で、貴方は全然完璧じゃなかった。貴方はただの嫌な男。わたし、貴方のことが大嫌いよ」
「それはそれは。では、やっと婚約を解消してくださる気になったのですね」
それ見たことかと言いたげに、ゼクスはにやりと笑った。その嫌な奴との婚約を了承してしまってさぞ後悔しただろう、と。
メリルはキッとゼクスを睨む。彼の瞳に隠しきれない歓喜が浮かんでいるのが、ただただ気に食わなかった。
「はぁ? するわけないでしょう? わたしの話、ちゃんと聞いてた? なんで嫌いな人のために、その人が喜ぶことをしなきゃいけないの?」
「……貴女は一体、何をおっしゃっているんです? まさか私への嫌がらせのためだけに、ご自身の人生を棒に振りたいわけではないでしょう?」
「そりゃあもちろん。嫌いな人に人生めちゃめちゃされるのだってお断りね」
「まるで意味がわかりませんね。では、貴女はどうしたいのですか」
「簡単よ――ゼクス様に、わたしを見てもらいたいの」
メリルを守るゼクスと、メリルを傷つけるゼクス。どちらが本物のゼクスなのだろう。
メリルと、メリル以外の人に対するゼクスの対応の差は歴然だった。ゼクスはメリル以外にとっては素晴らしい貴公子で、メリルにとっては最高にいけすかない奴だ――――その差は一体、どこからきた?
それを暴く鍵は、きっとゼクスが持つ前世の記憶とやらにある。だってゼクスは前世に犯した罪のせいで、今世では『完璧な貴公子』として振る舞っているはずだから。ならば何故、彼はメリルの前で『完璧な貴公子』にならないのだろう。
「わたし、貴方に何もしてないよね。なのになんであんなに嫌われるわけ? そっちから持ちかけてきた婚約なのにいきなり破談にしたいとか、意味がわからないんだけど。わたしのこと、馬鹿にしてる?」
「え……ええ、そうですよ。その通りです。貴女のような頭の悪い、」
「ねえ、どうして言い淀んだの? そんなこと聞かれるなんて思ってもなかったから混乱した? それとも用意してた台詞が飛んじゃっただけ?」
ゼクスの目が泳ぐ。その隙をメリルは見逃さなかった。すかさず口を挟んで畳みかける。
ゼクスの顔は真っ青だ。いつもの、人を馬鹿にしたような表情は鳴りを潜めている。それどころか、傷つき怯える子供のような瞳でメリルを見上げていた。
「わたし達の婚約が白紙になったら何が起こるかぐらい、貴方も理解はしてるよね。なのに貴方の行動は、合理的とは程遠いものばっかり。……ゼクス様、貴方は矛盾してるんだよ。わたしを傷つけるくせに、わたしを守ろうとするなんて」
「……ッ」
「貴方の前世に興味はないよ。でも、貴方の謎すぎる行動が前世のせいなら、わたしにも口を挟む権利はあると思うんだ。だってわたしは貴方の婚約者だし、多分わたしが一番迷惑してるし。だからこれだけは言わせて」
前世のゼクスが、メイナ様とやらと、どこかの国と、どこかの民に対して何をしたのか。そんなこと、今世のゼクスには関係ないはずだ。いのちが巡った結果新しいいのちが生まれたのなら、前のいのちの行いなんて新しいものにすっかり上書きされてしかるべきだから。
前世のゼクスが犯した罪を、今世のゼクスが背負わなければいけない理由はない。ゼクスがゼクス以外の名に苦しめられるいわれなど、どこにもない。
「たとえ貴方が前世のことを覚えていても――ゼクス様は、ゼクス様だよ」
「貴女が……貴女が、それをおっしゃるのですか……?」
「なに? 不満? メイナ様とやらを探し出して言ってもらったほうがよかった? そりゃあわたしはメイナ様じゃないけどさ。もう死んでるんじゃないの、貴方のメイナ様だって」
さすがにどこの誰かもわからない死人を引っ張ってくるのは無理だと唇を尖らせる。するとゼクスは乾いた笑みを浮かべた。
「まったくもってその通りです。……メイナ様は、これほどがさつではなかった」
「うるさいなぁ。だからわたしはメイナ様じゃ、」
「貴女なのですよ。貴女こそが、あのお方の生まれ変わりなのです」
「……え?」
不意に視界がぶれる。脳が揺さぶられるような不快感の中で、メリルは一面の花畑の上に座っていた。メリルの目に映る自分の身体は幼い子供のものだった。
メリルは不器用で、思うように綺麗な花冠が作れない。だから十三、四歳ぐらいの少年騎士が、メリルに代わって作った花冠を差し出した。
――これは、わらわへの忠誠のあかしとして受け取ってあげるわ!
――光栄です、メイナ様。
銀の髪の少年騎士はそのままメリルの頭の上に花冠を載せる。彼の顔はゼクスとどこか似ていた。
けれど彼が告げた名前はメリルのものではなくて、何よりそんな思い出はメリルの中に存在しない。
「貴女は、何も覚えていらっしゃらないでしょう。当然です、私が前世の記憶を有しているのは特殊な事例なのですから」
「なに、を……」
眼前にありもしない情景が広がる。大勢の人々がメリルを取り囲んでいた。剣を手にした彼らが今国内で幅を利かせている危険な宗派の幹部達であることを、メリルは何故か知っていた。
彼らの長の言葉に従って、嫌らしい笑みを浮かべた青年が一歩前に出る。メリルを守れるのは、メリルのそばにいるのは、ゼクスの面影のある銀髪の騎士だけだ。メリルを守るはずの他の騎士達は、穢れた純白の法衣を纏う彼らに倒されていた。増援の気配はいまだない。
狂信者達の長は嗤いながら、その騎士が犯した罪をメリルに告げる。銀髪の騎士の背に庇われていたメリルは、その背中をすがるように見つめた。
先ほど見たばかりの光景とは違っていて、騎士は青年と呼ぶべき年齢に成長していた。いつもは彼の背中に守られているだけで安心できて、けれどそれが偽りのものだと突きつけられた。それでも、彼を信じたかった。
――彼らの言葉は真実ですよ。私は貴女を利用するために、貴女のそばにおりました。メイナ様、貴女は私にとって都合のいい傀儡にすぎなかったのです。
わずかに振り返った彼は、悲しそうな目をしていた。
そしてゼクスに似ているその騎士は――――狂信者達に向けて、剣を抜いた。




