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異路を得たい

作者: 流草

「異路を得たい」 流草


私の産み落とされた世界には白が広がっていた。どこまでも限りなく続くその白の世界は私が白いものでもあった。砂浜の様に土っ気のある混じりけのあるものではなく雲の様に希釈したようなものではなくただ純粋に白いだけの私。私の前にはただ清廉なる白があった。


私は海に向かう。海ガメなのだ。


人間というものは大変に醜い動物であるわけである。私もその一人である。社会構造の末端に属し歩んできたのである。人間の社会構造というのは非常に複雑で自由であるが故に不自由なのである。この不自由さというのは人間だけに当てはまる社会構造なのであって軒下で今も目を閉じて鼠を追いかける猫やその辺のありんこにはわからんものである。


智があるからこそ生まれた比較の社会。人間だけにある智とは罪である。智は私を学びの森に連れ込み迷いさせる。智の素晴らしさは探究心であるがそれは故に智をさらに得たい個を意識することで智の世界から抜け出せない。


生まれた感情はそれは周りに他者が存在し愛されたい故なのである。愛されたいという勿論、恋煩いだけではなく承認欲求というかそういう社会に存在したいという欲求の表れなのである。


ここで自由、不自由を考えれば不自由というのは承認欲求が生じない社会構造である。また、同様に存在欲求も生じない。なぜならば私の存在は支配者のみぞ知るからである。


仮に私が不自由な存在だとすれば私は誰かに支配されていることで他者の顔を伺う必要はない。それは私は支配者の一部だからである。支配者の存在する中での私は私ではなくそこに存在できるのは支配者、ただ唯一の人である。存在欲求についてもこの環境の中では考える必要はない。


想像に難くないがつまりは私が存在できるのは支配者の選択次第であって私は社会に自らをアピールする必要はない。支配者はアピールという役を代わりにしてくれる存在だからである。これは支配者に私の存在の責任を委任しているということで社会に存在しようとしなくとも私は存在が許される。まあ、そもそもそこには私自体は存在しないのかもしれないが。


こんなに失礼な話はないがもしかしたら自由が不自由よりも不自由なのかもしれない。家を一歩でも出れば私は私ではなくなる。誰かに作られた私がまるで本物の私のように振る舞う。


今、私の目の前にいる子どもに恐ろしい顔をすれば子どもは泣き、私は社会より恐ろしい存在だと見なされる。私が職場でパワハラ紛いのことをする上司に「お前は救いようのない馬鹿だ」といえば私は上司という絶対的な者に逆らったからということでここから消されてしまう。そこに助けてくれる人はほぼ存在しない。他者の存在があるから自分は本物ではなく偽物の自分がそこに立つ。


人との関わりが途絶えない限り我々の七割は偽物だ。私が道にに落ちているゴミを拾ってゴミ箱に捨てたときも他人から出された課題に向かうロボットのようにこなしているときも、笑っているときも、怒っているときも。私が十割で存在できるのは自我が芽生えるまでなのである。結局、私は主体と客体の関係から逃げられない。


しかし、私が社会に存在するには他者が絶対的に必要な存在である。私の存在というのは私の周りの他者の数で濃くも薄くもなる。私は私を成立させるためにコミュニケーションを取っているのではないか。


このように頭を使うことがある。なぜ、私たちは人を陥れようと優位性を誇示しようとするのか。種の存続であるか。はたまた、教育か、親か、国か。そんなたいそうな理由はないのである。


結局のところは多かれ少なかれ我々は様々な評価を人間と人間に比較されるところである。それこそが他者によって自分をアピールする根拠なのであり自己のアイデンティティーを他者との比較によって確立することに依存した社会なのである。


私自身も同じようなもので学校や仕事に他者の存在をフェイスブックやライン、ツイッターなども含めてであるが通信手段や主張の手段としてそれらが用いられるのではなく自己の感情を集団の中で強調するためのものとして使われている。これは感情が個人性の高いものから集団性の高いものに変化したと考えられないだろうか。


過去、私たちの感情は個人性の高いもので個人の中で発生した感情を個人が処理する時代だったのだ。だが、現代において私たちの感情は共有されるものとなり共有することが美的であり正しい感情を拡大させることが正義となった。私の感情が他者から評価されることが私の存在価値を定義する。


私の感情が個人によって評価されるようになったのはいつからだろう。明確な答えは私は提示できない。


戦後、私の小さい頃は他人と繋がるものといえば電話だった。私の家は六人家族で黒電話すらなかなかやってこなかった。それが当たり前であった。電話は高価なものであったし、他人と顔を合わせる以外で話すことは不可能な時代が確かにあった。


黒電話が初めて父によって運ばれてきたとき、あの焼け野原を見た私たちでさえも科学の進歩に驚きを隠せなかったのは記憶に新しい。


それから母は親戚のおばさんに毎日のように電話をかけて父は仕事場に用がなくともダイヤルを回していた。私も隣の友だちにダイヤルを回して話ができることに感動した。


それは私のための行為であった。後から思えば他人に向けてという側面が無かったとは言わないが少なくとも私は他人から評価されるためにダイヤルを回していたのではない。そんな時代はいつの間にか終わっていた。


時代はネットワーク社会へと突入している。現代においてはネットワーク社会もさらなる進化を遂げソーシャルネットワーク社会へと様変わりしてきている。フェイスブックやツイッターにラインといったソーシャルネットワーキングサービスと呼ばれるものは私の存在を他者に評価されてしまうものなのではないか。いいね、お気に入りなどがそうである。


主張とは異なり、自分の普段の感情を表現して他者より評価を受ける。私の生活というものは私の周りの人が良し悪しと評価して拡散されるのだ。


ここには良いこととして感情の共有が挙げられる。私が得た感情を誰かが自らの感情と混ぜ合わせて整合性の高い感情を作り上げる。だが悪いこともあって私の感情が私以外の誰かに変化させられることだ。


私が私であって私ではない。


整合性を保つために私は他者に変化させられる。個性のない社会。私の周りの個性って少し派手なネクタイ、奮発して買ったようなグレーのコート、よくわからない光を放つギラギラの宝石、小さめで茶色い何かの雑誌付録のトートバッグのことを言うのだろうか。


他者のために生きる私が生きることに冷静であると聞こえてくる社会に吐き気がする。私たちの個性はそんなにも廃れているのか。他者のために外面ばかり気にして他者から都合の良い自分を演じる社会。


私はテレビをあまりみない性分なのだがそんな私も普段の生活の中でおかしくなってしまった文化を感じて生きているのだ。空気というか、大衆文化なのだろうと今は納得するしかないが個性が個性と言えなくなったような社会だ。


私の孫くらいかな、子どもは自分達を分類して会話するものらしい。清楚系、真面目系、がり勉系、スポーツ系、盛り上げ系、ゲーム系。人を個性として分類できるのか、大いなる疑問である。無論、意識外の話ではあるが。他者から決められた暗黙の役割。社会の中では他者から決められた個性に基づき生活しなければならない。


大衆文化に染まりきった同期の友人すらあんなことを言う。あいつがあんなことを言うなんてお互い、年をとったなあ、なんて皺を寄せながら話していたがそれはおいておいて、彼は神妙な顔つきで語った。


「アイドルなんてものもみんな同じ顔して同じ衣装で客に媚びを売るようになった。他者がこの場合は観客席やファンというものが求めている性格を模倣して個性を失っている。個性すら画一化しその中では個性は義務性を伴ったバランスを取るものでしかない。バランスを揺るがす考えや表現は異質とされ個性ではなく不要な存在だとみなされる。」


つばを何度も音を立てて飲み込みながら話す彼に私は不意に笑いをこぼしてしまった。本当に年をとったのだ。ビールをそんなに飲まなければ良いのに。そうも思ったが彼の話はビールによってさらに熱く語り続けられた。


若い頃は大衆文化に身を落としていた我々だからこそ、この年になってやっとこんな話ができるのか。まあ、今でも酒に博打に女と大衆文化の典型例として生きてはいるが。でも、その通りだなと彼がいないところでは言える。あんなに常識外れの奴がこんなにも常識的な、いや、常識を超える脳を持っていたと思うと何か妙に悔しくて随分と反論をしたが。彼の言う話はそういう私の考えを超えるものであったので陰では彼に共感したのだ。


個性の名の下に叫ばれるのは何であろうか。彼からの最後の命題であった。私にとってこの命題は容易ではなかった。私の前を派手な女が通り過ぎた。シャネルNo.5独特のきつい香りと中国産の偽ブランドバッグに身を包んでいかにも幸せであるような老婆である。マリリンモンローにでもなったかのようだ。今にもビビブバと言い出しそうな顔だ。好きな服を着ていても好きな音楽を聴いていても私には他人の存在ばかり気にしている。


町のマリリンモンロー達を後にし新発売のタバコに顔をしかめながら自分の生きていた白を見つめていた。そしてどこまでも続く白を眺めていた。私が生を受けたのは偶然か、必然か。これを気づけない限り私には今後の人生に余生を謳歌するなどということを理由付けられないように思えた。


自由とは何だろうか。様々な定義があるであろう。身体の自由、思考の自由、表現の自由、精神の自由。私たちが求める自由とはどこにあるのか。そもそも何故、私たちは自由を求めそれを正義とするのか。良く考えてみると私たちは不自由だからか。私たちには自由意思というものが存在しないような気さえする。


何か私に直接的命題ではないものが降りかかったとき、私は考えてそのものを選ばずにいる。もし、自由意思があるのならその選択には合理的説明が付随するものではないか。それでも説明できないというのは自由意思がないということであるのではないか。そんなことを思うと脳が疲れたのか、考えるのをやめて、かわいい孫が笑っている様子が頭に浮かんでくる。


孫ももう、末っ子の子だし随分と大きくなってこちらが驚かしていたのにもう、私は驚かされる側になった。この前、マジックを見せてくれた孫たち。自分で考えたといいながら後ろにマジック本を持ち兄の自信満々な顔のマジックを成功させようと何とかして小さい体でタネを見えないようにしていた孫が愛おしい。私に得意げにトランプを引くように見つめてきた孫の顔はたくましくなっていてどこか淋しくもなっていた。


私には意志がない。こんなことを気づくのにこんなことかと自身に呆れる。私の意志がないことは孫のマジックで証明された。私はマジックのためにカードを一枚、引いたのだがそれこそが意志のようで意志でないのだ。私はこの一枚を選んだ私自身の選択による合理的な説明を付けられない。しかし、面白いものでこの力は何の力か。全く、誰にも証明できないのである。


おかしくなってしまった。これが宗教か。変な悟りに至る。私はなぜ私なのだろう。こんなことを常日頃、思っていた。


私は何故、私なのか。

仕事ももう、潮時で若い奴らのように気力はない。でも、あいつと暮らすには金がいるから何もなくロボットのように課されたことを淡々とこなす。その先には何もないわけだ。夢もない、希望もない。年をとると虚しくて今まで考えてこなかったことを無い頭で考えるから訳が分からなくなる。


また、一つ無い頭に疑問が湧いた。では、なぜ生きているのだろう。こんな疑問が湧いたのはこれまでにもあった。白く見えていた世界が一瞬、黒く見えて我に帰る。


残って冷めてしまったコーヒーを溶けきれなかったところまで飲み干して煙草を薄汚れたポケット吸い殻に入れた。あいつとのために働いているからこそだ。


私はいかにも使われていない埃かぶりの階段を降りた。頭に依然、靄を抱えながら赤、黄、青の痛い光が目をつんざく。若い頃はあの光も好きだった。上司に媚びへつらい血反吐を吐いてでも仕事をして得たカネを惜しみなく使う。そんな過去もあった。


だが、銀色の玉が流れてくるごとに感じるのは一時の欲の満たしと永遠の空虚さである。汚いがカネを稼いだからこそ行きたくなるが今、冷静に自分の終焉を感じようとしているときに何と無駄なことであったと言える。


階段を上がる音というのは何か気持ちが悪い。私たちは何に向かって生きているのか。ロボットのように決まった時刻まで仕事をして決まった時刻に家に帰る。いつもと同じ愚痴をこぼす妻をなだめ冷めた湯に浸かって一日の垢を取る。


自分の死が近づいているからか。全てが白に感じてしまう。病院での彼女の顔はまさに顔面蒼白だった。普段の日常が当たり前のことで死があることに理性的には気づいていながら感情的には生が永遠のものであると思っていたのだ。私たちの生活は死が遠くにあるとしているからこそ徒労のように感じるが本当は奇跡の繰り返しなのだろう。


私は自然であろうとした。徒労を繰り返す。


道には死が待っているから運命に抗わずに今を生きようとした。妻は自然にいてくれる。当たり前の死が近づいていることを認めてくれているから。妻は私を認めてくれている。


本に囲まれた書斎は私の知の肥やしに丁度、良い。完成された知に囲まれるからこそ未知でありたくなる。そもそも、考えるという行為は無駄な行為なのかもしれない。自由意志のない私たちには結論は決まっているから。私は結論を出すためには考えられない。


私の見ているものは正なのか。だが、私の見ているものは私に正のように見せるために他人が作った幻かもしれない。もしかしたら、私だけは全てのものに色が備わり他の人がみているのはモノトーンなのかもしれない。それは全てかもしれない。


この世に溢れる命題に私が答えを出すことは不可能ではないか。私自身が結論を見出すことは不可能だ。とするならば私を通す全ての世界にある命題は絶対に解決されないのだろう。つまり、私が生きている世界が偽かもしれない。そうだとするなら考えることは無駄なことだ。そう思うかもしれない。


私たちは表面的世界にのみ存在できて本質的世界では生きられない。そもそも本質的世界が何かがわからない。


無に始まり無に終わる世界。勿論、無ではなく何かかもしれない。つまり、私たちは無価値だ。無意味だ。無秩序だ。こんな当たり前の事実を自分が知らなかったことに驚く。人間の知性は発展し既知が人間の根源的テーマのために美であるとされた。


だが、本当の真実には未知が必要だったのだ。

智が発展し世界のあらゆることを科学や人間の思考レベルで世界を解決しようとした。それこそおこがましいのだ。私たちは自然に流れていくべきなのだろう。床につくときには私の前は白くはない。私は明るいまどろみの中にいた。


生きる意味を考えることなど無意味だった。生きる意味ではなく生き方を考えよう。無気力に流れるように。時に流れは別れるだろう。何かの決めた選択は決まっている。


だが、行為は自由だ。合理的ではない選択には自由な行為で抗うのだ。世に呼応するのだ。波に従うのではなく抗うのではなく世界にある真実に自然に発生した感情で流れよう。私たちはその中で本質に向かうのだ。


完成しない本質に真実をどこまで持ち込めるか。自分の世界の限界のために流れるのだ。だが流れるからといって、真実を追求できないからといって考えることを止めてはいけない。


既知のために考えるのではない自身が未知なるもので愚かで無価値で無意味で無秩序だということを知るために考えるのだ。流れよう。


運命に抗わずに私の手にはドア。私の前には愛する妻。私の前には私の家。私の前にはいつもの未知。私は歩くのだ。世界に呼応して。それからまもなく電車の中で彼は人間を終えた。徒労に死ぬ。そのままであった。彼は自然だった。運命に生きよう。私は今日も一日を顔洗いから始める。








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