『宇宙雑音 -The Fansy Noise-』 第1号 (2014年夏号)
見晴らしのいい宇宙
「今日はなんというか、随分と、……イイ天気ですな!!」
その日はそんな言葉が、朝から街中で一兆回も繰り返されたように思えた。実のところみんなそのおかしな気配には気づいていたし、気づかない訳にもいかなかったのだが〈その事〉を言おうとして口を開くと、しかしとたんにそれがばかばかしくなって、みんな適当に話題をそらしてしまうのだった。
「いや、なんでもない、きっと気のせいさ!!」
みんな恥ずかしそうにそう言ったし、高等な教育をうけたような大人たちは、なおさら大きな声でそう言っていた。子供たちは小声でささやき合い、大声で言うものは周りの大人にピシャリと叱りつけられて後悔するのだった。そんなわけで午後になる頃には人びとはみんな、空を仰ぎ見ながら無言になってしまった。
空は澄みわたり、どこまでも見渡せそうな春の陽気だった。雲もほとんどなく、そこには何があるわけでもなかったのに。
彼方から遠吠えが聞こえた。
何マイルもある巨大なドラゴンが、その黄金の翼をうちふるいながら青くかがやく粒子をまき散らして、遥かな高みを飛び渡っていった。それはかつて絶滅したとされていた、伝説上の竜王だった。
しかしそれを、誰ひとりとして気にかけた者がなかったばかりか、多くの人々がそのことに、気づきさえしなかったのだった。彼らは鮮やかなアップルグリーンから柔らかい杏子色へとかわっていく太陽の光に空を透かしながら、ただ天を見上げ、誰ひとりとして日暮れになるまで、開いた口を閉じられなかったのである。……
***
「……おぉ、ぉぉおぉおぉおお……」
街はずれにある薄暗い監獄の中から、かつて司教であった老人は金属製の格子窓から空を見上げ、呆けたように開いた口から、獣の雄たけびのような、あるいは廃墟のなかで聞こえるすきま風のような、声ともいえぬ音をノドに響かせていた。
細く痩せほそった彼の指ではもう、かつてのように教会のオルガンをしっとりとは、演奏できはしないだろう。
彼のしわだらけの顔は今や目をカッと見開き、濃い紫と淡いオレンジ色でコントラストを描く空に、じっと身じろぎもせず見入っていた。
脳裏に浮かぶのは、教会が民衆の怒りに塵と消えて、科学革命の名のもとに多くの宗教関係者が職を追われたあの日だった。もう何十年も、ずっと昔のことだ……。
いつのまにか彼の目からは涙があふれ、頬にいく筋もの跡をのこしていた。そして彼は声を絞り出し、救われたように言った。
「……ああ、…………主よ、そこにいらしたのですね」
***
その星で最も高度に進化した知的生命は、生態系の頂点に君臨しその頭脳と技術をもって惑星の陸地を制覇したその生命は、植物を育て動物を飼い慣らし都市国家を築いたその生命はその繊細な指先で詩を紡ぎ文化と宗教を育てあげたその生命は――彼らは多くの点で地球人類と似ていたが、一つだけ決定的に異なる感覚を持っていた。〈第六感〉と言ってしまえばこれはもうなんとも滑稽でいけないのだが、いけないだけでその滑稽はおおかたのところ正しかった。彼らは他人の――あるいは他の生命体からの――視線を感じることができたのである。地球人類もふとした時に、もしかしたら視線を感じて、振りかえることが確かにあるかもしれない。しかし彼らのその感覚はそんな霊感のようなものではなく、他の視覚や聴覚や味覚と同じように確実な感覚だったのである。
それは頭脳以外にとくに取り柄のなかった彼らの祖先が、厳しい自然環境のなかで生き抜くために発達させたものだったのは間違いあるまい。肉食獣がいくら周到に気配を消していたとしても、彼らは猛獣の視線に入ったその瞬間から逃走に移れたからである。
そのせいで(つまり身を守るためにそれほど頭を使わなくてよかったために、石器などの製造が遅れ……といった具合で)なのかは定かでないが、彼らの文明は発達の度合いが非常にのろのろとしていた。彼らは地球でいう封建・宗教時代を約二〇〇〇年にわたって過ごし、自然科学に目覚めるのが少し遅かった。
そんな歴史のなかで教会は王よりも遥かに権力を持ち、人びとの自由は抑えつけられたまま動かなかった。――地球では考えられなかったほどの、長い間。
そういうわけだったから、いったん科学が勃興するとそれは民衆の反教会感情と結びついて急速な発展を始めたのだった。ただそれらの理論はまだまだ未熟であったので多くの場合まじめな見当違いから若干の場合はオカルトめいた大ボラまでがそれぞれの分野に含まれていた。しかしそれでも、彼らの自然科学は非科学的な神の存在を盾に民衆を抑えつける教会に対しての非常に有効な対抗手段になりえたのである。感化された人びとによって腐敗していた神学が論破され、教会の権威が地に落ちるまでに、四半世紀とかからなかった。だから事実、その星では(正確にはこの星のこの地域、ということになるのだが、これ以外の地域では未だに国家と呼べるものがほとんどなかったのでこう言っておく)科学革命と市民革命はほぼイコールで結ぶことができたのであった。
神などどこにいる?
そんなもの、ただの〝迷信〟さ!!
人びとは急進派と穏健派による対立を行いながらも、市民社会を完成させようとしていた。
しかしながら、やがて《その日》がやってきたのだった。
世界中の人間が、〝天からの視線〟を感じたその日がである。
――神は、いらっしゃったのだ!!
なんということだ!!
人びとはそう思った。思わざるをえなかった。
いくら、科学という剣が鋼鉄でも、相手がダイアモンドでは傷を付けられるわけがないのだった。
自分の感覚がなによりの証拠だった。神はいたのだ。
そしてその意味を考えたとき彼らは恐怖した。
天罰が下るぞ!! と誰かはそう叫んだかもしれない。
神は否定されたはずだった。
だが確実にそれはいるのだった。
……ああ、私たちは間違っていたのだ。
唯名論など栄えさせるべきではなかった、物心二元論など笑い飛ばせばよかった、唯物論など、合理論など、信じるべきではなかったのだ!!
かくして教会は復活し、市民社会はもろくも崩れ去った。
しかもその事に不本意を感じる者はなかった。
――彼らは、悔い改めねばならなかったのだ。
***
「ふふん? なんだか妙な星だね?」
白髪の学者は接眼レンズを覗きこみながら、そのように言った。
「――大気はフッ素二〇%、フッ化メチル六〇%、フッ化水素十二%、その他不明八%、といったところでしょうか?」
となりで彼と同じく白衣を着た少女が、機械端末のタブレットを見ながら話しかけていた。彼はそれを聞いて、
「ふぅん? じゃ、われわれには行けないねーえ……」
と残念そうに言って、少女の方へ振り返った。酸素を呼吸する生命にとってフッ素は猛毒であり、逆もまた然りなのだ。
「与圧服を着ていけばいいじゃありませんか」
引っ詰めぎみに後ろでまとめた灰色の髪をいじりながら、少女は半ば無表情で博士へと言う。歳は十代半ばくらいだろうか、きっと笑ったらものすごく可愛らしいに違いなかった。
「でも、やっぱり住民とは生身で接したくはないかね?」
「……どスケベですね」
「何でだよ!」
いつものやりとりだった。
「しかし博士、この星の生態系はなかなか貴重みたいですし、観察の対象としては申し分ありませんね?」
「うんまぁ……。しかしどうしようねぇ、全然住めそうな星が見つからないじゃないの」
「ぜんぶ博士のせいですけどね」
「うん……。きみは僕のことが嫌いなの?」
「そういうわけでは」
「ふぅん? ま、いいけどね。……でもこいつは保留かなぁ。一応報告だけしといてくれるかい?」
「おーけーです」
***
時に西暦二xxx年、まだ人類は太陽系から外へは踏み出せずにいた。踏み出す理由は山とあったが、踏み出せる算段が微塵もなかったからだった。まず行きたい惑星がほとんど見つからなかったし、行く手段がまだ未発達のままだったのだ。宇宙船を超光速にまでもっていく方法が、まだ確立できていなかった。亜空間を使ったワープも、まだ人間を乗せられる段階ではなかったし。
しかし、その代わりというか、あるものが電子工学の領域で、もの凄い発達をみせていた。人類の宇宙探検の大部分を、ラジオ波によって行う――このようなことは二十世紀後半にはすでに実用化へ向かっていたのだが、それの開発はコンセプトをそのままに数世紀の時を経て受け継がれ、電波よりもより有用な〝N線〟を用いた超高解像度天体望遠鏡が開発されたのだった。
その性能は素晴らしく、地球にいながら他の星系の惑星を(時差なしに!)見ることができたのだった。しかもやりようによっては、その地上世界さえくっきりと垣間見ることができたのである。
***
「……おや? また覗いてるのかい? 今回はいやに熱心だな……」
白髪の博士は研究室に入ると、すでに白衣の少女がそこで接眼レンズを覗きこんでいた。おはようございます、と彼女は静かに言って、振り向くこともせず一心にレンズへと見入っている。長めの灰色の髪が、エア・コンディションされた風に揺れていた。
「あれ? 今日は髪むすんでないんだね。どうしたんだい? 可愛かったのに」
「どスケベですね」
「なんでだよ!」
いつものやりとりだった。
「……あの、博士、なんだかここの住人たちはすごく、そう、ものすごく頻繁に、空を見るんですよ。……まるで私が見ているのが分かってるみたい……」
「うぅん? 君らしくもないね、そんなことを言うなんて」
「でも、」
「いや、分かるよ? 君がそう思うのも分からないでもない。女子更衣室を覗いた時も全員が私のことを……いやこれは冗談だよその目をやめなさい」
「……最近、ホントに女子更衣室に覗きが出てるんですけどね」
「ホントに出てるんだ」
「それはいいとして、」
「それはいいんだ……」
彼女はレンズから目を離して振り向くと、博士に不安げな表情を向けながら手招きをした。目の周りにレンズのふちっこの跡が付いていて、博士はすこしだけ微笑んだ。
「なんだい? 何か見えるの?」
彼は促されるままに、レンズを覗きこんだ。
そして間もなく焦点が合い――
「……ゾッ」
とした。思わず口で言ってしまうくらいには。
「どうでした?」
小首を傾げながら、少女がたずねた。
「……うん。星にいる全員と、目が合ったよ」
そして二人とも、しばらく黙った。
***
「やはり、これは気のせいでは無かったのかもしれんな……」
教皇陛下はわたくしにそうおっしゃって、実にむつかしい顔をなされた。
「ですが、わたくしも信じられません。まさか主が二柱もいらっしゃったなんて」
わたくしは、外した修道女用の真っ白な仮面をサイド・テーブルの上に置いてフードを外した。教皇様は眩しそうにその目を細められて、困ったようにおっしゃった。
「わたしはね、リーシェ。聖典を書き直さなくてはならない気さえしているのだよ」
わたくしも困った顔をしていたに違いない。
〝一なる神の他に神なし〟――この私達の信仰の基本である教理が、あっさりと否定されてしまったのだから。数ヶ月前にはじまった天からの視線。それが新たな気配を持った視線に一瞬だけ、かわった。人びとはみんなそれを感じて、一斉に空を仰ぎ見た。
最初の視線と二度目からの視線の主は違う――一部の人びとが主張していたことが、先ほどの感覚で証明される形となった。
「いったいこの世界は、どうなってしまうのでしょうか?」
わたくしは――わたしは教皇様になってしまった青年を見詰めた。
数年前までは、まだ普通に近所に住む同年代の男の子だったのに。
きっとそんなことを考えてしまうわたしは――わたくしは修道女として未熟すぎるのだろうと、思うのだ。……
白で統一された内装のこの執務室で、教皇様の黒い髪と目はよく映えていらっしゃった。
「リーシェ」
「はい?」
「私はね、別に主が一億いようともかまわないのだがね。そもそもこの教皇職でさえ、おじい様からたまたま世襲したに過ぎないし、つまり……」
教皇様は深く椅子の背に身体をあずけ、前髪をくしゃりと掻き上げながらひどく、むっつりとしておっしゃった。
「……結婚しないか? リーシェ」
カタンッ、とサイド・テーブルから、わたくしの仮面が落ちた。
自分が足を引っかけたのだとは、しばらく分からなかった。
頬が熱い。
口がかってに動いている。
「……え、はぁ。はい、え? はい?」
わたしは、ひどく狼狽していた。
***
……そんなこんなで、この星では奇妙な多神教が始まった。
***
「……空気の抵抗が速度の二乗に比例し、それに必要な動力がその三乗に比例して増大することから、当時の科学者は飛行旅客機の実現を否定したのさ。――時速百マイルを得るためには四七〇馬力のエンジンが必要であって、そんな非科学的なものは造られ得ないだろうとね。だからもし仮に飛行旅客機なんてものは実現したところで、少数の金持ちの道楽以上の価値は無いだろうと、予想されていたのさ」
白髪の博士は白衣を翻して歩きながら、駅で隣に並んで歩いている青年に、そう弁舌をふるっている。そこは大きなエレヴェーター・シャフトがいくつも並んでいて、地上のターミナルから宇宙空港へと向かう玄関口だった。
「しかしそれから七〇年後には、飛行機は四〇〇マイルで空を飛び、当時の汽関車よりよほど多くの人間を運ぶようになったがね」
言いながらスライド式の自動ドアをくぐった二人は、なかなか賑やかな街に踏み出した。そして、博士は青空を飛び去っていく惑星間航空機を見上げながら、明るい声で言った。
「――そして今じゃ、さっき君の乗ってきたアレのように、宇宙まで飛んでいやがる!」
隣の青年――深いブルーの目と髪をした――は博士の視線を追って同じようにそのスペース・シップを眺めながら、柔らかく表情を崩して笑った。
「うん、なるほど。――話に飛躍こそありますが、言いたいことは分かりますよ」
博士はまんざらでもなさそうに、「ふふんっ」と鼻を鳴らした。
「安心して見ていなさい。人類はきっと、たぶん思いがけなく急に、宇宙の遥か奥の空間へと躍り出すに違いないからね」
「あ、フレドリック・ブラウンの小説ですね、その言葉」
「ああ……〝天の光はすべて星〟だよ」
火星の研究機関からしばらくぶりに母星へとやって来た青年に対して、博士は遅々として進まない超光速宇宙船の実現を説いていたのだった。それを信じているからこそ博士は自らの研究を、続けているというわけなのだから。
「それにしても」
と博士はさっきから気になっていたことを青年にたずねた。
「暑くないのかね? 白衣の上からマフラーというのは」
青年は真っ青なマフラーをしていた。
「こうしておくと、無くさないんですよ」
がやがやとした街のストリートを歩きながら、青年は笑顔で返した。
「ここにあるとね、あーあるあるあるある、ってわかるでしょ? 無いと、あ、ないないないないって探せますね。それにサーティーワン・アイスがとてもおいしく……」
「――、あぁ、そう」
ちょっとばかしめんどくさいと思った博士だった。そういえば前に会ったときもこんなやり取りをしたな、と博士は何となく思い出した。
「――で、ミス・エスペシアは?」
青年が尋ねて、博士は答える。
「あの子はどうも新しく見つかった星に熱心でね。ずっと研究室に籠もりっぱなしだよ。やはりああいう所は、私の血筋なのかねぇ…」
「おや? 彼女は博士の奥様のクローンでは?」
「いや、私の母親のクローンだよ。第何世代目だったかな?」
***
自分が、まるでガラスの靴で走っているみたいだと思った。
身体はふらふらして、まるで疾走できていなかった。
わたしは、教皇様の、いや、あの小生意気だったシーカの言葉に、情けないほどに動転、していた。なんでいま更そんな、――そんなこと言うかな……。
廊下を走る修道女なんて、聞いたことがない。
荒れた息で自嘲気味に、呟く。
「わたしやっぱりパン屋に、なるべきだったんだ……」
どうしたらいいかなんて、分からなかった。
逃げてしまった。真っ白な執務室は、その時の私の頭そのものだったと思う。
仮面は、どこにいったのだろう?
わたしの着けていた、あの仮面は。
だんだん足が、腰が、肩が、頭が――重くなる。
多分いま目をつむったら、地面の底へと真っ逆さまに、落ちていくみたいに錯覚するのだろうと思った。
こめかみが、引き絞られるように痛かった。
「もぅ、ムリ……」
息を乱しながら、わたしはこのチェピン大聖堂の出入り口近くで、足を止めた。
手をついた石壁のゴツゴツした手触りが、わたしの心にも広がっていくようだった。
薄暗い廊下と違って、開け放たれたドアから見える外の景色は、春の柔らかい温もりがいっぱいで、緑と、光の眩しさに満ちていた。
「どうして……」
どうして、逃げてしまったのだろう。
わたしは、ずっと待ってた、はずなのに。
でも、……。
そこで、わたしはいきなり肩をつかまれて、バランスを崩しながら、その肩に置かれた手に、懐かしい温もりを感じて、……でも。
無意識にその手を、振り払う自分がいて。
「やっ、」
そして――、
***
「あ、甲斐さん来てたんですか」
灰色の髪の少女は振り向きながら、青い髪をした青年を見て言った。青年は見るからに疲れていた。久しぶりに全力疾走を、した後だったからだ。
「……やぁ、久しぶりだね。ミス・エスペシア」
ゼハ、ゼハ、とまだ苦しそうに呼吸して、真っ白い内装の部屋に入るなりクニャッという感じにしゃがんでうずくまってしまった青年――甲斐は激しい運動によって赤くなった顔で、それでも首に巻いた青いマフラーは取らないようだった。
暑そう、とエスペシアは思った。
「――いったい、どうしたんですか? 博士も見当たらないみたいですけど……」
エスペシアは首をひねった。困惑していた。
うなじの辺りで銀のバレッタによってひとまとめにされた灰色の髪が、ふるふると小刻みに揺れていた。
「いや、いやいや、実はさ……」
甲斐は酸欠でふらふらする頭を、うしろの壁へとゴツンっとぶつけてそこに体重をあずけながら、ズリズリと後頭部を壁にこすって立ちあがった。目が据わっていて、どうにも苦しそうだった。
「あの、廊下のところで…………」
***
教会は長い腕と、短い腕を持っている。
長い腕は至る所に届いて人を押さえ、短い腕は与えるのに役立つが、すぐそばにいる者にしか届かない。……聖教学校で最初に聴かされた言葉だったと思い出す。
両膝を地面に着き、彼を見上げるわたしは驚くほどに、醒めていた。堅い床のタイルが膝に痛めつけ続けていたけれど、わたしがこれほど落ち着いてしまった理由は、それだけではなかった。窓から注ぐ穏やかで温かな太陽の日差しの只中で、わたしに突き飛ばされたあのシーカが、いつも誰よりもらしく振る舞っている彼が、…………教皇閣下が、泣いていた。
「なぜ泣くのですか?」
そう問い掛けるほど、私は人でなしではなかった。彼は茫然とした表情で立ちつくし、私を見下ろしながら涙を零し続けていた。
わたし達は数秒無言で見つめあった。彼の真っ黒な瞳が私の目に映り込み、夜の果てのようにわたしの中で溶けていくのを感じた気がした。
「――ダメ、なのか?」
彼は、涙を止めることができない。
「俺では……、ダメなのか?」
右手で両目を覆い、濡れた皮膚を隠そうとした。
でも、彼の震えはむしろ大きくなる。
「まだ……」
彼の身体からフッと力が抜け、あたかも花びらの舞うように彼の纏った紺のマントが中空へとひるがえる。彼の身体は地の力に抗わず、わたしと同じ目線に吸い寄せられた泣き顔は、膝をついた鈍い音にも構わずに深く俯いていた。
「まだ駄目なのか? これでは足りないのか? 俺は、君が、……君に、」
わたしは彼のことをポカンとした表情で見詰めるしかない。
彼の想いと自分の戸惑い、その他複雑な感情が渦を巻く。
「立派になろうとした。教皇にもなった。七光りだなんて誰にも言わせなかった……それでも、まだ足りないのか?」
わたしは彼のために、冗談でも言った方がいいのかと迷った。
しかし声は出なかった。シーカが真実を語っているのは明らかだったから。
「……俺は、いつになれば君に、相応しくなれる……?」
消えてしまいそうだ、と思った。
午後の光は雲に遮られていつもより薄く、彼の黒髪も、暗色の礼服も、わたしにはすぐに空気に溶けて、どこかへ消えていってしまいそうな気配に満ちているように、感じられた。
「……シーカ」
わたしは彼の髪へと、手を伸ばす。
わたしの腕は、すぐそばにいる者にしか届かない。
***
その男は今までに見たことがないほどの長身で見たことのないほどの紫色の服装だったが、一番目を引いたのは彼がサムライの格好をリスペクトしている点だった。キモノのような袖の広い服で、長い髪を後ろで一つに束ねていた。イタリア系か、それとももしかしたらフランス系なのか? と思わせるような顔つきだった。
全力で駆け抜ける彼は、場所が研究所の長い廊下にもかかわらずサバンナのネコ科動物を思わせた。しなやかな腱、力強い筋肉、そして無駄のないランニング・フォーム。
彼の後ろからこれまた全速力で追いかける甲斐と博士と比べると、その運動能力の差は歴然としていた。甲斐は重力の軽い火星帰りだったし、博士はそろそろ歳だった。
「ま、まてぇ~い!!」
と同時に叫んだ博士と甲斐は、しかし絶対に待つはずのないそいつに追いつくことはもう不可能に思えた。このままでは女子更衣室を覗いていた現行犯をみすみす取り逃がしてしまう!
それにエスペシアに聞いた話だとどうやら奴は常習犯なのだ。絶対に許すわけにはいかなかった。
「くそ、このままでは」
博士は懐から拳銃型のサイコ・スタンガンを取り出した。放たれるN線メーサーによってナノ単位での重力を停止させ、人間の脳神経細胞の微小管内に常時発生しているという量子振動(つまり〝意識〟等と呼ばれているそれ)を一時的に消去する護身具である。
博士はよく狙って撃った。
はずれた。
メーサー・ビームの直撃した照明装置が、結構すごい勢いで天井から外れて甲斐に激突した。甲斐は死んだ。――あ、生きてた。ランナーズ・ハイで脳内麻薬がハイ・ファイ・レイヴァーしているため痛みなどもう感じなくなっていたのだ。
「シット、当たらんぞ!」
と博士は吠えた。
「俺がガ○ダムだ!」
と甲斐も吼えた。
紫色の後ろ髪が遠ざかっていく。
博士は甲斐を見た。
甲斐も博士を見た。
博士は甲斐の胸倉をいきなりわし掴むと、踵を軸にして甲斐を思いっきり遠心力でぶん投げた。
もう火事場の馬鹿力だった。
甲斐を重りとして、青いマフラーが伸びていく。
だがまだ覗き魔には届かない。甲斐はマフラーから外れてどこかへと飛び去っていった。――窓が割れた。
覗き魔がその音に振り向いた。
振り向く勢いで長い後ろ髪が跳ね上がった!
そしてその紫の後ろ髪は、ちょうどうまい具合に届いた青いマフラーによって見事絡めとられ、博士は無事、女子更衣室の覗き魔を捕まえることができたのであった!!
***
かつて教会が一度滅びた日、わたしはまだ生まれてはいなかった。寄り添う彼もまた、それは同じことだった。わたし達の立場や意識なんて所詮、生まれる前の大人たちが何をしたのかで決まっていると思う。
どうすればいいのか。
どうすればよかったのか。
その決断の前提になっている状況は前の世代の遺産でしかなく、だとすればわたし達は本質的に手遅れなのかもしれない。
いやむしろ手遅れでない世代などはいなくて、ずっと手遅れなままでわたし達は生き続けなければいけないのかもしれない。それともそのことを、そうだと意識させないことが上の世代の役割なのだろうか。どんなに冷たい寝床でも、温かいと信じ込ませるような。
それならわたしは自分さえも騙していたい。
自分が温かい寝床を用意しているのだと思っていたい。
そのためには信じるしかない。
社会を。自分以外を。仮面を。
それが、わたしをあの場から逃げ出させた理由だった?
そうかもしれない。
「ただ諦めてたから。もうずっと前に諦めていたから……」
そう言って、わたしはシーカに謝ろうとした。
彼はもういいんだよというように、首を振った。
「俺は、……諦められなかったよ。苦しかったけど」
でもさ、と彼は続けた。
「それは諦めるだけの勇気がなかっただけなのかもしれない」
そんなことない。
そんなことはない。
わたしは自分が弱かったのだと、彼に言いたい気持ちでいっぱいになった。彼は、寝床が冷たいことを偽ろうとはしなかったのだから。冷たいことを悲しみ、その上でそれが温かいと騙る覚悟があったのだから。
「それなら、」
でももうひとつの選択肢が、もしかしたらあるのかもしれない。〝科学〟のように実は、間違っていたと後から言われるとしても。
「結婚しよう。シーカ」
冷たいままにしないという選択肢。
本当に温かい寝床にしていくという選択肢が。
***
「…………ということが、あったんだよ」
と甲斐は、咳き込んだりしつつも、一部始終を説明し終えた。
エスペシアはどんな顔をしていいか分からなかったので、取りあえず笑っておいた。犯人が捕まったのは何にせよ嬉しいことだったからだ。
「それはまた、お疲れ様です」
言いながら彼女は純銀製のバレッタを外し、うなじの辺りに指を差し込むとしゃかしゃかと髪を梳いた。エスペシアは笑うと髪の生え際が痒くなるのだ。
「いや、お礼は博士に……言っておくといいよ。僕は何もできなかったしね」
甲斐は言って、その昔に〝スマートフォン〟と呼ばれた電子機器から進化した、手のひらサイズのラップトップPCをドッキング・ステーションにセットした。ステーションには電源、イーサネット、Dブルートゥース無線類が内蔵されており、こうすることで小型のタブレットPCが、大容量のデスクトップPCと同じ動作環境で利用できるようになるのだった。
エスペシアが白銀色の髪を解いたままに給湯室へ向かおうとすると、甲斐の電源が落ちていくところだった。もちろんこれは比喩表現で、甲斐は椅子にもたれたまま眠りに落ちるように力を抜いていた。目蓋は深く閉じられ、気付かないくらいの速度で息が吸われていた。
「……電子ドラッグ」
エスペシアは戸惑った。
これは違法行為なのだろうか。彼女にも正義感はあった。
現実の身体感覚から離れ、異常な脳活動電位の作用による幻覚に沈んでいく快楽ソース――PCが単なる電子機器ではなく、
積層現実や拡張現実の操作を受け持つようになった時代に生まれた、薬物の一種のことだ。
「はぁ~~……」
甲斐は幸福そうに息を吐いた。
目を開けてちらりとエスペシアの方を見る。
その目は普通で、なんの異常も感じることができなかった。
「驚いたかい?」
甲斐がいたずらっ子の笑みで言う。
「シガレッタと言うんだ。こいつは唯一の合法ドラッグでね」
彼はまた深く呼吸をした。
エスペシアの戸惑う顔が、また見物だったから。
「……二十一世紀に禁止されるまでは、みんな普通に吸っていたそうだよ」
その仮想ドラッグは副作用もほとんどないので、マニアな連中には広まっていたのだった。からかわれたことを知ったエスペシアは、表現しがたい憤りと言うか、くやしさのようなものを感じていた。でもそれを悟られるのはすごく厭なので、彼女は何でもない風を装うことにした。
「何か飲みます?」
エスペシアのその声に甲斐は微笑みながら、珈琲とかは苦手なんだ、と言った。この歳になっても、まだ苦いのが得意じゃなくて、酒もだめだな。ま、向こうの星じゃ、そんなの飲む機会なんて無いんだけどね。そう話してからあまりにリラックスした様子で甲斐がココアを所望したので、彼女は笑顔で分かりましたと返事をしながら決心した。
「……甘いのにしますね」
ついうっかり、砂糖と塩を間違えてやろうと。
***
わたし達の選択を、別の言葉で言い表すなら、それは教会の持つ短い腕を、そのまま長い腕に変えていこうということに他ならないと思う。
礼服の皺を伸ばした彼の、綺麗に艶のある黒髪が、落ちかける日の光に照らされている。もう、彼にはいつもの頼もしさが戻っている。そして今までの彼と違い、そこにはある種の柔らかさがあった。
「――もし、これから俺達は主の怒りを受けるのだとしても、それでも俺たちは、進まないといけないんだよな」
彼の瞳には、今までよりも強い黒さがあった。今までに無かった彼自身からの意思だった。
「リーシェ、その手伝いをしてくれないか?」
なんともそれは、実に実に、ロマンスに欠ける科白ではあったけれども、それが彼で、それが世界なのかもしれないと思った。これからわたしは仮面をもう一度付けるし、もう二度と外さない。それでいい。
「もちろんいいよ」
そのためにわたしは、覚悟を決めたのだ。
大聖堂を粘度の薄い、春季の風が吹き抜けていく。
三つ子の月の白さが、空の色に溶け込まずに雲を威嚇しているみたいだった。わたしは彼の第六指についた、男性らしい鉤爪に触れながら言った。
「わたしも覚悟が決まったから」
わたし達の未来はどうなるのか、そこには不安が横たわる。
身分違いの愛の行方も分からない。わたしの心に、厚い霧が掛っていくイメージが広がっていく。
――そこで、
***
エスペシアがココアを淹れている間に、甲斐は博士に連絡を入れ、犯人が無事に連邦警察へ引き渡されたことを確認した。犯人の妹が来て、彼をヒステリックに攻め立てていたのだと聞かされた。その子もサムライをリスペクトしているのかな? と甲斐は思った。だとしたらちょっといやだなと思った。
甲斐は、割とボロボロになってしまったマフラーを撫でると、丁寧に首へと巻き直した。
彼は淹れられていくカカオのいい匂いを嗅ぎながら、あのN線天体望遠鏡を覗いてみようと思った。あのエスペシアが夢中になるのだから、きっと何か面白いものが見られるのに間違いなかった。甲斐は接眼レンズを覗き込んで、ピントの調整を悪戦苦闘しながら行った。
「お? お、お、お、おぉぉおおお、おおおお?!」
彼は見た。その惑星の空を、黄金の竜王が、大きな翼を打ち振るいながら美しく雄々しく、翔けているのを。
「凄いな……」
甲斐は多くの人がそうするように感動によって鼻の奥をつんとさせ、同時に眼差しに優しさを伴って笑顔になった。
エスペシアとの話題ができたことも嬉しくて、彼にはそのとき彼へと向けられた無数の視線には鈍感にならざるを得なかった。エスペシアはそのとき、笑顔で甲斐のココアに塩と胡椒を入れていた。
***
そこで、わたし達は顔を見合わせた。
「笑ってる」
いったいどちらの神様なのかはわからなかったけれど、確かにその視線は、笑っていた。
それは、まるでわたし達の未来を許してくれているかのように…………わたし達二人を、祝福してくれているかのように。
(了)