ラスト・ラウンド
グロテスクなシーンはありませんが、痛いシーンは所々にあります。極力暴力的にならないよう注意しましたが、ご不快を感じるようなことがあれば、悪しからず。ご了承ください。
真っ暗だった視界が、突然白くなった。
唸り声が聞こえた。自分の喉から発するものだった。
後ろから誰かに抱きつかれ、強い力で引っ張られた。
金属的な軋み音が耳の中を満たして、気が狂いそうだ。
右手を誰かに掴まれ、宙に吊り下げられた。
見覚えのある人々が駆け寄ってきて、抱きつかれたり背中を叩かれたりして、もみくちゃにされているうちに意識がはっきりしてきた。
四角く切られたキャンバスの床。空間を区切る四本のロープ。眩い水銀灯の光。人々の歓声……。ここはリングの上なのだ。
吊り下げられた、と思ったのだが、それは右手を挙げられていたのだ。
倒されたはずだった。左の顎には、チャンピオンの肘を喰らった痛みが明確にある。にもかかわらず、安っぽい金メッキとゴテゴテとした装飾のされたベルトは、自分の腰に巻かれているのだ。
夕方。六時過ぎにジムに入った。
オーナー兼トレーナーに挨拶する。
扉一枚隔てて、ジムの中はまったくの別世界だ。汗と革が混じって醗酵した悪臭と、ほんの僅かに混じる血の匂い。熱帯を思わせる百パーセントに近い湿度。三分、一分ごとに時を伝える三分計のベル。有線放送から大音量で流れる最新のヒット・チャート。
四方の壁は、鏡張りだ。壁際には太い鉄骨から吊るされたサンドバッグ。縦に細長い空間の一番奥に、フル・サイズより二回りは小さいリングがある。リングを囲むように、壁に取り付けられた棚には、ミットやグローヴが並べられている。
もう、数人の練習生たちがストレッチやロープ・スキップを始めていた。
スチール製の事務用ロッカーが並んだ、仕切りすらない、更衣室とは呼べない一角で、素早く着ているものを脱いでいく。 靴下、ネクタイ、ジャケット、ボタンダウンのシャツ、スラックス。決して順番は変えない。丁寧にハンガーに吊るした。下着だけになったところで、スポーツ バッグを開いて中身を床にぶちまけた。
下着も剥ぎ取り、素っ裸になった。日に焼けた自分の身体を見下ろす。筋肉の上に直接皮膚を貼り付けたような、痩せてはいるが決して貧弱ではない身体。それでも、リミットまではまだ五百グラム残っている。
試合まであと五日。今日中にはリミットに達するから、少し物が食える。
ビキニのスイム・パンツを着けた。壁の釘にかかっていたビニールの雨合羽の上下を着る。さらにナイロン製の、摩擦音が煩いトレーニング・ウエアを着る。とにかく発汗と新陳代謝を加速させて、体中から水分と脂肪を追い出してしまわなければならない。
上半身にトレーナー、下半身にトランクスをさらに重ね着して、バンデイジを巻く。練習で怪我をするわけにはいかない。手首を中心に、きつめに巻いた。
練習生たちがシャドウ・ボクシングを始めている。邪魔にならないように、端の方でストレッチをする。アキレス腱、足 首、膝。指、手首、肩。背中、脇。大腿部、臀部、腰。三週間以上ハードなトレーニングを一日も欠かさずにしてきた。疲れが身体の節々に溜まってきているのが分かる。そろそろ限界も近い。
十五分ほどの時間をかけて、入念に身体を解した。密封された身体は、すでに不快な熱を持ち始めている。水撒き用のホースほどもある太く重く硬いロープで、スキッピングを始める。三分計とは関係なく、壁に掛かった時計を見ながら十五分跳んだ。
右足二回、左足二回を繰り返す。一分間に百三十回程度のペース。頭の中から、汗が噴き出してくる。胸や背中にも汗が滲んできているだろう。ロープと木の床がぶつかる硬い音が、やけに大きく響く。
鏡でフォームをチェックしながら、シャドウ・ボクシングをする。パンチ、蹴り、肘、膝。単純なコンビネーションから、 徐々に複雑に数も増やしていく。スピードと、パンチや蹴りの軌跡だけに注意を払う。ストレートやジャブは真っ直ぐ突き出されているか? 蹴りは最短距離を通っているか?
五ラウンドでシャドウを終えた。全身から汗が滲み始めた。
パンチング・グローヴを着けて、ロングバッグにコンビネーションを軽く叩き込む。相手や試合のことは考えない。パンチが当たる場所、蹴りが当たる場所を一定にすることだけを考えた。コンビネーションは、最後が蹴りか肘で終わるように組む。
額から汗が流れ落ちてくる。呼吸数も心拍数も上がってくる。エンジンがかかった。
同じ日に試合が組まれている選手と組んで、バッグに向かって交互にラッシュを繰り返す。三十秒を十本。一分を十本。二分を五本。三分を三本。
発汗は酷いが、三十秒で交代しているうちは、まだ余裕がある。一分で交代するようになるころから、床に落ちた自分の汗で足が滑るようになってきた。息が上がり、頭の中が真っ白になってくる。
「スピード! スピード!」
「パンチから蹴り! 蹴りからパンチ!」
「上を打ったら下! 下を蹴ったら上!」
何時の間にかオーナーが竹刀を手に後ろに立っていた。竹刀で激しく床を叩きながら檄を飛ばしてくる。スピードが鈍れば、容赦なく竹刀が背中や尻に飛んでくる。
しかし、減量と激しい練習で極度に体力が落ちてきて、振り絞るだけの力もスピードもない。自然とわけも分からぬ叫び声を上げていた。声を上げていないと、気力が続かない。
最後の三分を終わったときには、しばらく立ち上がることが出来なかった。荒い息を静めて、床とバッグに飛び散った汗を雑巾で拭った。拭っていくそばから、顎や脚から汗が流れ落ちてくる。
雑巾を仕舞うついでに、蛇口に屈み込んで、水を直接頭から被った。一口だけ、水を飲んだ。
呼吸を整え、身体の緊張を解すために軽く三ラウンド、シャドウをする。体中から水分が抜けてしまったため、体温がなかなか下がらない。
落ち着いたところで、先ほどの選手を捕まえて、キックミットに単純だが渾身の力をこめたコンビネーションを叩き込む。
「スピード!」
「そんな蹴りじゃ、相手は倒れねぇぞ!」
オーナーの檄が飛んでくる。
ジャブから右ミドル。ワン・ツーから左ミドル。前蹴りから左右のミドル。ミドルから膝。膝からミドル、返しの膝。絞り切ったと思った身体からは、まだ汗が出てくる。
たっぷりと五ラウンド、蹴った。ミット打ちは、前後の動きが加わるためにバッグ打ちよりも遥かに運動量が多い。ミットを交代して、今度は受ける側に回る。
続いて、十六オンスのグローヴ、ヘッドギア、脛当てを着けてのスパーリングをする。本気で当てることはしないが、スピードとタイミングを重視して、試合同然の緊張感で臨む。
オーソドックス・スタイルだが、左を多用するように心がける。利き腕や利き足での攻撃は、本番でも出るが、逆の手足は、練習で習慣付けなければなかなか出ない。
しばしば停められて、オーナーから細かい技術的なアドヴァイスが入る。今さら言われても、という気持ちもあるが、いつ何時役立つか分からない。心に留めておいて、後からシャドウで確認することにする。
相手の右ロー・キックを左の脛で受ける。そのまま左のミドルを返す。同時に始動させていた左のフック。返しの右膝。突き放して右のハイ・キック。
疲れはピークに達しているが、身体の切れは抜群だ。攻撃で圧倒し、相手の技は完璧に受け、かわすことができる。
三ラウンドでスパーリングを切り上げると、十五分間の首相撲に移る。相手の首を捕らえて引き合いながら、膝を横から入れる。最も体力と筋力を必要とする。しかも、試合中、かなりの頻度で行われる攻防だ。
脚を使わなければ、投げは反則ではない。しばしば投げ、しばしば投げられる。リングに倒れこむときは、不思議とそのまま寝ていたいとは思わない。体力も精神力も関係なく、反射的に立ち上がる。
リングに這いつくばることを、身体が拒絶する。
終わったときには、疲れ果てていた。
しばらく、ジムの端の方、鏡の前に倒れこんでいた。近くには、今日練習を共にした選手が、やはり倒れこんでいる。
三ラウンド、軽くシャドウをする。スパーリングでの注意点を重点的に確認する。
最後にストレッチを十分にして、練習を終えた。
着ていたものをすべて脱いで、スイム・パンツ一枚になった。本番の計量と同じ、分銅式の体重計に乗る。はじめからウェルター級のリミットに合せてあった体重計は、釣り合うことなく錘の方へ傾いた。慎重に錘をずらし、現在の体重を量る。リミットを三百五十グラム切った。
「どうだ?」
オーナーが声をかけてくる。
「三百五十、切りました」
「今日はもう、上がれ。それと、少し食っておけ。冷たい物はだめだぞ」
「わかりました」
熱いシャワーを浴びる。水の勢いがないから、浴びていても大して気持ちよくない。汗だけ流すと、シャワーを止めた。
下着、靴下、ワイシャツ、ネクタイ、スラックス、ジャケット。着ていく順番も決まっている。スーツを着ていれば、目の光も多少和らぐ。
オーナーに挨拶して、ジムを出た。
少し歩いたところにある自動販売機で、冷たいミネラル・ウォーターを買った。大きく一口、喉に流し込んだ。水は、胃に届く前にどこかへ吸収されてしまったような錯覚に陥った。
終夜営業のスーパーマーケットで買ってきた豆腐を開けて、皿に移した。その上へ別の皿を乗せて水分を抜く。
そうしておいて、本格的にシャワーを浴びた。シャンプーと石鹸で全身を泡だらけにして、熱いシャワーを勢い良く身体にかけた。
俺は、いったい何をやっているのか? サラリーマンとして、そこそこいい給料を取って、不自由することもなく面白おかしく暮らしていけるのに……。何を好き好んでこんなに辛くて苦しいことをしているんだろう?
疲れも緊張も落ちると、ふとおかしな気持ちが湧き上がってくる。頭からお湯を浴びながら、後ろ向きになりそうになる気持ちを振り払った。
バスタオルで頭から全身を拭った。洗い立てのスウェットとティシャツを着た。
豆腐から出た水を捨てる。
縦に四つに割ったネギのみじん切り、生姜のみじん切りを手早く作る。フライパンを熱し、胡麻油を引く。煙が出るほど温まってきたところで、ネギと生姜を入れてさっと炒める。さらに牛挽肉を二百グラム加えてよく炒めた。トウバンジャンと醤油で味付けをし、豆腐の上にかけた。小ぶりのトマト二個、胡瓜二本が今日の夕飯だ。
食べ終わると、かえって空腹感が増したような気がしてくる。ベッドに寝転がって耐えるしかない。台所に伏せてある灰皿に目が行く。冷蔵庫の脇のワゴンに載ったバーボンにも目が行く。空腹感よりも枯渇感よりも、ニコチンやアルコールへの渇望が激しい。
試合の二週間前から断っている。丁度、最も激しい渇望が訪れる頃でもある。
ジムに入門したのは、二十九歳のときだった。
何の変哲もない、ちょっとスポーツ好きなサラリーマンだった。格闘技好きの友人に誘われて、キックボクシングの試合を観にいったのがきっかけだった。すぐにその緊迫感や迫力、肉や骨を打つ音に魅了された。
週末には入門していた。フラリと飲み屋に立ち寄るような、気軽さだった。試合のパンフレットに掲載されていたジムの、職場から最も近いところを選んだだけだった。入ったジムが、日本一厳しい練習を課すところだと知ったのは、ずっと後のことだった。
どんなに厳しい練習であっても、たとえそれが日本一厳しいとしても、それが当たり前だと思っていた。他所のジムの練習を見たこともなく、比較してみようという気もなかったのだから。
ジムの練習生は、若い奴らばかりだった。十歳近く歳の離れた彼らに混じって汗を流すことに、多少のたじろぎがなかったかといえば、嘘になるだろう。
それでも始めてしまったことだ。後には引けない。
入門しても、すぐにサンドバッグを叩いたり蹴ったりさせてもらえなかった。基礎体力作りから始まった。翌日は筋肉痛で起き上がることも出来なかった。この段階で辞めていく者が少なくないことも知った。辛いだけで、楽しいことは一つもなかった。
初めてバッグを叩いたときは、手首を挫いた。初めてバッグを蹴ったときは、翌日脛から足首にかけて脹れ上がった。膝には青痣がいつまでもこびり付いていた。初めてのスパーリングは、なすすべもなく打たれまくった。若い奴に、いいようにやられる自分を恥じた。
入門当時九十五キログラムあった体重が、三ヵ月後には七十三キログラムまで落ちていた。動きが、まるで軽くなった。
三ヶ月を過ぎた頃から、先ず目が慣れてきた。相手の攻撃や気配を察する目だ。身体の動きも慣れてきた。プロの選手と変わらない動きができるようになってきたのだ。
プロテストを受けたのは、入門してから半年、自分の実力がどれだけついているのか、確かめたかったからだ。テストへ向けて、特別な練習はしなかった。普段の実力を試すのだから。
午前の、ルールや試合マナーを中心とした学科試験に合格した。身長、体重測定、視力検査の後、午後はスパーリングだった。不思議と緊張しなかった。滅多にないと言われた、ノックアウト勝ちをした。
大したことないじゃないか。俺ほどの運動神経があれば、いいところまで行ける。正直な感想だった。選手層が極端に薄い世界なのだ。
テストから一週間後。「試合、してみるか?」という、オーナーの冗談ともつかない言葉に、飛びついた。職場では、そろそろ中堅として忙しくなり始める歳になっていた。オーナーは、そこを心配したのだが、強引に頼み込んだ。
デヴュー戦。
はじめて立ったリングの上で、グローヴの中の手は緊張で震えていた。耳鳴りがして、背中には冷たい汗が流れていた。試合が始まるまでが長かった。試合が始まってからのことは、ほとんど覚えていない。視界が薄闇のように暗くなり、音のない世界に迷い込んだのだけは覚えている。
後からビデオで観たところでは、一ラウンド二分過ぎ、右のハイ・キックで ノックアウト勝ちだった。
試合後、はじめて親にキックボクシングをしていることを告白した。予想通り、ネガティヴな反応しか返ってこなかった。黙って電話を切った。
それから三年。ほぼ二ヶ月に一回の割りで試合をした。二十戦十七勝二敗一分け。遅れてこの世界に入ったことを考えれば、十分過ぎる成績だ。この三年間、すべてをキックボクシングに振り向けてきたのだ。
仕事。練習。減量。試合。この繰り返しだった。食うことと飲むことだけが、楽しみだった。料理と美味い酒を集めることに熱中した。
ファイト・マネーは、ボクシングと違って極端に低い。アルバイトで細々と食いつないでいる選手たちに比べれば、生活の基盤を持っている分だけ楽だった。キックボクシングで稼いだ金は、すべて親に送った。
仕方がなく回ってきたのか? 来るべくして回ってきたのか? タイトル挑戦の話が舞い込んできたのは、三十三歳の誕生日だった。躊躇なく受けた。自分の実力を試す最大の機会がやってきたのだ。
しかし、例え勝ったとしても、年齢的にベルトの維持をするのは難しい。勝っても負けても、これを最後の試合にしよう。そう決めた。
オーナーに引退を告げたとき、強硬な反対や遺留を覚悟した。しかし彼は、黙って頷いただけだった。
目覚し時計の音で、目が醒めた。
身体が重い。のろのろと起き上がって、スウェットの上下を着込んだ。起き上がると、額のあたりが熱を帯びている。後頭部のあたりも重い。七時間は眠ったはずなのに、全身が疲れている。
入念に全身のストレッチをした。疲れは、少しも解れなかった。
外に出ると、ゆっくりと歩き始めた。徐々にスピードを上げ、八キロメートルほどランニングする。小さな流れの脇にある、桜並木がコースだ。今度の試合のために走り始めた頃は満開だった桜も、今は葉桜だ。
試合が決まらない限りは、朝のランニングはしない。ボールを追いかけるとか、目に見える目的があればいくらでも走ることができる。しかし、走るために走ること、ただ漫然と走ることは嫌いだ。
走り終えた頃には、身体も幾分軽くなった。グラス一杯の牛乳とチーズ一切れの朝食。軽くシャワーを浴びた。ネクタイを締めながら、鏡に映った自分の顔を覗き込む。目が落ち窪んで頬がこけた顔。カサついて精気のない顔は、まるで別人のように見えた。
九時十分前には、出社した。
上司から会議室に呼び出される。
「社長の主導で、新しいプロジェクトが動き出しているのは知っているな? 君に、そのプロジェクトを任せることが内定したよ。七月からは、君も課長だ。おそらく、五名の部下が付くことになると思う」
「そうですか……」
「おいおい、そんな気のない返事でどうする? いつまでもキックボクシングなんて野蛮なことをしてないで、仕事に専念するんだ。今回の君の昇進は、私の推薦なんだからな」
「この週末に試合がありますが、それを最後にしようと思っています」
「そうか。それでいいんだ。がんばるんだぞ!」
「ありがとうございます」
がんばるのは、仕事なのか? 試合なのか? 昇進を喜ぶような素振りをして見せた自分に、理由もなく腹が立ってくる。
九時から五時半まで、身体の代わりに精神を痛めつける。本当なら、練習の直前まで寝ていたいところだ。しかし、手抜きは絶対にしない。仕事に集中していれば、身体の疲れや空腹感が紛れることも事実だが、何より仕事とキックボクシングを両立できないことで、人から後ろ指を指されることには我慢できない。
昼は、食事に行く同僚たちと離れて、近くの公園へ行く。家から持ってきた食パンを二枚、チーズ二切れ、パック入りの牛乳で済ませる。
胃が活動を始めたことによって、耐えがたいほどの空腹感が蘇ってくる。ベンチに凭れて耐える。昼休みの時間が、のろのろと過ぎていく。
午後の長い時間、ちびちびと水を飲んで過ごした。空腹感で、些細なことにも神経がイラ立つ。集中力も極端に落ちる。四時を過ぎるころ、ようやく空腹感が薄らいできた。残業回避のための、最後のラストスパート。
定時に席を立った。上着を羽織って、スポーツバッグを担いだ。隣の同僚が、ポンと尻を叩いた。ニヤリと笑って、親指を突き上げた。小さく頷いて歩き始めた。
会社を出るときに、このまま家に帰ってしまいたい、という衝動に襲われた。毎日のことだ。
試合の朝。七時三十分に目覚ましが鳴った。
昨夜は軽くシャドウとバッグ打ちをこなして、体調を整えただけで練習を切り上げた。そのため、昨日の朝までのような重く不快な疲れはなかった。ここ二週間の中では、最も快適な目覚めだった。明日の目覚めは、どうなるか分からない。全身の痛みにのたうちながら起きることになるかもしれないし、最悪の場合、目覚めることは、ないかもしれない。
会社には休暇届を出してある。ジーンズに長袖と半そでのティシャツを重ね着して、いつものランニングのコースをゆっくりと歩いた。葉桜の緑が鮮やかな、よく晴れた一日になりそうだ。
三十分ほどぶらぶらとして、家に戻った。昨日の練習以後、グラスに半分ほどの水を飲んだだけで、何も口にしていないが、不思議と空腹感はなかった。
スポーツバッグにビキニのスイム・パンツ、試合用に少し派手目の刺繍を施した赤いトランクス、ファウル・カップ、ナイロンのトレーニング・ウェア、ランニング・シューズ、靴下、タオル、シャンプーと石鹸を詰め込んだ。サングラスをかけると部屋を出た。サングラスは、試合で目を腫らしたときに隠すためだ。
ジムには九時少し前に入った。十分もしないうちに、その日の試合に出る選手二人が集まった。試合会場へ向けて出発する。十時から計量が始まるのだ。
途中で水分や食料を買い込む。パスすれば食べることができる。今はパスすることよりも、食べることに神経が向いている。他の選手たちも、目を血走らせて好物を選んでいる。甘い物ばかりを選ぶ者。棚の端から一つずつ、全ての種類のおにぎりを籠に入れていく者。
試合会場には、既にほとんどの選手が集まり、計量が始まるのを待っていた。どの顔を見ても、水分不足でカサついた皮膚の下から、疲労と緊張が滲み出している。無闇に大きな声で話してみたり、無理に笑ってみせたりするが、このもって行き所のない精神状態は、試合が始まるまで解消することは出来ない。
十時を二十分以上過ぎた頃、やっと計量が始まった。下着姿で体重計に乗る者がほとんどだが、自信がない者は素っ裸で乗る。それでもパスできない者は、二時間以内に再計量しなければならない。ビニール製の減量ウェアを着て、外に飛び出していく。会場の周辺を走って、最後の水分を搾り出すのだ。それでも絞りきれない者は、会場の下の階にあるサウナへ行くことになる。
体重計に乗ると、ウェルター級のリミットを五グラム切っていた。直ぐにドクターチェックを受ける。血圧を測り、健康上の質問をいくつかされ、胸と背中に聴診器を当てられる。
貪るようにスポーツドリンクを五百ミリリットルほど一気に飲んだ。身体が潤ってくるような錯覚に陥る。家から持ってきた弁当を胃に詰め込んだ。三十分ほどで一斤分のサンドウィッチを食べた。二リットルのペットボトルは、四分の一ほどしか残っていない。
「ああ、美味い! この瞬間のために減量してきたようなものですよね! 俺、計量が終わっても食べられないなら、速攻キックを止めますね」
若い選手が言う。
何とも言えない幸福感。食べるという行為が、これほど人間に幸福感をもたらすのだ、ということは、減量を経験した者にしかわからない。試合よりも、何より勝つことよりも、今この瞬間を思い描いて辛い練習と減量に耐えてきたのだ。
それから五時過ぎまで、控え室で寝て過ごした。何か食べにいく、というジムの連中にも付き合わなかった。久しぶりに満足な量の食べ物が胃に入ったからか、起こされるまで一度も目覚めなかった。
テーピング用のテープと伸縮しない綿の包帯で、バンデイジを巻いてもらう。これは、試合のない選手の仕事だ。試合が終わったら、何を食べにいくか、という話題で盛り上がる。
タイ製のボクシング・オイルを全身に塗りたくって、マッサージをしてもらう。一眠りしたためとオイルの効果で、ここ数週間の疲れが解れたような気がしてくる。こういうときは、調子が良い。
バンデイジ・チェックを受ける。既に第一試合が始まっており、場内はボクシング・オイルの匂いと人いきれ、歓声で埋まりだしていた。バンデイジの中に何か入れていないか、足の爪はカットされているか、入念に点検される。合格すると、マジックで無造作に「OK」の文字がバンデイジに書き込まれる。試合用の八オンスのグローヴを渡された。タイ製の新品だった。
第三試合と第五試合にジムの選手が出場した。まだ若い、デヴューからニ、三試合目の選手たちだ。客席の後方から観戦する。スタミナも技術も未熟な彼らの試合を見ていると、自分にもこんな時期があったのだ、という当たり前の考えが浮かんできた。僅か三年前のことが、既に遠いものとして感じられる。
どちらの試合もスタミナ不足が祟って、最後は街の喧嘩のようになった。腕は振り回すだけ、蹴りは腰よりも上に上がらなくなる。最後まで気力が衰えなかったことは評価に値するが、結果はどちらもドローだった。
試合を見届けると、控え室に戻ってストレッチを始めた。試合はメインだから、まだ一時間以上の余裕がある。ゆっくりと身体を暖める。入念にシャドウをする。やはりパンチと蹴りの軌跡に細心の注意を払う。オーナーがやってきて、しばらく睨み付けるように見ていたが、何も言わずに出て行った。
薄っすらと汗ばむほど身体が暖まったところで、試合用のグローヴを付ける。ミット打ちを軽くこなして、身体のキレを確認した。もう、試合の五分前だった。
ガウンなどの飾り物は身につけない。トランクス姿のまま控え室を出た。入場用の音楽がかかった。音楽は、テーマソングとして同じ曲をかける者が多い中、毎回違う曲を選んでいる。特に理由はない。自分のテーマなどないのだ、と思っている。今回はジョン・コルトレーンの 「Mr.PC」をなんとなく選んだ。
客席を縫うようにして、リングへ向かう。挑戦者だから、青コーナーだ。リングに上がる直前、リングサイドに両親が座っているのが見えた。来るはずもないだろう、と気まぐれにチケットを送っておいたのだ。両親の姿を見ても、特に何の感情も浮かばなかった。
胸の前にグローヴをそろえて、その中に顔を埋めるように頭を垂れ、目を閉じた。最後の精神統一。徐々に入場曲も、観客のざわめきや声援も遠くなった。不思議な静寂が全身を覆っていく。目を開いて、五段ほどの鉄の階段を駆け上がった。ロープを飛び越えてリングに入ると、四方の客席に向かって深く頭を下げた。
歓声が上がったが、不思議な静寂は続いている。コーナーに戻ると、チャンピオンの入場曲がかかった。コーナーに頭を押し付けて、静寂に身を任せていた。自分の名前がコールされるまで、そのままの姿勢でいた。
コールと共に振り返ると、チャンピオンと目を合わせたまま軽く一礼する。すぐに振り向き、ロープに両手をかけた。レフェリーに呼ばれて、リングの中央に出る。セコンドを務める若い選手が一人、脇についてくる。ロー・ブローやサミング、噛み付きやバッティングなどの決まりきった注意を与えられるだけだ。
チャンピオンは、しきりに睨み付けてくるが、相手にしない。レフェリーの話しを熱心に聞き入る振りをした。
レフェリーの注意が終わり、コーナーに戻ると口の中にマウスピースを突っ込まれた。されるがままにして、静かに立っていた。
「ファイト!」
レフェリーの声と共にゴングが会場に響き渡った。それほど、場内は沈黙に包まれていたのだ。そんなことを考えながら、中央へ進み出た。
いきなりチャンピオンがワン・ツーを放つ。そのまま突っ込んでくるところを、腹部への前蹴りで距離を取る。素早くサイドステップを踏んで、右に回り込む。するりとかわす感じでチャンピオンの横へ回り、左のミドル。これはチャンピオンの、胸の前で構えていたグローヴを直撃した。
一瞬、チャンピオンがよろめく。深追いせずに、距離を取った。チャンピオンの顔を見つめた。
しばらく、お互いに睨み合う恰好となった。牽制のつもりで前蹴りを出してみる。グローヴで払うようにしてチャンピオンがかわす。そのまま、前に出てくると思ったが、彼はさらに距離を取るように半歩下がった。
これで大きく一歩踏み込まなければ、蹴りが届かない間合いになった。
掌を相手に向けるようにして顔の高さに構える、アップライト・スタイルでチャンピオンを見つめる。最初のラウンドは、相手の様子を見ることにした。牽制の前蹴りと左のロー・キックを主体に、軽く技を出す。チャンピオンは、パンチを主体にインサイドで戦いたい気配だ。
前へ出てきそうな気配を察知すると前蹴りを出す、ということをしばらく繰り返した。
「ファイト!」
二人の間合いの中に、何度もレフェリーの手が突き出される。
「ラスト、三十!」
セコンドの若い選手の声が聞こえた。
それは、当然チャンピオンも聞いている。もう一度前蹴りを出す。
タイミングを計っていたように、チャンピオンが蹴り足を取って前へ出てくる。予想済みの攻撃だ。いつ、これをやってくるか待っていた。チャンピオンが前へ出てくるのに合わせて、とられた足を引くようにして右のストレートを放った。
瞬間、バランスを崩してよろめいたが、パンチはチャンピオンの顎を捉えていた。すとんと尻餅をつくようにチャンピオンが腰を落とした。
風のようにレフェリーが割って入る。カウントが始まった。
「……セヴン! エイト!」
ダウンした場合は、どんなに元気でもカウントはエイトまで数えられる。立ち上がったチャンピオンは、苦笑いしながらファイティング・ポーズを取っている。タイミングが良かっただけで、効いていないのは分かっている。
ファイトの声がかかった直後、第一ラウンド終了のゴングがなった。
コーナーに戻ると、若い選手が二人リングに入ってきて、マウスピースをもぎ取られた。肩や脚のマッサージが始められる。オーナーが耳元で様々なアドヴァイスをくれるのだが、まったく頭の中に入ってこない。
ラウンド開始十秒前のブザーだけが明確に耳に飛び込んできた。
ブザーと同時に立ち上がった。マウスピースを口に入れて、中央へ歩いた。
チャンピオンが、険しい視線を送りながら歩いてくる。お互いの間合いに入る前に、レフェリーが両手を広げて押し留める。素直に立ち止まった。チャンピオンは、それを無視して前へ出ようとしてレフェリーに静止される。
瞬間、ゴングが鳴った。
レフェリーが退くと同時に、ジャブを出しながら左へ回り込み、ノー・モーションから右のミドルを放った。レフェリーに静止されていた分だけ、チャンピオンの反応が遅れた。まともにミドルが入る。彼の顔が一瞬歪んだのを見逃さなかった。
さらに険しい表情になって、チャンピオンが前へ出てくる。前蹴りを出す振りをして、左のロー・キックを低めに出す。足を掬われる恰好で、チャンピオンが転倒した。
レフェリーが素早く間に入る。
前蹴りとロー・キックで、チャンピオンを中に入れない。とりえず、これを当面のテーマにした。蹴りでもなく、パンチでもない、中途半端な間合いを取る。前へ出てくるように誘っているのだが、さすがにチャンピオンは簡単には乗ってこない。
互いに構えたまま、睨み合う。
チャンピオンの呼吸を計りつつ、隙を見てノー・モーションのミドルを放つことを繰り返した。パンチに自信があり、蹴りよりもパンチでの打ち合いを得意とする彼は、蹴りに対する注意力が散漫だ。
ミドルに合わせてパンチを出そうと狙っているのが、ありありと分かる。しかし、蹴りの間合いからはパンチは届かない。前へ出てこようとすれば、前蹴りとロー・キックだ。
みるみるうちにチャンピオンの脇腹がみみず腫れになってくる。
パンチを打ちながらチャンピオンが前に出てくる。前蹴りを出したが、それを払ってさらに間合いを詰められる。ボディを打たれた瞬間に、チャンピオンが組み付いてきた。パンチも蹴りもない世界。首相撲だ。
年齢的にチャンピオンは十歳若い。スタミナの消耗を狙った作戦だ。しかしこちらは、首相撲はいやというほど練習してきている。横から飛んできた膝を、腰を引くようにしてかわす。出来た隙間に、斜め上へ向けた膝を出す。
膝はチャンピオンのボディに食い込んだが、そのまま身体を寄せられ、足が下ろせなくなる。チャンピオンが押してくる。片足のまま下がる。軸足を蹴られて、縺れ合うように転倒した。チャンピオンが圧し掛かるように覆い被さってくる。
足が下りなかったことが、功を奏した。膝は、倒れる勢いとチャンピオンの体重を受ける形で、彼のボディに食い込んだ。呻き声交じりのチャンピオンの息が顔にかかった。横に転がり、素早く身体を離した。
明らかに苦しそうな表情で、チャンピオンが立ち上がる。鍛え込まれた腹筋も、さすがに今の衝撃は全てを吸収しきれないはずだ。レフェリーの「ファイト!」とともに前へ出る。チャンピオンが嫌がるように左へ回り込もうとする。
ゴングが鳴った。
練習と比べれば、遥かに運動量は少ないはずだが、息は上がり発汗がひどい。倒すか倒されるかの真剣勝負。精神的な緊張が、肉体にも負担を強いている。
身体中に水をかけられ、マッサージが始まる。火照った身体に水の冷たさが気持ち良い。
ブザーが鳴った。
マウスピースを口に押し込みながら、前へ進んだ。
ほんの短い攻防だが、チャンピオンの方が明らかにスタミナを消耗している。彼が歩いてくる姿を見て、そう思った。
ゴング。
チャンピオンがパンチも出さずに組み付いてきた。はじめから首相撲だ。互いに横からの膝を出し合う。身長も腰の高さもほぼ同じだから、あとは体力勝負だ。
離れ際にチャンピオンがフックを放つ。仰け反るようにしてかわす。直後、ボディの真中に膝を食らった。そのまま組み付かれ、蟻地獄のような首相撲へ移行する。押してくる力を利用して、右に回り込みながら、チャンピオンの首を捻る。
マットにチャンピオンが転がった。レフェリーが割って入る。
見下ろし、目が合った瞬間にニヤリと笑って見せた。チャンピオンの顔が、怒りに覆われるのがわかった。
立ち上がると、チャンピオンは直ぐに前に出てきた。首を捕らえるために両腕を前に突き出している。両腕の間を通すように、右のアッパーを放つ。顔を俯けているから、鼻のあたりに当たった。前進する勢いが鈍る。
右に回り込んで、左のミドル。返しの右ロー。さらに左膝。こちらから組み付いた。連続で左右の膝。離れ際に右の肘。チャンピオンの左の額を捕らえた。浅い。左の肘。これも浅い。
右のローから、さらに組み付こうとした瞬間、目の前を黒い影が過ぎった。肘だ。思った瞬間、骨が鳴る音がして視界が白く霞んだ。続いて、テレビの電源が切れるように、視界が暗転した。
ベルトを腰に巻いて、トロフィーを傍らにリング上で写真を撮られた。多くの人に肩を叩かれたり、声をかけられながら控え室に戻った。椅子に腰掛け、グローヴを外された。その頃になっても寝起きのような、ぼんやりとした状態が続いていた。
「おめでとう。よくやったな」
オーナーが珍しく優しい言葉をかけてくるが、ただ頷くことしかできなかった。
格闘技雑誌やスポーツ新聞の記者が入ってくる。質問が始まったが、視界が暗転する前までのことしか答えられない。それ以後のことは何も覚えていなかった。
「五ラウンド、一分四十三秒、左ハイ・キックですよ」
「そうなんですか?」
「ダウンを取られたあとから、本格的にエンジンがかかったように見えましたが?」
「すみません、本当に覚えてないんですよ」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、一言ずつ答えていく。
「これからの予定は? いよいよタイへ挑戦ですか?」
「それはありません。ベルトも返上します。今日で引退しますから」
それだけは、はっきりと言った。特に用意していた言葉ではないが、すんなりと口から出てきた。
「えっ? 引退? 本当ですか?」
「もう、オーナーにも話してあります。歳も歳ですし、仕事も忙しくなりそうなんで……」
この言葉を機に、記者たちの質問はオーナーへ集中した。席を立って、スポーツ・バッグからタオルと石鹸、シャンプーを出して、シャワー・ルームへ歩いた。足元は、ふらついてはいない。頭もすっきりしてきた。
身体中が、オイルと汗に塗れている。シャンプーを振りかけ、頭を洗う。石鹸をタオルに擦り付けて、身体も洗う。勢いよく噴出すシャワーで泡を流していると、これまで塗り重ねてきたキックボクシングの色も落ちていくような気がした。
今後、今日の試合を含めて自分の試合を振り返ることは、ないだろう。過去を振り返ることは、無意味だ。一つの事が終われば、次は次で目標がある。
チャンピオンになったことを、自分の中で誇りにすることは、ないだろう。それ以上に、自分の身体を、何度となく限界まで追い込むことが出来たことの方が、余程誇りとなる。どれだけ苦境に立とうとも、肉体と精神は後退しないだろう。
身体を拭い、服を着ると、まだ記者や関係者たちでごった返す控え室を出た。
今晩は、心ゆくまでアルコールとニコチンに浸る。明日は身体が痛かろうが二日酔いだろうが、這ってでも仕事に出る。今まで決して破ったことのない、自分に課した約束だ。
観客が去り、撤収作業が始まったホールを抜けた。もうリングは半分以上解体されている。
これまで慣れ親しんできた試合会場の廊下が、初めて訪れた場所のように、余所余所しかった。