相沢の場合
相沢浩太は、走っていた。額にうっすらと汗を浮かべ、かなり苦しそうに顔を歪めている。息も荒く、だいぶん疲労しているようだ。
それでも相沢は走るのをやめようとしない。彼は急いでいるのだ。
閑静な商店街を抜け、幅の狭い小川を飛び越え、他人の家の塀を猫のように渡る。力の限り足を振り上げながら、相沢は携帯を取り出した。そしてすぐさま誰かに電話をかける。
「……相沢だ、はあ、はあ。いや、ああ。それよりあいつは? まだ来てないよなぐふっ、がはあ」
『おい! 相沢、なにがあった!? おい』
それは突然のことだった。相沢は喋ることに夢中のあまり、道の小石につまずいてしまったのだ。よっぽど痛かったのか、なかなか起き上がろうとしない。
「俺が相沢なんて名前じゃなきゃ、こんな思いしなくてもいいのにな……」
辛そうに呻きながらそれでも必死に携帯に手をのばす相沢、携帯からは未だに声が漏れている。
『相沢! 無事か? ……安心しろ、あいつはまだだ。だが時間の問題だ、他の奴ならまだしもお前は』
そこで携帯の声は途絶えた。通りがかりの犬が相沢の携帯をおもちゃにしだしたのだ。蹴ったり叩いたりふんずけたり、それはひどいひどい仕打ちだった。相沢は信じられないといった様子で、手をのばしたまま固まっている。
そこでふと、犬が身構えて携帯に背を向けた。
「ようやく飽きたか……。はっ、まさか!」
相沢の脳裏に嫌な予想がよぎると同時に、それは現実となる。なんとその犬は相沢の携帯めがけて汚い水鉄砲をかましたのだ。相沢は声にならない悲鳴を上げ、倒れ伏した。そんな相沢の様子に、犬はかなり満足そうだ。
勝ち誇ったような顔をした犬が去り、しばらくしてから相沢はむくりと起きた。その口元には、なぜか怪しい笑みが浮かんでいる。
彼は再び立ち上がると、また全速力で走り出した。
「あははは、馬鹿な犬め。俺の携帯は完全な防水仕様。あの程度で壊れはしない!」
相沢は走りながら携帯を丁寧に拭き、また電話をかけようとする。するとそれよりも先に、彼の携帯は鳴った。すぐに留守番電話サービスの声が流れてから、相沢の耳に先ほどの電話相手の声が響いた。
『相沢、もし聞いてるならすぐに止まれ! あと十分もしないうちに、奴らがこちらに到着する。お前じゃ間に合わない』
真剣味を帯びた電話相手の声に、相沢は身を固くした。奴ら、それは相沢にとって最も会いたくない存在に違いない。電話はまだ続く。
『奴らだけじゃない、あいつもだ。あいつは時間に厳粛だからな。早くしないと、あ、おは』
留守番電話サービスは、そこで終わった。相沢は小さく舌打ちをしてから、前を見やる。目的地の巨大な建物はもうそごすくに見えている。先ほどの電話の言葉を思い出しながら、彼は最後の力を振り絞った。もげそうなくらい手足を振り、その道を駆けていく。
「今日こそ、今日こそ間に合ってみせる!!」
それからどれほどの時間が過ぎたのだろうか、相沢は走り続けていた。目的地はそこに見えているのに、相沢は歯がゆい思いをしながらも確実に近づいていた。
そして、彼の前に奴らが現れる。
「よお、兄ちゃん。遅かったな、ええ?」
口元に歪んだ笑みを零した少年を先頭に、十数人の奴らがにやにやと相沢を見据えている。そいつらは自分たちの結束を見せつけるように、黄色の帽子に黒い鞄を背負う恰好をしている。
相沢は顔をひきつらせて、奴らと対峙する。彼にはもう時間がほとんどなかった。だから奴らに構うひまもない。しかしそんなことを知らない奴らは、相沢にじりじりとにじり寄る。
「約束、果たしてくれるよな? 兄ちゃん」
相沢は迷った、約束を果たすべきか否か。彼にとって約束を果たすことはそれほど難しくないことだ。しかし相沢は奴らが好きではなかった。その約束というのも、相沢にとって得などまったくないものなのだ。
「ここ、通りたいんだろ? 今週入って、三回目なんだろ」
これほどの悪党、俺は見たことがない。相沢は内心、怒りを心頭させてから諦めて自分のバッグをひっくり返した。
そこから出てくるのは計り知れない量の原稿用紙だ。なにかの作文のようで、びっしりと文字が印字されている。奴らはそれに飛びつくようにして、跳ねまわる。
「内容はすべて違う、それなら先生に怪しまれることはねえ。だが今回きりだからな」
どうやら相沢は小学生たちの宿題をわざわざ持ってきていたらしい。しかし小学生たちはもう彼に興味がないらしく聞く耳持たない。
相沢は奴らの群れを抜けて、とうとう目的地にたどり着いた。
「ここからが時間勝負だ!」
そこはごく普通の高校だった。
「相沢、まだ来てないのお? また遅刻じゃん」
大野千佳が、江尻優斗に話しかける。江尻は大野の言葉に、小さく頷いた。
「ああ、今頃あの小学生たちに足止めされているだろうな」
江尻は自分の携帯をいじりながら、目を細める。ディスプレイには相沢の携帯番号が表示されている。
「留守電だったけど、一応残した。まあ、相沢じゃまず間に合わんな」
「だろうねー、出席番号も一番だし。なんたって相沢は……」
相沢はひたすら走っていた。校内であることもお構いなしに、息を切らせながら階段をかけのぼる。相沢にとってこの階段こそ最も長い道のりだ。走れど走れど、いつまでたっても終わりが来ない。相沢が密かに無間地獄の段差と呼ぶほどだ。
しばらく行った所で、前方に頭が見えてきた。そしてその頭を見た瞬間、相沢は確信する、あいつだ。
相沢の永遠の敵にして、勝ったことのない相手だ。相沢の足はすでに棒のようになっている。それにも関わらず、あいつは落ちないペースで階段をすいすい昇っていく。相沢には気づいてないらしい。
「これが……最後のチャンス。うおおおおお」
相沢は渾身の力で前方を行くあいつを追い越した。あいつは驚いたように目を丸くし、相沢の方を凝視していた。相沢はそれにも構わずゴール、教室へ転がるように入り込む。
「相沢、お前、無事だったのか!?」
「相沢くん、おはよー」
まるで相沢を祝福するかのように、二人の同級生が彼に話しかける。
「江尻、大野……。俺、やったよ。あいつ、市川先生に勝ったんだ。追い越したんだぜ」
相沢がそう誇らしげに胸をはると、江尻はびっくりしたように声を裏返した。
「本当か!? 分速五十メートルと言われていたお前が、成長したな」
「おめでとー、これで遅刻王の汚名返上だね」
大野はからかうような口調で、手を叩いている。ところで、と大野は相沢の足元を指さして首を傾げた。
「この学校って土足厳禁だけど、大丈夫?」
相沢浩太、彼はこの明灯高校に通う生徒だ。
「それじゃあ出席を取る、相沢! 相沢! ふん、靴をはきかえ忘れるなんて馬鹿な奴だ」
出席番号一番、異常に足の遅い男。今日も彼は遅刻扱いだ。