たった1つの失敗
山下浩介ほど、まわりから尊敬されている人間もいない。
きちんと櫛目の入った髪に精悍な顔つき、しわのないスーツ。履いた革靴はピカピカに磨かれている。背筋を伸ばし大股で歩く姿は力強さにあふれ、鋭い眼差しからは自信と知性が感じられた。
完璧な大人の男というのは、彼のことだ。
山下は部屋のドアをガチャリと開け、言い放った。
「どうしたんですか、こんな所に呼び出して」
よく通る声だ。
答えたのは、対照的なしゃがれ声。
「すみませんねえ、こんな時間に」
背の低い初老の男。カーキ色の薄汚れたジャケットを羽織っている。小さい目に曲がった鼻、貧相な顔に汚らしい無精ヒゲが生えていた。
まさか、このみすぼらしい男が警視庁の敏腕刑事として有名な、あの久我山警部だとは。
いまでも山下には信じられなかった。
「時間のことは構いません。ですがこの部屋は……」
「なにか問題でも?」
「友人が殺された部屋で、快適に過ごせる人間はいませんよ」
山下は目を伏せた。
彼の足下のカーペットには、黒い染みが広がっている。この部屋で襲われ、血まみれで発見された谷口氏の血痕だ。
「いったいどんな理由があって、この部屋に僕を呼び出したんですか」
「実は、谷口氏の事件について新しい事実が判明しまして。それでお呼びしたんですよ」
「新しい事実……」
山下は思いをはせるように目を閉じると、懐から1枚の写真を取り出した。隣合って仲良さげに笑う、山下と谷口の姿が映っている。
「谷口は私の親友でした。なぜ殺されなければいけなかったのか、誰が彼を殺したのか、何か新しい情報があるのでしたら、是非とも知りたいものです」
潤んだ目で、声を震わせる。
警部はそんな彼を無表情で見つめていた。
「実は」
警部が言う。
「犯人がわかったんですよ」
「犯人が!」
山下は素っ頓狂な声を上げた。
「いったい誰です」
「あなたです」
山下は絶句し、警部はそれ以上言おうとしなかった。
沈黙。
それは、どれほどの長さだったのか。
やがて山下が口を開いた。
「何を言うのですか。殺人事件のあった日、私にはアリバイがあります」
「そうですね、完璧なアリバイです」
「そして殺人の現場であるこの部屋は密室でした」
「まさしくその通り」
「凶器も発見されていない」
「未だに見つけられていません」
山下はあきれかえって頭を振り、それから声を荒げた。
「じゃあ、なんの根拠があって私が犯人だなんて言うんです? 私は、殺された谷口の親友なんですよ!」
激昂して、自分と谷口が仲良く写っている写真を警部の目の前に突きつける。いまにも殴りかかりそうな勢いだ。
そのとき。
ガチャリ。
山下の背後のドアが開いた。
入ってきたのは、頭に包帯を巻いた男。
谷口だった。
山下は驚いた。
息をひきつらせて、発作を起こしたように震え、尻餅をついてひっくり返った。そこはちょうど、彼が後ろから殴ったときに谷口が倒れた、まさにその場所だった。
警部は言った。
「山下さん。あなたのトリックは完璧でした。密室も、アリバイも、その他も全て。
ただ、ひとつだけ、ミスをしました。
あなたは谷口さんを殺せていなかったんですよ」