初秋の夜
顔を上に向けると空一面に星がきらめいていた。東京の明るい夜に見る、ビルとビルの合間の狭い闇とは全く違う世界だ。僕は思わずため息を漏らす。土の香りを微かに帯びた風も、その風に乗って聞こえる虫の鳴き声も、そしてこの空も、コンクリートに囲まれて生活する日常では決して体験できない。この週末が終わってしまえばこの空にはもう当分会えない、そう思うと名残惜しくなり目を離すことができなくなる。
「すごい星ですね」
突然かけられた声に慌てて視線を戻すと、そばで女性が空を見つめている。確か夕食の際に相席した女性だ。彼女もまた、僕と同じ一人旅だと言っていた。
「でもあと一時間もすれば月が出て、多くの星がその光の裏に隠されてしまうんです」
ハンカチを敷いてから、彼女はゆっくりと僕の隣に腰を落とした。その姿はどこか儚げで、見つめていると思わず心が引き込まれそうになる。逃げるようにして視線を空へと戻した。残暑が残る夜の静寂が、僕の体にまとわりついてくる。沈黙に耐えきれず、苦し紛れに尋ねた。
「月は嫌いですか?」
「そんなことはないですけど……」
少し言いよどんだ後、彼女は続けた。
「月って夜空の王様じゃないですか。星たちは庶民で、王様がいない間は思うままに輝けるけど、ひとたび王様が空に昇ればその強さに虐げられる。星たちの世界も人間と同じ、弱肉強食なんですね。そう思うと、庶民の私なんかは星たちに肩入れしちゃうんです。もちろん、月も好きですけどね」
彼女は微笑んだ。今にも消えてしまいそうな彼女の顔に浮かぶ微笑に、またしても引き込まれそうになる。このまま見つめていたい衝動に駆られたが、なんとか踏みとどまった。一度引き込まれてしまえば後に引くことはできないだろう。しかし、旅先で出会ったほとんど初対面の女性との仲が発展するなど非現実的だし、なにより僕にそんな勇気はない。慌てて顔を前に戻しながら、自分の気持ちを隠すために話を続ける。
「そういえば、来週は中秋の名月ですね。ほら、お月見の……」
一瞬呆けた彼女の顔を見て、そう付け足した。どうやらそれで通じたようだ。
「もう、そんな時期ですか。残暑続きで秋を感じるのは難しいですけど、すぐそこまで迫って来てるんですね。ついこの間夏が来たばかりなのに、早いなぁ」
彼女は音もなく立ち上がり軽く伸びをした。服についた雑草を手で払い近くの木に寄りかかると、彼女は顔を上げた。ここではないどこかを、現在ではないいつかをその瞳は見据えていた。僕はその瞳から目を背けることができなかった。現在に居ながら現在を生きていない彼女の姿は、僕を惹きつけて離さなかった。
「夏が始まったと思ったら秋が来て、すぐに冬が来るんですよね。そして気が付いたら、また夏が始まる。あっという間ですよ。人生なんかもきっと、こんな風にすぐに終わっちゃうんじゃないかしら。去年の夏も、今年の夏も、さして変わらなかった。そして、たぶん来年も」
月が出て、星たちが気兼ねなくきらめくことができなくなるまであと半時間。それをしってか知らずか、僕がここに来た時よりもさらに明るく美しく、星たちは光を放っている。
気がつくと彼女は歩きだしていた。消えることなく、しっかりと地面を踏み締めて。残された僕には彼女の残り香と、座るときに敷いていた白いハンカチだけが残された。それを拾い、僕も彼女の背に向かって足を踏み出した。
最後まで私の稚拙な文章に付き合ってくださってありがとうございました。
今作が私にとって初となる小説でしたので、お見苦しい点も多くあったと思います。
お気づきの点がありましたら、感想やコメントをお寄せくださると嬉しいです。