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1話を分割することにしました。内容は変わっていません。
車の中から見える中央区の景色は、いつも以上の賑わいを見せていました。そこかしこで花祭りの準備が行われているからでしょう。今年も盛大な祭りになりそうで楽しみです。
花祭りというのは、100年以上の歴史を持つ伝統的な祭りのことです。花と呼ばれる44の御輿が川に沿った花道と呼ばれるルートを走り回るのです。
そして、最終的に順番に川へ流します。これは花送りと言います。流した神輿はそのままではなく海で回収しますよ。きちんと。
ゴミは出しては駄目なのです。というのは建前で、実際は神輿が複雑すぎて毎年作るのが面倒なだけと町内会の人が言っていました。子供ながら夢を壊された気分でした。
また、花だけでなく、出店やらも多く出るのでなかなかに盛況な祭りです。りんご飴とか、綿あめとか。一般的な出店は来るでしょう。
あとは、よく祭りのゲストに有名人が来たりもします。これは区長の票稼ぎと専らの噂ですけど、一般人としては有名人に会えるので、関係ありません。
すっかり区長の術中に嵌ってしまっています。そういう私もしっかりと区長の術中に嵌っていますけど。
今回のゲストは名取さんなので、すっきりと解決して、明日に備えてもらいたいものです。
だというのに、
「うぐあ、酔った。うぷ、はぎぞうだ」
黒崎さんという人は……この調子です。
車が発進した途端にこれ。運転手の方はしっかりと制限速度を遵守して、安全運転しているのに乗り物酔いでぐったりしている。いくらなんでも乗り物に弱すぎではないでしょうか。
「って!? それなのに何、お酒飲もうとしてるんですか!!」
「違う、薬だ」
「お酒です」
「くっ、吐く」
「何、私のスカートに吐こうとしてるんですか!? うわわっ、やめっ!?」
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「はあ……」
まだ何もしていないのにもう疲労困憊です。結局、乗り物が駄目な黒崎さんのせいで、私たちは歩くことになってしまいました。
最悪なのは着替える羽目になったことです。そこの服やで買った服を着る羽目になりました。汚れた服は即座にクリーニング。これ、経費で落ちるんですかね。……ですよね……落ちませんよね。
はあ、気分は最悪です。憂鬱です。心の中はアマゾンで雨季です。雨が降ってます。ざーざーです。泣きそうです。
「何を溜め息なんぞついてる。幸福が逃げるぞ」
そう言うのは黒崎さん。我関せずな感じで紫煙をふかしている。この人は、ほんとにもう……。終いには泣くぞ。女の涙ほど最強の兵器はないんですよ。道行く人すべてが私の味方になるんですよ。
「誰のせいですか、誰の! ……はあ、ともかく、行きますよ。名取さんが所属するプロダクションは、そう遠くないですから」
「あぁ」
ああ、何て気の抜けた声。一片のやる気も感じられません。本当に大丈夫でしょうか。
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・
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結論から言ってしまえば大丈夫ではありませんでした。どうやら私はまだ黒崎さんを侮っていたようです。まさか、ここまで駄目人間だとは、流石の私も予想していませんでした。
「ぜー、はあああー、ぜえ、ぜ、がっ、がはっ……」
「…………」
歩き出して一分後、そこにはありえないほど汗をかき、ありえないほど息切れをして地面に無様に這いつくばる黒崎さんと、それを冷たい目で見下ろす私がいました。
この一分間、特に何か特別なことをしたわけではありません。ただ、普通の速度で、普通に歩いてただけです。それなのに黒崎さんはこの有様。
前々から体力がないとは聞いていましたが、これは体力がないで済ませられるレベルをはるかに超えてしまっています。もはや、虚弱、いえ、それでは虚弱な人に失礼でした。
ともかく、黒崎さんの体力のなさが露呈してしまったというわけです。これは、十中八九お酒と煙草が原因でしょう。日頃の運動不足とかも関与してそうですね。出歩きませんから。
「黒崎さん、煙草とお酒控えましょうか」
このままではこの人の一生にかかわります。いえ、もう手遅れかもしれませんけど、それでも手を差し伸べるくらいはすべきでしょう。私は善良なのです。
黒崎さんも三十路一歩手前、もう若くないのですから、自分をいたわらないといけません。
なーんて、そう言って、私が助手をしている間に少しでも稼いで給料を上げてもらいたいだけなんですけど。
そのためにはこの体力のなさをなんとかしないと。あとは仕事に対する熱意を持ってもらいたいものです。
そんな、打算と優しさが混じった私の言葉を黒崎さんはまったく聞きませんでした。
「無理だ」
「なんで、そこだけキリッと言うんですか」
「酒と煙草が切れると体がねじ曲がって痙攣するぞ。それでも良いのか?」
「なにそれ怖い……」
どうやら真正のアル中、ニコ中だったようです。あ、一応略さずに言っておくと、アルコール中毒、ニコチン中毒のことです。もっとわかりやすくいうとお酒と煙草がやめられない駄目人間のことです。
最低以外の何者でもないですね。世の中その手の人間はたくさんいますけど、ここまで酷いのは稀でしょう。黒崎さんくらいのものではないでしょうか。
しかし、ここでそう納得してしまうと、名取さんの所属事務所にはいつまで経ってもたどり着けません。あと、時間にして5分か10分ほどの距離を歩けば到着なのです。
ですが、私にとってはその大したことのない距離も、黒崎さんにとっては遥か聳え立つエベレストを登頂するのと同じくらいに感じられるみたいです。
正直、見捨てていきたい。でも、ここで見捨てたらわざわざ連れて来た意味がありません。真面目に仕事をするかはおいておいても。
いえいえ、違いましたせいぜい馬車馬の如く働いてもらわなくてはいけません。目指せDD、です。
「あ、あの黒崎さん? 交通の邪魔ですから、頑張って歩きましょう、ね?」
優しく言い聞かせるように話しかけます。
「断る」
煙草の煙を吐き出す黒崎さん。
無様に這いつくばっているのに、何なんでしょうかこの人は、まったく。
「はあ」
ああ、この頃すっかり溜め息が癖になってしまいました。溜め息をつくと幸福が逃げるそうです。私の幸福はいったいあとどのくらいなんでしょうか。きっと残り少ないんでしょうね。はあ。
「ともかく、い・き・ま・す・よ」
「チッ」
黒崎さんは舌打ちすると、ゆっくりと立ち上がる。舌打ちしたいのはこっちです。しかも、足が生まれたての小鹿みたいに震えてます。歩けるとは思えません。
そして、誠に遺憾ながら、私の予想は当たってしまいました。当たらなくてもいいのにこういう悪いことだけはよく当たるのです。
一歩。ただ足を前に出すという、子供でもできるような簡単な行動をしただけで、黒崎さんはまた地面に這いつくばってしまいました。一歩、されど一歩というべきなのでしょうか。
いえ、絶対、黒崎さんがひ弱なだけでしょう。一歩にそれほど意味はないはずです。確かに意味のある一歩もあるでしょう。
しかし、今、この場での一歩はそれには絶対に該当しないでしょう。いえ、させません。
はあ、仕方ありませんね。これはもう、持って行くしかないみたいです。
……気が進みません。女としての尊厳に関わる、というか、私、という人間の人間性に関わるというか、何というか。ともかく、非常にやりたくありません。
ですが、現実は非常で、社会に出ると気が進まなことでもやらないといけません。それは社会で生きる者の義務です。得てして、社会人というのは、我慢するものなのです。
などと、まだまだ学生でしかない私は、社会という荒波の一端を知ってしまったわけです。いえ、働く以上それは仕方のないことなのでしょう。
ならば、社会の荒波にもまれている先人たちに習い、私も我慢することにします。
私は黒崎さんを転がすと、黒崎さんの背面から腕を回し、胴体を支えると共に、ヒザの下に腕を差し入れて足を支えて持ち上げます。
所謂、お姫様抱っこという奴です。何だか、運ぶ人と運ばれる人が逆な気がしますが、逆にしたらしたで、私は地面に激突でしょう。
一応言っておくと、私が重いというわけではなく、黒崎さんの力がないからです。
ああ、煙草臭い、酒臭い、汚物臭い。なんですか、この三拍子そろった感じは。最悪以外の何ものでもありません。
ええ、改善を要求します。絶対絶対要求します。改善されなければ辞めてやります。
でも、やめられないんでしょうね。黒崎探偵事務所以外に雇ってくれる場所なんて、ほとんどありません。不景気な時代ですから。
それに給料が高いところもないでしょう。中央区に近づかないといけないでしょう。
そう考えると、私はどう考えてもこの助手のバイトを止めることはできないようです。ああ、どうしてこんなことになってしまったのでしょう。
身から出た錆? 自業自得? そうではないはずです。……そうではないと、思いたいです。
ともかく、私は突き刺さる通行人たちの奇異の視線に身を突き刺されながら、黒崎さんを名取さんの所属事務所まで運びました。
視線の槍が見えるならば、きっと私の全身にくまなく刺さっていることことでしょう。心にも刺さっていると思います。大参事です、大けがです。賠償を請求したいくらいです。
ああ、もう、ゴールしても良いですよね。あ……駄目ですか。そうですか。はい、ごめんさい……。
で、運ばれている当人の黒崎さんは、何も思わなかったみたいです。
まあ、これで何か思うような精神をしているのなら、私に運ばれるようなことはないでしょうし、道端で平気で醜態をさらすようなこともないでしょう。
そうなってくれれば万々歳なのですが、そんなことができるなら、世界はきっと真面目な人で溢れ返っているでしょう。不真面目な人を真面目にできるのですから、不真面目な人はいなくなります。
そんな機械、ないですか? あ、ないですよね。わかってました。
「はあ……」
溜め息、また幸福が逃げていきます。待ってください。私の幸福さん。え、待ちません? はい、お引止めしてすみませんでした……。
なんにせよ、私の安息の日々は遠いようです。とほほ……。