ラムダの日々
ある朝の事。
どんな昨日を過ごしていても今日はやって来る。
ぐずぐずしていたら乗り遅れて、明日に追い越されてしまうだろう。
(2010/11/11)
同じつくりのからだを持つ。葉脈のように複雑に巡る思惑に、神経が逆撫でされて心がささくれる。
「なによもう。いつまでも思春期みたいな事言ってないで、ちゃんと一人で起きてよね」
彼女はなにひとつ分かっていない。このよのなかの事を。この命の事を。
同じつくりのからだを持つ。そこに生きる意思を、そこに息づく思いを、果たして本物であると断言できるか。
まどわされず、流されず、どうして真っ直ぐに生きられない。
「ねえ。またご飯食べてないんでしょう。チャーハン作ってあげるから。ちょっと待ってて」
その手は宇宙をつくりだす。なんて傲慢で無謀で、尊大な両手だ。なのに、同時に尊い。
すべてのものが多面でなく複雑でなく、一つの真理しか持ちえないものならまだ簡単だった。
彼女はその指先でたやすく瑞々しい命をむさぼっていくのだ。臆面もなく屈託もなく。そして何の疑いもなく、朝から味の濃すぎるやきめしを作るのだ。
「文句あるなら食べなくて良いのよ。ていうか、どうしてまだ着替えてないの」
どうして。その疑問符は昔から智恵のある者の特権だという。人は考える芦だと誰かが言ったが、それは果たしてほんとうの事だろうか。考えるという行為を考えてみると、人はたいして考えていないという事実に驚かされる。いいや、それは確かな言い回しではない。たいして考えていない人が大半で、多数派で、それで世界はのびのびと回っている。
つくりだす事に関しては別だ。人はその才能において天才である。
曲がり角を曲がれば問題にぶつかる。人生とはそういうものだと誰かが言った。
「ほら。これなら着れるでしょ。もう。洗濯ぐらいちゃんとしてって言ってるのに」
同じつくりのからだを持つ。性差はさほど問題ではない。しかしここぞという時に、決定的な打撃を与える。それが性というものだ。
人から煩悩を取り去れば即身成仏になれると言うが、そこに果たしてほんとうの幸福があるのだろうか。何をもって何を為すのか。誰に頼り誰に救われ、誰を癒すのか。
ゆるやかな曲線を描く高速道路に、猛スピードで突っ込んで曲がり切れずに大破する。それと同等の無知を武器にして、生き続けている。
呼吸をする。一息ごとに世界の淀みを内側に引き込んで、やっと安心出来る。小さな宇宙はいつだって繋がりを求めている。意識的に、無意識的に。
希望というものはほんとうに輝いているのか。それは時にはミラーボールのように不躾で、夕日のようにじんわりと、先を照らすものなのか。燦々と輝く太陽は空にあるがそれは胸の内にもあるものだ。
「ね。おいしい?」
「うまい」
「そ。良かった」
ミリ単位の修正を、躍起になって施している。はじめからつくり直さねばならない事を知りながら、その艱難さに目をつぶってしまう故だ。歩んできた足跡は誰にも消せない。徒労に過ぎない毎日だと切って捨てる。それだけの価値だ。細切れの椎茸は、人の存在と重なるところがある。
彼女はなにひとつ分かっていない。可能性という言葉を信じ、真っ直ぐにそれに手を伸ばす。その大胆さは時に勇気と呼ぶのだろう。
「ええっ。結構細かく刻んで入れたのにっ。やめてよ。それだけ残さないで」
押しつけがましく苦々しく自分はここだと主張する。やさしさは半分が押し売りで出来ている。
しかし残念ながら、それが正しいやさしさだ。だからこそ簡単で難しい。