至宝の筋肉を求めて世界を旅した令嬢は、絵描きの王子様を囲って幸せになります
私の両親は契約結婚である。当然、恋も愛も、理解できる家庭ではなかった。
ただ、冷たい家庭ではなかった。
母は恋も愛もよくわからないが、今の生活は心地よく満足という人で、父は恋も愛も恐ろしいものであるときっぱりと言い切り、だから、引きこもりが許される今の生活は幸せなのだという。
そんな夫婦に、何があったら私たち三兄妹が生まれるのかは謎である。
「お兄様、なんで私たちは生まれたのかな? わかる?」
長男のセシル兄様に尋ねれば、肩をすくめた。
「オリビア、きっと何か二人の納得できる理由があったんだよ。そうじゃないと、子どもを作ろうなんてきっと父上と母上は思わない」
「そこは悩んでも仕方がない。二人の頭の中には愛と恋の定義がないんだから」
次男のレオン兄様も特に気にした様子もなく、ケロリという。
「お金があれば大抵のことはできるし、心地よく満足できる人生が得られる。これだけは間違いない。ただ、オリビアの方が僕たちに比べて自由だよ。貴族の付き合いは考えなくていいんだから」
「はは、兄上は大変だよな。僕も次男でよかったよ。貴族の義務なんてぞっとする」
「……そう笑っているけどな。お前は僕の補佐にする予定だから。それなりにやってもらうつもりだよ」
「ええ! そりゃないよ」
兄たちは徐々に将来の話に移っていく。セシル兄様は私の四歳、レオン兄様は三歳年上だ。二人ともそれなりに将来を考えているのだろう。私はセシル兄様の頬に両手を当てると、グイっと自分の方へと向けて目を合わせた。
「セシル兄様、私、筋肉が好きなの」
「……知っている。それって、間違いなくお祖母様の影響だよね」
セシル兄様は優しい笑みを浮かべて頷く。
「それでね、理想の筋肉を手に入れるために、いろいろなところに旅をしたいの。世界を回っていけば理想には出会えるはずだから。それで、どうしたらいいと思う?」
母方のお祖母様がいつも言っていた。貴族夫人としての義務がなければ世界を探せたのにと。だから私は世界を回るつもりでいる。
「お祖母様の影響力、すごすぎ。国外にまず行くという発想は普通の令嬢はしないんだよ」
「黙って」
からかうレオン兄様を睨みつけた。彼は笑って口を閉ざす。
「そうだな……まずは語学かな。旅をするなら」
セシル兄様は真面目な顔をして、どうすればいいかを教えてくれる。
「語学……? 共通語だけでは駄目なの?」
幸いなことに、この国の母国語は共通語だ。大抵の場所で通用する。
「駄目じゃない。でも、言葉が限られると、新しい発見も限られてしまうと思うぞ。文化が違うと筋肉の発達も異なるはずだ」
レオン兄様の言葉に目を見張った。
「文化が違うと筋肉が違う……」
「少なくとも五カ国語、使えるようになっていれば、大陸のどこでも行けるよ」
セシル兄様が具体的な数を告げてきた。五カ国語と聞いて、目の前が暗くなった。
「五カ国語も? 成人まであと四年でマスターできるかしら?」
私は今、十二歳。四年のうちに効率よく語学を身に着けようと計画を立て始めた。
旅に出てから、三カ月が経った。十六歳の誕生日を迎えたらすぐに飛び出すつもりだったが、半年ほど遅れてしまった。だが、おおむね計画通りだ。
王都を出る前にお母様から言われたことがある。
「旅行はお金がかかるから、旅行先でお金が増える仕組みを作ってしまいなさいね」
お母様は本当に合理的な人だ。私も同意見だった。だから私は、各地の投資先を探しながら旅をしている。
もちろん、それだけが目的ではない。この国にはまだ私の知らない鍛錬法がある。地域によって食文化も違えば、身体の作り方も違う。騎士団の訓練方法などは特に興味深い。
そして、当然のことながら――筋肉も違う。
レオン兄様の言葉は事実だった。
「素晴らしいわ……」
目の前を通り過ぎていく騎士を見送りながら、思わず呟いた。瞬きするのももったいないほどの筋肉だ。多少の目の乾燥など気にせず、瞼にその筋肉を写し取る。
肩幅が広い。背中の厚みも申し分ない。腕も太いのに、動きには無駄がない。
あれほど鍛えているのに、歩き方が軽やかなのもいい。
目をがん開きしてつぶさに観察していると、隣にいた侍女が呆れた顔をした。
「お嬢様、またですか。今日、これで三人目ですよ」
「仕方ないでしょう。あれは見事な筋肉だもの。見るなという方が無理よ」
少しも筋肉から目を放すことなく、熱いため息をついた。この国は本当にいい国だ。筋肉がすべてを語っている。
「……投資先を探していたのでは?」
「もちろん抜かりなく探しているわ。お金は必要だもの」
「今のところ、騎士しか見ていませんが」
「人材も立派な資産よ。ああ、見えなくなってしまったわ。残念」
筋肉が見えなくなった瞬間、すっと表情を切り替えた。侍女は納得したわけではないようだったが、それ以降、筋肉の観察については何も言わなくなった。
「じゃあ、行きましょうか。きっといい筋肉の国ですもの、いい物があるはず」
母から教えられた資産運用の基本は、将来性を見極めること。今どれほど価値があるかではなく、これから価値が上がるものを見つける。
「次の町では、織物工房を見てみましょう。ついでに、騎士団の訓練場にも行きたいわ。あと、評判のいい肉屋も見たいわね。いい筋肉には良質な肉が必要よ。安定して仕入れるためにも、牧場への投資も考えなくてはいけないわ」
侍女がちらりとこちらを見る。
「お嬢様は結局、何を探して旅をしているんですか?」
私は驚いて目を瞬いた。何を、と言われると沢山ある。例えば、投資先、美味しい食事、優れた筋肉、まだ見ぬ新しい鍛錬法――まだ私の知らない面白いもの。
「そうね。私が幸せになれるものを探しているのよ」
馬車の窓から外を見る。世界は思っていたよりずっと広い。お母様も、世界は広いのだから一人ぐらい私が幸せに思える相手がいるはずと言っていた。
そう答えると、侍女は少しだけ笑った。
「ご両親とよく似ておりますね」
「ええ。私もそう思うわ」
だって私は、探すための時間も、お金も、自分で用意できるのだから。
他国に行くときは大いにお父様の実家の名前を使ったし、何なら、行き遅れだけど子爵令嬢の身分も使っている。それだけで、すんなりと騎士団の見学が許されたりする。身分万歳だ。
時折、筋肉愛好の師匠である祖母にどれだけ素晴らしい逸材がいたのかを報告しながら、商売上手な祖母の伝手も使い倒す。
旅を始めて三年ぐらい、そんな毎日を過ごしていた。
気ままに行く国を決めていたが、この国は違う。お父様の方のお祖父様にお願いされてこの国を訪れた。どうやら、外交的な関係から王宮で催された夜会に参加する必要があったようだ。祖父の名代として、挨拶をして、当たり障りのない話をして。
十分挨拶も終えた頃、そろそろ帰ってもいいだろうと会場を離れた。
そこで、ひとりの男性と出会った。ひょろりとした男にしては華奢な体の男だった。画帳を持っていることから、貴族の誰かが雇った画家だろう。普段だったら絶対に素通りする。
でもその横を通る時に見えてしまったのだ。そこに写し取られていたのは、騎士だった。躍動感にあふれる動きで、服を着ているにもかかわらずその筋肉のしなやかさまでが見えてしまいそうなほどの。
彼は足を止めた私など気にすることなく、目を輝かせ夢中になって絵を描いている。この人は、本当に絵を描くことが好きなのだ。
そのことが、なぜだか少しだけ気になった。そして、何かを考える前に声をかけていた。
「それ、私に売ってくださる?」
「え?」
彼は驚いたように顔を上げた。恐ろしいほど整った顔立ちをした男だった。研究馬鹿のお父様にも負けていない。
(やだ、顔もいいじゃない。筋肉は残念だけど)
「君、僕の絵が欲しいの?」
「ええ。とても素晴らしいわ」
「本当に? 嬉しいなぁ」
ふわりと笑った笑顔は天使だ。これはさぞかしマダムに気に入られているだろう。
「でも、もっと大きなキャンバスで描いてもらいたいですわね」
「そう思う? でも、それはお金がかかるからダメだって言われているんだ」
しょんぼりした顔になったのを見て、目を瞬いた。
「お金が? パトロンはいらっしゃらないの?」
「いないよ。今は家族に許可をもらった範囲で描いているんだ」
なるほど。じっと顔を見つめた。
ふんわりした顔立ちはとても苦労しているようには見えない。きっと、絵を気ままに書いていられるのだから、貴族家の三男ぐらいだろう。長男次男は基本的には家に縛られる。
「もしよかったら、私がパトロンになりましょうか?」
「え、本当に!?」
「ええ。あなたの絵は素晴らしいわ。特に筋肉――人物の躍動感が」
ストレートに筋肉と言いそうになって言い直した。にこりと笑って、人のよさそうな顔を見せる。彼はパッと目を輝かせた。前のめり気味に迫られた。
「本当に? 好きに絵を描ける環境を用意してくれるの?」
(すぐに話に飛びついてしまうなんて、大丈夫かしら。詐欺にあいそうなんだけど)
思わずその容姿と純粋な反応に心配になる。だが、私もここで逃がすつもりはない。
「もちろん。契約書も作りましょう」
「じゃあ、君の方の条件も契約書にして」
すり合わせをしようとしたとき、バタバタとしたけたたましい足音が聞こえてきた。関係ないだろうと思ったのだが、すぐそばでその音が止まる。
いいところなのに、と不愉快げにそちらを見れば、そこにいたのは息を切らしたこの国の第二王子だった。
「ルイ! こんなところにいたのか。探したぞ。お前の婚約者候補との顔合わせがあると言っておいたのに」
驚きつつも、私はドレスを摘まみ、膝を折った。王子は足を止めると、目を丸くしてルイと呼ばれた画家と私を交互に見る。
「……このご令嬢は?」
「僕の絵を買いたいんだって。それにパトロンになってくれるって」
ルイは嬉しそうに笑う。
「パトロン? そうなのか?」
訳が分かっていないようで、不思議そうな顔をする。私はにこりと微笑んだ。
「はい、とても絵が素晴らしくて」
特に筋肉が。
「絵が? ご令嬢、名前を聞いてもいいかい?」
「オリビア・ハミルトンでございます」
「ハミルトン? ということは、公爵家の?」
「公爵は祖父ですわ。私はハミルトン子爵の娘でございます」
なるほど、と頷かれて、じっと観察するように私を見つめる。
「失礼だが婚約者は?」
「残念ながら、おりません」
「ルイと結婚するつもりはあるだろうか?」
驚きの提案だった。胡散臭くて遠ざけられるものだと思っていたのに、まさかの結婚。私よりも先に思考が飛んでいる。
「結婚ですか?」
「そうだ。ルイは絵しか描かない。社交は壊滅的なんだが、王族である以上、いつまでも独身というわけにもいかない」
ああ、なんとなく話が見えてきた。今日の夜会で婚約者になってくれそうな令嬢と引き合わせたかったのに、ルイは絵に夢中で忘れていた。そして私と出会ってしまったということだ。
「兄上、僕は結婚しなくてもパトロンになってくれるならいいんだけど」
「そうはいかないだろうが」
ルイの言葉を渋面で第二王子は聞いている。
「私はこの国に定住することは難しいのですが」
「それは君の祖国で暮らすということか?」
「いえ、私は旅をして暮らしているのです。ですから、一か所にとどまることが難しくて」
素直に答えれば、王子二人が顔を見合わせた。
「えっと。オリビア嬢、君はどうして旅をしているの?」
「私は投資家ですから、自分の足でいい投資先を見つけているのです」
二人の顔がぽかんとした。似ていないのに、よく似た兄弟だ。
「そうなんだ。僕も旅したいな。いろいろなものが描きたい」
「あら、そうですか? では、私の夫になります? もちろんお金に不自由はさせませんわ」
もし夫になってくれるのなら、全力で資産を増やすつもり。そして、条件のすり合わせをした結果、ルイは私の夫となった。
それからどれぐらいの国を回っただろう。
貴族令嬢の適齢期と言われた年齢を数年越えていた。私は理想の筋肉を探す旅をしている。
「オリビア! ちょうどよかった、今、描きあがったところだよ」
とある国の宿の庭園を散歩していると、夫のルイが声をかけてきた。
「もうできあがったの? 早かったわね」
足を止め、にこにこと可愛らしい笑みを浮かべて走り寄ってくる彼を待った。
「君がすごくうっとりとした目をするから! 早く仕上げてあげようと思ってね」
ひょろりと背の高いルイとは契約結婚だ。
彼の条件は、好きなだけ絵を描くこと。社交もしないし、お金も稼がない。その代わり、アトリエと画帳と絵具は欲しい。
まあ、要するに金食い虫である。けれど、それでいい。お金なら私が潤沢に用意できる。
「まあ、嬉しいわ。見せてもらえる?」
「もちろんだとも! それで、約束は守ってもらえるのかな?」
「ふふ、もちろんよ。私の肖像画を描きたいんだったわね?」
頷けば、ぱっとルイは顔を輝かせた。
ああ、可愛い。
なんでこの夫はこんなにも可愛いんだろう。体つきはもやしのように細く、繊細な顔立ちをしている。いつ見ても、どれだけ見ていても飽きることはない。
そう、ルイは顔がいいのだ。正直言えば、タイプのど真ん中である。筋肉がなくても許せるレベルで。
私は祖母の血が強いと思っていたけど、存外、母の血も強かった。そのことが少しおかしかった。
ルイと結婚して、五年。相変わらずルイは夢中になって絵を描く。私は次から次へと出来上がる筋肉の絵を見つめ、毎日が充実している。
筋肉は素晴らしい。
見ているだけで気持ちが高揚してくる。鍛え抜かれた肩も、逞しい胸板も、引き締まった腕も、どれも至宝と呼ぶにふさわしい。
けれど、キャンバスに向かって筆を走らせる、彼の腕の筋肉は、どの騎士のものよりも美しい。
――それは、私だけの秘密だ。
それが恋なのか、愛なのか。世の中の人がどう定義するのかは、私にはわからない。
ただ、彼と過ごす時間は心地よくて、幸せだ。旅に出る時もいつも一緒にいてくれる。
だからきっと、この幸せこそ、私にとっての至宝に違いない。
それだけは間違いない。
Fin.




