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もういいよ

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/03

 命日の朝、娘が言った。


「昨日ね、押し入れの人が、もういいかいって聞いてきたよ」


 高瀬美緒は、食卓へ置こうとしていた皿を落とした。

 陶器が床へ当たり、2つに割れた。


「お母さん?」


 6歳のひなが椅子から降りようとする。


「動かないで」


 思ったより強い声が出た。

 ひなは片足を床へ下ろしたまま、目を丸くした。


「破片があるから。そこにいて」

「うん」


 美緒はしゃがみ込み、割れた皿を拾った。

 指先が震えていた。

 白い皿には、昨夜切っておいた林檎を載せるつもりだった。


 ひなは食卓の向こうから、美緒を見ている。


「押し入れの人って、誰?」

「分かんない」

「男の人?」

「うん」

「どこの押し入れ?」

「私の部屋」


 美緒の手が止まった。


「昨日の夜?」

「うん。寝る前」

「何時頃?」

「分かんない」

「顔は見た?」

「見てないよ。押し入れ、閉まってたもん」


 ひなは不思議そうに首を傾げた。


「中から聞こえたの」


 美緒は割れた皿を新聞紙へ包んだ。


 何度折っても、皿の尖った部分が紙を突き破りそうになる。


「ひな」

「なあに?」

「今夜、もしまた声が聞こえても、返事をしちゃだめよ」

「どうして?」

「だめだから」

「でも、もういいよって言わないと、鬼が探しに来られないよ」

「言わなくていいの」


 また声が強くなった。

 ひなの口元が少し下がった。


「怒ってる?」

「怒ってない」

「じゃあ、どうして怖い顔してるの?」


 美緒は答えられなかった。


 夫の圭吾が洗面所から出てきた。


「どうした?」

「お皿割っちゃった」

「怪我は?」

「ない」


 圭吾は新聞紙に包まれた皿と、美緒の顔を交互に見た。


「本当に?」

「大丈夫」

「お母さんね、押し入れの人が怖いんだって」


 ひなが言った。

 圭吾が眉を寄せる。


「押し入れの人?」

「昨日、もういいかいって言ったの」

「夢じゃないか?」

「夢じゃないよ」

「怖かった?」

「別に。かくれんぼかなって思った」


 圭吾は笑った。


「じゃあ、今日は押し入れを開けたまま寝るか」


「だめ」

 美緒は即座に言った。


 圭吾の笑みが消えた。


「閉めておいて。絶対に」

「美緒?」

「閉めて、前に椅子を置いておく」

「そこまでしなくても」

「お願い」


 圭吾はしばらく美緒を見ていた。


「分かった」


 それ以上は聞かなかった。



 ひなを学校へ送り出し、圭吾が仕事へ行ったあと、美緒は娘の部屋へ入った。


 押し入れは閉まっている。


 昨夜、寝かしつけを終えたときにも閉まっていた。


 美緒は取っ手へ手をかけた。


 開ける。


 上段には布団。

 下段には衣装ケースと、使わなくなった玩具の箱。

 人が入れる隙間はない。

 それでも、美緒は布団を引き出した。

 衣装ケースを開けた。

 玩具箱の中身を床へ広げた。


 何もなかった。


 押し入れの奥の板へ手を当てる。


 冷たい。


 その向こうに、誰かがいるような気がした。


 美緒は手を離した。



 今年で11年になる。


 最初に声を聞いたのは、朔が死んだ翌年だった。


 命日の夜。

 職場から帰る途中、踏切の向こうから聞こえた。


「もういいかい」


 電車が通り過ぎる音に紛れ、若い男の声がした。

 聞き間違いだと思った。


 その次の年は、アパートの階段。

 さらに翌年は、玄関の外。


 やがて浴室の排水口や天井裏から聞こえるようになった。


 少しずつ近づいてきた。


 圭吾と結婚した年には、寝室の扉の向こうから聞こえた。


 ひなが生まれた年には、産院の個室のカーテン越しだった。


 だが、声が聞こえるのは美緒だけだった。


 昨年までは。


 しかも、声がするのは命日の夜だけだった。


 今年は、命日を待たずに声がした。


 それも、美緒ではなく、ひなに届いた。


 美緒は押し入れの戸を閉めた。


 椅子を押し入れへ押しつけ、その背後から、ひなの学習机も寄せた。


 それでも足りない気がした。



 午後になっても、胸のざわつきは消えなかった。


 11年前。

 美緒は久世朔と別れようとしていた。

 高校を卒業して2年。

 朔は、美緒がどこへ行くにもついてきた。

 友人と会うと言えば、誰と何時まで会うのかを聞いた。

 連絡が少し遅れれば、家の前で待っていた。

 美緒が嫌だと言うと、朔は笑った。


「心配してるだけだよ」

「好きだから、知りたいだけ」

「束縛じゃないって」


 怒鳴ることはなかった。

 殴ることもなかった。


 だから美緒は、自分が嫌がる方がおかしいのだと思っていた。


 最後に別れ話をした夜、朔は美緒の職場の前で待っていた。


「話が済むまで帰らない」


 笑顔のまま、そう言った。

 同僚が何人も通る場所だった。

 ここで揉めれば、朔はいつまでも待ち続ける。

 話をすれば家まで送ると言われ、美緒は仕方なく助手席へ乗った。


 だが、朔の車は美緒の家へ向かわなかった。


「どこへ行くの?」

「夜景を見に行こう」

「帰るんじゃなかったの?」

「話をするだけだよ」

「ここで話せるでしょう」

「誰にも邪魔されたくないんだ」


 朔は笑ったまま、山道へ車を進めた。

 着いたのは、山中の自然公園だった。

 駐車場に、ほかの車はない。


 展望台まで続く遊歩道は、土砂崩れのため立入禁止になっていた。


「帰ろう」


 美緒が言うと、朔は笑った。


「少しくらい平気だよ」

「暗いし危ない」

「じゃあ、最後にかくれんぼをしようか」

「何を言ってるの?」

「別れたいんだろ?」


 朔は車の鍵を指先で弄びながら、笑ったまま言った。


「僕が美緒を見つけたら、もう一回話そう」

「見つからなかったら?」

「そのまま別れる」

「子供じゃないんだから」

「普通のかくれんぼじゃないよ」


 朔は美緒の両肩へ手を置いた。


「見つけたら終わりじゃない。見つけたあと、美緒が逃げる。僕が捕まえたら、僕の勝ち」

「そんなの、かくれんぼじゃない」

「じゃあ、僕たちのかくれんぼ」

「やらない」

「怖い?」

「そういう話じゃない」


「じゃあ、できるよね」


 美緒が車へ戻ろうとすると、朔は鍵を握ったまま、その前へ立った。


「終わるまで帰らないよ」


 逃げなければ、帰してもらえないと思った。


 美緒は森の中へ入った。

 朔は木へ顔を伏せた。


「僕が鬼」


 声に出して数え始める。


 1。

 2。

 3。


 美緒は濡れた落ち葉を踏み、遊歩道を外れた。

 10まで数え終えた朔が尋ねる。


「もういいかい」


 美緒は答えなかった。

 木の陰にしゃがみ、息を殺した。


「美緒」


 遠くで朔が呼んだ。


「聞こえてる?」


 答えない。


「もういいかい」


 声が近づいてくる。

 朔は笑っていた。


「見つけたら、もう別れないからね」


 枝を踏む音。

 美緒は立ち上がり、別の木陰へ走った。

 懐中電灯の光が追ってくる。


「いた」


 朔が笑った。

 美緒は逃げた。

 立入禁止の柵を越えた。

 斜面へ続く道は、雨でぬかるんでいた。


 背後から腕を掴まれた。


「捕まえた」

「離して」

「終わりだよ」

「離して!」


 美緒は腕を振り払った。

 朔の靴が滑った。

 身体が斜面へ傾く。


 一瞬、朔の指が美緒の袖を掴んだ。

 布が伸びた。

 指が離れた。


 朔は暗闇へ落ちていった。

 木の枝が折れる音が続いた。

 最後に、鈍い音がした。


 美緒は動けなかった。


「朔?」


 返事はなかった。


 斜面の下は見えない。

 助けを呼ばなければならなかった。

 携帯電話はポケットに入っていた。


 だが美緒は電話をかけなかった。

 もし助かれば、また追ってくる。

 見つけられる。


 その考えが浮かんだ。


 美緒は駐車場まで戻った。

 朔の車は、来たときと同じ場所に停まっていた。

 扉には鍵が掛かっている。

 車の鍵は、朔が持ったままだった。


 美緒は暗い山道を歩いた。

 県道へ出てからタクシー会社へ電話し、自宅まで送ってもらった。


 その夜、朔が崖から落ちたことを、誰にも知らせなかった。


 翌朝、帰宅しない朔を心配した家族が警察へ連絡した。

 自然公園の駐車場で車が見つかり、朔の遺体が発見されたのは、その日の午後だった。


 朔が美緒を迎えに行ったことを、家族は知っていた。

 警察には、駐車場で別れ話をしたと説明した。

 朔が一人になりたいと言ったため、自分だけ歩いて山を下り、タクシーで帰ったと話した。


 朔に森の中まで追われたことも。

 腕を振り払ったことも。

 崖から落ちるところを見たことも言わなかった。


 まだ生きていたかもしれないのに、助けを呼ばなかったことも。


 夜半から降り始めた雨で、遊歩道に残っていた足跡は崩れていた。

 斜面には滑った跡があり、朔の死は転落事故として処理された。


 それから毎年、命日の夜になると声がする。


「もういいかい」


 美緒は一度も返事をしなかった。

 返事をすれば、見つかる。

 誰かに教えられたわけではない。

 ただ、そう分かっていた。


 夕方、ひなが帰ってきた。


「お母さん、机動かしたの?」

「今夜だけね」

「押し入れ、開けられないよ」

「開けなくていいの」

「玩具取れない」

「明日出してあげる」


 ひなは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。


 圭吾が帰宅したのは19時過ぎだった。

 夕食の間、美緒は何度も時計を見た。


 21時。

 22時。

 ひなを寝かせる時間になった。


「今日はお母さんと寝ようか」

「どうして?」

「たまにはいいでしょう」

「お父さんは?」

「3人で寝よう」


 圭吾が美緒を見る。


「本当に何かあった?」

「あとで話す」

「今じゃだめか?」

「ひなが寝てから」


 寝室へ布団を並べた。

 ひなは中央へ入り、嬉しそうに笑った。


「旅行みたい」

「そうね」


 電気を消す。

 ひなはすぐに眠った。


 圭吾は眠らず、美緒の方を見ていた。


「朔の命日だろ」


 美緒は息を止めた。

 朔という昔の交際相手が事故で死んだことだけは、結婚前に圭吾へ話していた。


「覚えてたの?」

「毎年この時期、様子がおかしくなるから」

「ごめん」

「謝ることじゃない」

「声がするの」


 圭吾は黙って待った。


「朔の声」

「今日?」

「毎年」


 美緒は11年間のことを話した。


 踏切。

 階段。

 玄関。

 浴室。

 寝室。

 産院。


 昨夜は、命日前だった。

 そのうえ、ひなが聞いた。


 圭吾は途中で口を挟まなかった。


「どうして今まで言わなかった?」

「信じてもらえないと思った」

「信じるよ」

「本当に?」

「声のことまで分かるとは言えない」


 圭吾は美緒の手を握った。


「でも、美緒が本当に怖がってることは分かる」

「今夜は起きてよう」

「ひなを起こさないで」

「分かってる」


 23時を過ぎた。

 家の中は静かだった。


 冷蔵庫の作動音。

 時計の針。

 外を走る車の音。


 美緒は何度も寝室の扉を見た。


 23時41分。

 廊下で音がした。

 ぎ、と床板が鳴る。


 美緒の肩が跳ねた。

 その反応を見て、圭吾も身体を起こした。


「聞こえた?」

「何が?」


 また床板が鳴る。

 美緒には聞こえている。

 圭吾には聞こえていない。


 廊下を、誰かがゆっくり歩いている。

 寝室の前を通り過ぎた。


 ひなの部屋へ向かう。

 美緒は立ち上がった。


「どこへ行く?」

「ひなの部屋」

「一緒に行く」


 扉を開ける。


 廊下が長くなっていた。


 普段なら数歩先にある娘の部屋が、暗闇の奥に小さく見える。


「美緒?」


 圭吾は異変に気づいていない。


 美緒の目には、廊下が20メートル以上続いていた。


 壁に並んだ家族写真が、見知らぬ写真へ変わっている。


 美緒と朔。

 高校の制服。

 遊園地。

 海。


 朔の顔は、どの写真でも美緒の方を見ている。


「行かないで」


 美緒は圭吾の腕を掴んだ。


「何が見えてる?」

「廊下」

「普通の?」

「普通だよ」


 奥で、ひなの部屋の扉が開いた。


 美緒には見えた。


 誰も触れていないのに、ゆっくりと。


 部屋の中から声がした。


「もういいかい」


 20歳の朔の声だった。

 美緒は口を押さえた。


「聞こえない?」

「何も」


 隣で眠っていたはずのひなが、起き上がった。


「ひな?」


 圭吾が振り返る。


 ひなは目を閉じたまま、布団から出た。

 廊下へ向かう。


「どこ行くの?」


 美緒が抱き止める。

 ひなは目を開けた。


「呼んでる」

「誰が?」

「押し入れの人」


 ひなの部屋から、もう一度声がした。


「もういいかい」


 ひなが口を開く。

 美緒は娘の口を手で塞いだ。


「だめ」


 ひなが驚いて暴れる。


「苦しい!」

「返事しちゃだめ」

「お母さん、痛い!」


 圭吾が美緒の腕を掴む。


「落ち着け」

「離して!」

「ひなが苦しがってる」

「返事をしたら駄目なの!」


 ひなの部屋から、3度目の声。


「もういいかい」


 ひなは美緒の手を振りほどいた。


「もう――」

「もういいよ!」


 美緒が叫んだ。


 家中の照明が一斉に消えた。

 圭吾の手が離れる。

 ひなの身体も消える。


 暗闇の中で、美緒は一人になった。


 どこかで、男が笑った。


「やっと」


 目を開ける。

 朝ではなかった。


 時計は0時を示している。

 美緒は寝室の床に倒れていた。


 布団では、ひなが眠っている。

 隣には、圭吾ではない男がいた。


 知らない顔ではなかった。


 20歳だった朔が、そのまま11年分だけ歳を重ねた顔。


 朔は目を開けた。


「おはよう」


 美緒は後ずさった。


「どうして」


 声が出ていなかった。


 口は動いているのに、音にならない。

 朔は美緒を見ていない。

 布団から起き上がり、ひなの髪を撫でた。


「朝じゃないけど、起きようか」


 ひなが目を覚ました。


「お父さん?」

「起こしちゃった?」

「喉渇いた」

「お水持ってくるよ」


 ひなは朔の首へ腕を回した。

 慣れた仕草だった。


「抱っこ」

「もう重いよ」

「できるでしょ」

「仕方ないな」


 朔はひなを抱き上げた。


 美緒は2人の間へ入ろうとした。


 身体がすり抜ける。


 触れられない。


「ひな!」


 声も届かない。

 朔だけが、美緒を見た。

 娘を抱いたまま笑う。


「見つけた」


 美緒は壁の写真を見た。


 結婚式。

 隣にいるのは朔だった。


 ひなが生まれた日。

 赤ん坊を抱いているのも朔。


 家族旅行。

 入学式。

 どこにも圭吾はいない。


 圭吾の靴も。

 服も。

 歯ブラシも。

 存在していた痕跡が1つもない。


 朔はひなを台所へ連れていった。


 美緒も追う。


 台所の椅子には、圭吾ではなく朔の上着が掛けられていた。


 朔が冷蔵庫から水を出す。

 ひなへ渡しながら、美緒を見る。


「君が言ったんだよ」


 美緒には聞こえた。


「もういいよって」


 美緒は首を振った。


「娘に言わせたくなかっただけ」


 今度は声が出た。


 だが、聞こえているのは朔だけだった。


「同じことだよ」

「圭吾はどこ?」

「誰?」

「夫よ」

「美緒の夫は僕だろ」

「違う」

「写真を見てみなよ」

「お前が変えた」

「世界が間違ってると思う?」


 朔は笑った。


「それとも、美緒だけが間違ってる?」


 ひなが水を飲み終えた。


「お父さん、誰と話してるの?」

「誰とも」

「でも、そっち見てた」

「考え事」

「明日、学校だよ」

「そうだったね。寝ようか」


 朔はひなを寝室へ戻した。

 美緒が追うと、寝室の扉が閉まる。


 扉へ手を伸ばす。


 手が板を通り抜けた。


 中から、ひなの笑い声が聞こえる。


 朔の声が、背後からした。


「11年前は僕が探した」


 振り返る。


 朔は廊下の奥に立っていた。


「今度は、美緒が鬼だよ」


 美緒は朔を睨んだ。


「夜明けまでに僕を見つけて、捕まえて」

「捕まえたら?」

「元に戻してあげる」

「信じると思う?」

「信じなくても追うだろ?」


 朔は笑う。


「圭吾とひなのために」


 廊下の照明が消えた。

 朔の姿も消える。

 足裏へ、床の硬さが戻った。

 美緒が壁へ手をつくと、今度は掌が止まった。


 鬼になった美緒だけが、朔の遊びの中へ入れられた。


「もういいかい」


 家の奥から声がした。

 美緒は走った。

 台所の扉を開ける。


 その先は、11年前の森だった。


 濡れた遊歩道。

 土の匂い。

 木々の隙間を懐中電灯の光が動く。

 美緒は森へ踏み込んだ。


「朔!」


 返事はない。


 枝を踏む音だけが先へ逃げる。


「出てきて!」

「鬼がそんなこと言っても、出ていかないよ」


 右側から声。


 振り向く。


 誰もいない。


「もういいかい」

「答えない」

「今度は美緒が聞く番だよ」

「こんなの、かくれんぼじゃない」

「11年前もそう言ったね」


 背後に気配。

 美緒は手を伸ばす。


 何も掴めない。


 木々の向こうに朔が立っている。


「一生一緒にいようって約束したよね」

「してない」

「したよ」

「私は別れたいと言った」

「でも逃げた」

「帰してくれなかったから」

「逃げる人がいるから、追いかけられるんだよ」

「それを愛情だと思ってたの?」

「美緒は僕を捨てた」

「あなたが私を離さなかった」

「死ぬまで?」


 朔の笑顔が消えた。


「僕が落ちたあと、助けを呼ばなかったね」


 美緒は立ち止まった。


「まだ生きてたよ」

「嘘」

「聞こえなかった?」

「何も」

「呼んだよ」


 朔の声が近づく。


「美緒」


 11年前と同じ声。


「助けて」


 美緒は耳を塞いだ。


「やめて」

「君は帰った」

「やめて」

「朝まで待った」

「違う」

「死ぬまで、ずっと見つけてもらえると思ってた」

「私は怖かった!」


 声が森へ響いた。


「助けたら、また追ってくると思った!」


 朔は笑った。


「やっと言った」


 森が消える。


 美緒は浴室に立っていた。

 鏡には誰も映っていない。

 美緒自身も。


 排水口から朔の声がする。


「圭吾は、どうして消えたと思う?」


 美緒は排水口を塞いだ。


「お前が消した」

「違うよ」

「違わない」

「僕が戻る場所を、美緒がくれた」

「私はあなたを選んでない」

「もういいよって言った」

「ひなを守るためよ」

「それでも、美緒の言葉だ」


 浴室の扉を開ける。


 崖の上へ出た。


 11年前、朔が落ちた場所。

 下から枝が折れる音がした。


「まだ生きてるよ」


 朔の声。


「助けて」


 美緒は崖下を見ない。


「圭吾を返して」

「捕まえて」

「出てきて」

「見つけて」

「朔!」


 朔は笑った。


「ずっと僕のことを考えてるね」

「違う」

「圭吾といるときも」

「違う」

「ひなが生まれたときも」

「違う!」

「毎年、命日が近づくたびに」


 美緒は答えられなかった。

 確かに考えていた。

 声がする前から。


 今年はどこから呼ばれるのか。

 いつまで続くのか。


 朔が死んだ夜を、忘れたことは一度もない。


「それは愛じゃない」


 美緒は言った。


「知ってるよ」


 朔は崖の向こうに立っていた。


「僕も、もう分からない」

「何が?」

「美緒に会いたいのか」


 朔は首を傾げた。


「美緒の人生が欲しいのか」

「返して」

「嫌だ」

「捕まえれば返すんでしょう」

「捕まえられたらね」


 朔が走る。

 崖へ向かって。


 美緒は追った。


 朔の上着へ手を伸ばす。


 指先が触れる。


 その瞬間、景色が変わった。


 ひなの部屋。


 朔は娘のベッドに座っていた。

 ひなは眠りながら、朔の袖を握っている。


「追いついたね」


 美緒は朔へ近づいた。


「逃げないの?」

「本当に捕まえる?」

「圭吾を戻す」

「ひなは僕を父親だと思ってる」

「違う」

「僕を消したら、この子は父親を失うよ」

「あなたは父親じゃない」

「この子の記憶では、ずっと僕だ」

「嘘よ」

「また家族を壊すの?」


 美緒は手を伸ばした。


「あなたが家族になったことは、一度もない」


 朔へ飛びかかる。

 身体が消えた。


 ひなの袖を握っていた手も消える。


 部屋中から声がした。


「もういいかい」


 天井。

 床。

 押し入れ。

 机の下。


「もういいかい」


 美緒は振り返る。


 誰もいない。


「もういいかい」


 追う限り、逃げる。

 探す限り、隠れる。

 返事をする限り、朔のかくれんぼは続く。


 美緒は部屋の中央へ立った。


「もう探さない」


 声が止んだ。


 暗闇の中で、ひなだけが眠っている。


「嘘だ」


 朔の声が近くで聞こえた。


「圭吾を取り戻したいだろ」

「取り戻す」

「なら探せ」

「探さない」

「僕を捕まえないと戻らないよ」

「あなたの決めたルールには従わない」


 背後に気配が立つ。


「僕が美緒を見つけたら?」

「あなたが見つけたと思っているだけよ」


 冷たい指先が、確かに肩へ触れた。


 美緒は振り返った。


 朔の手首を掴む。


「つかまえた」


 朔の顔から笑みが消えた。


「ずるい」

「あなたが近づいてきたのよ」

「そんなの、僕たちのかくれんぼじゃない」

「最初から、あなたが勝手に作った遊びよ」


 朔の手首が崩れ始める。


 黒い灰になり、美緒の指の間から落ちる。


「美緒」


 朔は初めて、子供のような顔をした。


「今度は、助けてくれる?」


 11年前の夜。

 崖の下。

 生きていたかもしれない朔。


 美緒は目を閉じた。


「助けを呼ばなかったことは、私の責任よ」


 朔の肩が崩れる。


「でも、それであなたに私の人生を渡すことにはならない」

「一人で死んだ」

「そうね」

「怖かった」

「そうでしょうね」

「それでも?」


「それでも、終わりよ」


 朔の顔が灰になった。

 最後まで、美緒を見ていた。


「もういいかい」


 声だけが残った。

 美緒は答えなかった。


 目を開ける。

 自宅の寝室だった。


 窓の外が白み始めている。

 時計は5時12分。


 隣には圭吾が眠っている。

 美緒は圭吾の頬へ触れた。


 触れられる。


「圭吾」


 圭吾が目を開けた。


「どうした?」


 美緒は何度も彼の顔を確認した。


「いる」

「いるよ」

「ひなは?」


 隣の布団で、ひなが眠っている。

 美緒は娘を抱き締めた。


「苦しい」


 ひなが寝ぼけた声で言った。


「ごめん」

「朝?」

「まだ少し早い」

「押し入れの人は?」


 美緒は身体を硬くした。


 ひなは目を閉じたまま続ける。


「もう帰った?」

「分からない」

「お母さんが勝った?」

「勝ってない」

「じゃあ負けた?」


「終わらせたの」


 ひなは意味が分からないまま、また眠った。


 朝食のあと、美緒は圭吾へすべて話した。


 11年前、別れ話をしていたこと。

 朔がかくれんぼと呼んだ遊びのこと。

 腕を振り払ったこと。

 崖から落ちた朔を置き去りにしたこと。

 その夜、助けを呼ばなかったこと。

 警察に嘘をついたこと。


 圭吾は長い間、何も言わなかった。


「警察にも、家族にも嘘をついた」

「うん」

「私が殺したのと同じかもしれない」

「それを俺が決めることじゃない」

「軽蔑する?」


「今はしない」


「今は?」


「これから考える」


 美緒は頷いた。


「それでいい」


 圭吾は美緒の手を握らなかった。

 許すとも、大丈夫だとも言わなかった。

 それでも席を立たず、最後まで話を聞いた。



 数日後。


 ひなは近所の公園で、友達とかくれんぼをしていた。

 美緒はベンチに座り、子供たちを見ている。


 ひなが木へ顔を伏せ、数を数える。


「8、9、10」


 ほかの子供たちが遊具や植え込みへ隠れる。

 ひなが顔を上げた。


「もういいかい」

「もういいよ!」


 子供たちの声が返る。


 その中に、男の声が混じった。


「まだだよ」


 美緒は立ち上がった。


 林の奥。


 木々の間に、20歳の朔が立っている。


 朔は美緒を見ていなかった。


 ひなを見ていた。


 唇へ人差し指を当て、笑う。


「朔!」


 美緒は林へ駆け込んだ。

 木の根を越える。

 枝をかき分ける。


 誰もいない。


 背後から、ひなの声がした。


「お母さんも隠れて!」


 振り返る。


 公園の入口に、ひなが立っている。


「ひな、こっちへ来て」

「今度は、お母さんも入って」

「早くこっちへ来なさい」

「次も私が鬼ね」


 まだ誰も見つけていないのに、ひなは木へ顔を伏せた。


「1、2、3」


 美緒は林を出ようとした。

 だが、進んでも公園が近づかない。


「4、5、6」


 木々の間に、同じ道が続いている。


「7、8、9」


 美緒は走った。


「10」


 ひなが顔を上げる。


「もういいかい」


 美緒は答えなかった。


 林の奥から、美緒自身の声が返った。


「もういいよ」





今回は、「もういいかい」という問いに、題名が先に答えているホラーでした。


かくれんぼは、相手が「もういいよ」と返さなければ始まりません。


その返事を、同意や許可として勝手に使う相手がいたら怖いな、と考えたところからできた話です。


定期的にホラーを書きたくなって、そして見たくもなる。この癖、なんなんでしょうね。

あと、会話の掛け合い、行を詰めてみたのですがいつもとどっちがいいんでしょうね?


お読み頂きありがとうございました。

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おわっ⋯私のトラウマが引きずり起こされるタイプの恐ろしさだ⋯⋯ そりゃ見殺しにしちゃうわな。気持ちは分かる。 私は小心者ではありますが、筋はできる限り通したいのでさすがに救急車は呼びますけど。(この…
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