もういいよ
命日の朝、娘が言った。
「昨日ね、押し入れの人が、もういいかいって聞いてきたよ」
高瀬美緒は、食卓へ置こうとしていた皿を落とした。
陶器が床へ当たり、2つに割れた。
「お母さん?」
6歳のひなが椅子から降りようとする。
「動かないで」
思ったより強い声が出た。
ひなは片足を床へ下ろしたまま、目を丸くした。
「破片があるから。そこにいて」
「うん」
美緒はしゃがみ込み、割れた皿を拾った。
指先が震えていた。
白い皿には、昨夜切っておいた林檎を載せるつもりだった。
ひなは食卓の向こうから、美緒を見ている。
「押し入れの人って、誰?」
「分かんない」
「男の人?」
「うん」
「どこの押し入れ?」
「私の部屋」
美緒の手が止まった。
「昨日の夜?」
「うん。寝る前」
「何時頃?」
「分かんない」
「顔は見た?」
「見てないよ。押し入れ、閉まってたもん」
ひなは不思議そうに首を傾げた。
「中から聞こえたの」
美緒は割れた皿を新聞紙へ包んだ。
何度折っても、皿の尖った部分が紙を突き破りそうになる。
「ひな」
「なあに?」
「今夜、もしまた声が聞こえても、返事をしちゃだめよ」
「どうして?」
「だめだから」
「でも、もういいよって言わないと、鬼が探しに来られないよ」
「言わなくていいの」
また声が強くなった。
ひなの口元が少し下がった。
「怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ、どうして怖い顔してるの?」
美緒は答えられなかった。
夫の圭吾が洗面所から出てきた。
「どうした?」
「お皿割っちゃった」
「怪我は?」
「ない」
圭吾は新聞紙に包まれた皿と、美緒の顔を交互に見た。
「本当に?」
「大丈夫」
「お母さんね、押し入れの人が怖いんだって」
ひなが言った。
圭吾が眉を寄せる。
「押し入れの人?」
「昨日、もういいかいって言ったの」
「夢じゃないか?」
「夢じゃないよ」
「怖かった?」
「別に。かくれんぼかなって思った」
圭吾は笑った。
「じゃあ、今日は押し入れを開けたまま寝るか」
「だめ」
美緒は即座に言った。
圭吾の笑みが消えた。
「閉めておいて。絶対に」
「美緒?」
「閉めて、前に椅子を置いておく」
「そこまでしなくても」
「お願い」
圭吾はしばらく美緒を見ていた。
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
ひなを学校へ送り出し、圭吾が仕事へ行ったあと、美緒は娘の部屋へ入った。
押し入れは閉まっている。
昨夜、寝かしつけを終えたときにも閉まっていた。
美緒は取っ手へ手をかけた。
開ける。
上段には布団。
下段には衣装ケースと、使わなくなった玩具の箱。
人が入れる隙間はない。
それでも、美緒は布団を引き出した。
衣装ケースを開けた。
玩具箱の中身を床へ広げた。
何もなかった。
押し入れの奥の板へ手を当てる。
冷たい。
その向こうに、誰かがいるような気がした。
美緒は手を離した。
今年で11年になる。
最初に声を聞いたのは、朔が死んだ翌年だった。
命日の夜。
職場から帰る途中、踏切の向こうから聞こえた。
「もういいかい」
電車が通り過ぎる音に紛れ、若い男の声がした。
聞き間違いだと思った。
その次の年は、アパートの階段。
さらに翌年は、玄関の外。
やがて浴室の排水口や天井裏から聞こえるようになった。
少しずつ近づいてきた。
圭吾と結婚した年には、寝室の扉の向こうから聞こえた。
ひなが生まれた年には、産院の個室のカーテン越しだった。
だが、声が聞こえるのは美緒だけだった。
昨年までは。
しかも、声がするのは命日の夜だけだった。
今年は、命日を待たずに声がした。
それも、美緒ではなく、ひなに届いた。
美緒は押し入れの戸を閉めた。
椅子を押し入れへ押しつけ、その背後から、ひなの学習机も寄せた。
それでも足りない気がした。
午後になっても、胸のざわつきは消えなかった。
11年前。
美緒は久世朔と別れようとしていた。
高校を卒業して2年。
朔は、美緒がどこへ行くにもついてきた。
友人と会うと言えば、誰と何時まで会うのかを聞いた。
連絡が少し遅れれば、家の前で待っていた。
美緒が嫌だと言うと、朔は笑った。
「心配してるだけだよ」
「好きだから、知りたいだけ」
「束縛じゃないって」
怒鳴ることはなかった。
殴ることもなかった。
だから美緒は、自分が嫌がる方がおかしいのだと思っていた。
最後に別れ話をした夜、朔は美緒の職場の前で待っていた。
「話が済むまで帰らない」
笑顔のまま、そう言った。
同僚が何人も通る場所だった。
ここで揉めれば、朔はいつまでも待ち続ける。
話をすれば家まで送ると言われ、美緒は仕方なく助手席へ乗った。
だが、朔の車は美緒の家へ向かわなかった。
「どこへ行くの?」
「夜景を見に行こう」
「帰るんじゃなかったの?」
「話をするだけだよ」
「ここで話せるでしょう」
「誰にも邪魔されたくないんだ」
朔は笑ったまま、山道へ車を進めた。
着いたのは、山中の自然公園だった。
駐車場に、ほかの車はない。
展望台まで続く遊歩道は、土砂崩れのため立入禁止になっていた。
「帰ろう」
美緒が言うと、朔は笑った。
「少しくらい平気だよ」
「暗いし危ない」
「じゃあ、最後にかくれんぼをしようか」
「何を言ってるの?」
「別れたいんだろ?」
朔は車の鍵を指先で弄びながら、笑ったまま言った。
「僕が美緒を見つけたら、もう一回話そう」
「見つからなかったら?」
「そのまま別れる」
「子供じゃないんだから」
「普通のかくれんぼじゃないよ」
朔は美緒の両肩へ手を置いた。
「見つけたら終わりじゃない。見つけたあと、美緒が逃げる。僕が捕まえたら、僕の勝ち」
「そんなの、かくれんぼじゃない」
「じゃあ、僕たちのかくれんぼ」
「やらない」
「怖い?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、できるよね」
美緒が車へ戻ろうとすると、朔は鍵を握ったまま、その前へ立った。
「終わるまで帰らないよ」
逃げなければ、帰してもらえないと思った。
美緒は森の中へ入った。
朔は木へ顔を伏せた。
「僕が鬼」
声に出して数え始める。
1。
2。
3。
美緒は濡れた落ち葉を踏み、遊歩道を外れた。
10まで数え終えた朔が尋ねる。
「もういいかい」
美緒は答えなかった。
木の陰にしゃがみ、息を殺した。
「美緒」
遠くで朔が呼んだ。
「聞こえてる?」
答えない。
「もういいかい」
声が近づいてくる。
朔は笑っていた。
「見つけたら、もう別れないからね」
枝を踏む音。
美緒は立ち上がり、別の木陰へ走った。
懐中電灯の光が追ってくる。
「いた」
朔が笑った。
美緒は逃げた。
立入禁止の柵を越えた。
斜面へ続く道は、雨でぬかるんでいた。
背後から腕を掴まれた。
「捕まえた」
「離して」
「終わりだよ」
「離して!」
美緒は腕を振り払った。
朔の靴が滑った。
身体が斜面へ傾く。
一瞬、朔の指が美緒の袖を掴んだ。
布が伸びた。
指が離れた。
朔は暗闇へ落ちていった。
木の枝が折れる音が続いた。
最後に、鈍い音がした。
美緒は動けなかった。
「朔?」
返事はなかった。
斜面の下は見えない。
助けを呼ばなければならなかった。
携帯電話はポケットに入っていた。
だが美緒は電話をかけなかった。
もし助かれば、また追ってくる。
見つけられる。
その考えが浮かんだ。
美緒は駐車場まで戻った。
朔の車は、来たときと同じ場所に停まっていた。
扉には鍵が掛かっている。
車の鍵は、朔が持ったままだった。
美緒は暗い山道を歩いた。
県道へ出てからタクシー会社へ電話し、自宅まで送ってもらった。
その夜、朔が崖から落ちたことを、誰にも知らせなかった。
翌朝、帰宅しない朔を心配した家族が警察へ連絡した。
自然公園の駐車場で車が見つかり、朔の遺体が発見されたのは、その日の午後だった。
朔が美緒を迎えに行ったことを、家族は知っていた。
警察には、駐車場で別れ話をしたと説明した。
朔が一人になりたいと言ったため、自分だけ歩いて山を下り、タクシーで帰ったと話した。
朔に森の中まで追われたことも。
腕を振り払ったことも。
崖から落ちるところを見たことも言わなかった。
まだ生きていたかもしれないのに、助けを呼ばなかったことも。
夜半から降り始めた雨で、遊歩道に残っていた足跡は崩れていた。
斜面には滑った跡があり、朔の死は転落事故として処理された。
それから毎年、命日の夜になると声がする。
「もういいかい」
美緒は一度も返事をしなかった。
返事をすれば、見つかる。
誰かに教えられたわけではない。
ただ、そう分かっていた。
夕方、ひなが帰ってきた。
「お母さん、机動かしたの?」
「今夜だけね」
「押し入れ、開けられないよ」
「開けなくていいの」
「玩具取れない」
「明日出してあげる」
ひなは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
圭吾が帰宅したのは19時過ぎだった。
夕食の間、美緒は何度も時計を見た。
21時。
22時。
ひなを寝かせる時間になった。
「今日はお母さんと寝ようか」
「どうして?」
「たまにはいいでしょう」
「お父さんは?」
「3人で寝よう」
圭吾が美緒を見る。
「本当に何かあった?」
「あとで話す」
「今じゃだめか?」
「ひなが寝てから」
寝室へ布団を並べた。
ひなは中央へ入り、嬉しそうに笑った。
「旅行みたい」
「そうね」
電気を消す。
ひなはすぐに眠った。
圭吾は眠らず、美緒の方を見ていた。
「朔の命日だろ」
美緒は息を止めた。
朔という昔の交際相手が事故で死んだことだけは、結婚前に圭吾へ話していた。
「覚えてたの?」
「毎年この時期、様子がおかしくなるから」
「ごめん」
「謝ることじゃない」
「声がするの」
圭吾は黙って待った。
「朔の声」
「今日?」
「毎年」
美緒は11年間のことを話した。
踏切。
階段。
玄関。
浴室。
寝室。
産院。
昨夜は、命日前だった。
そのうえ、ひなが聞いた。
圭吾は途中で口を挟まなかった。
「どうして今まで言わなかった?」
「信じてもらえないと思った」
「信じるよ」
「本当に?」
「声のことまで分かるとは言えない」
圭吾は美緒の手を握った。
「でも、美緒が本当に怖がってることは分かる」
「今夜は起きてよう」
「ひなを起こさないで」
「分かってる」
23時を過ぎた。
家の中は静かだった。
冷蔵庫の作動音。
時計の針。
外を走る車の音。
美緒は何度も寝室の扉を見た。
23時41分。
廊下で音がした。
ぎ、と床板が鳴る。
美緒の肩が跳ねた。
その反応を見て、圭吾も身体を起こした。
「聞こえた?」
「何が?」
また床板が鳴る。
美緒には聞こえている。
圭吾には聞こえていない。
廊下を、誰かがゆっくり歩いている。
寝室の前を通り過ぎた。
ひなの部屋へ向かう。
美緒は立ち上がった。
「どこへ行く?」
「ひなの部屋」
「一緒に行く」
扉を開ける。
廊下が長くなっていた。
普段なら数歩先にある娘の部屋が、暗闇の奥に小さく見える。
「美緒?」
圭吾は異変に気づいていない。
美緒の目には、廊下が20メートル以上続いていた。
壁に並んだ家族写真が、見知らぬ写真へ変わっている。
美緒と朔。
高校の制服。
遊園地。
海。
朔の顔は、どの写真でも美緒の方を見ている。
「行かないで」
美緒は圭吾の腕を掴んだ。
「何が見えてる?」
「廊下」
「普通の?」
「普通だよ」
奥で、ひなの部屋の扉が開いた。
美緒には見えた。
誰も触れていないのに、ゆっくりと。
部屋の中から声がした。
「もういいかい」
20歳の朔の声だった。
美緒は口を押さえた。
「聞こえない?」
「何も」
隣で眠っていたはずのひなが、起き上がった。
「ひな?」
圭吾が振り返る。
ひなは目を閉じたまま、布団から出た。
廊下へ向かう。
「どこ行くの?」
美緒が抱き止める。
ひなは目を開けた。
「呼んでる」
「誰が?」
「押し入れの人」
ひなの部屋から、もう一度声がした。
「もういいかい」
ひなが口を開く。
美緒は娘の口を手で塞いだ。
「だめ」
ひなが驚いて暴れる。
「苦しい!」
「返事しちゃだめ」
「お母さん、痛い!」
圭吾が美緒の腕を掴む。
「落ち着け」
「離して!」
「ひなが苦しがってる」
「返事をしたら駄目なの!」
ひなの部屋から、3度目の声。
「もういいかい」
ひなは美緒の手を振りほどいた。
「もう――」
「もういいよ!」
美緒が叫んだ。
家中の照明が一斉に消えた。
圭吾の手が離れる。
ひなの身体も消える。
暗闇の中で、美緒は一人になった。
どこかで、男が笑った。
「やっと」
目を開ける。
朝ではなかった。
時計は0時を示している。
美緒は寝室の床に倒れていた。
布団では、ひなが眠っている。
隣には、圭吾ではない男がいた。
知らない顔ではなかった。
20歳だった朔が、そのまま11年分だけ歳を重ねた顔。
朔は目を開けた。
「おはよう」
美緒は後ずさった。
「どうして」
声が出ていなかった。
口は動いているのに、音にならない。
朔は美緒を見ていない。
布団から起き上がり、ひなの髪を撫でた。
「朝じゃないけど、起きようか」
ひなが目を覚ました。
「お父さん?」
「起こしちゃった?」
「喉渇いた」
「お水持ってくるよ」
ひなは朔の首へ腕を回した。
慣れた仕草だった。
「抱っこ」
「もう重いよ」
「できるでしょ」
「仕方ないな」
朔はひなを抱き上げた。
美緒は2人の間へ入ろうとした。
身体がすり抜ける。
触れられない。
「ひな!」
声も届かない。
朔だけが、美緒を見た。
娘を抱いたまま笑う。
「見つけた」
美緒は壁の写真を見た。
結婚式。
隣にいるのは朔だった。
ひなが生まれた日。
赤ん坊を抱いているのも朔。
家族旅行。
入学式。
どこにも圭吾はいない。
圭吾の靴も。
服も。
歯ブラシも。
存在していた痕跡が1つもない。
朔はひなを台所へ連れていった。
美緒も追う。
台所の椅子には、圭吾ではなく朔の上着が掛けられていた。
朔が冷蔵庫から水を出す。
ひなへ渡しながら、美緒を見る。
「君が言ったんだよ」
美緒には聞こえた。
「もういいよって」
美緒は首を振った。
「娘に言わせたくなかっただけ」
今度は声が出た。
だが、聞こえているのは朔だけだった。
「同じことだよ」
「圭吾はどこ?」
「誰?」
「夫よ」
「美緒の夫は僕だろ」
「違う」
「写真を見てみなよ」
「お前が変えた」
「世界が間違ってると思う?」
朔は笑った。
「それとも、美緒だけが間違ってる?」
ひなが水を飲み終えた。
「お父さん、誰と話してるの?」
「誰とも」
「でも、そっち見てた」
「考え事」
「明日、学校だよ」
「そうだったね。寝ようか」
朔はひなを寝室へ戻した。
美緒が追うと、寝室の扉が閉まる。
扉へ手を伸ばす。
手が板を通り抜けた。
中から、ひなの笑い声が聞こえる。
朔の声が、背後からした。
「11年前は僕が探した」
振り返る。
朔は廊下の奥に立っていた。
「今度は、美緒が鬼だよ」
美緒は朔を睨んだ。
「夜明けまでに僕を見つけて、捕まえて」
「捕まえたら?」
「元に戻してあげる」
「信じると思う?」
「信じなくても追うだろ?」
朔は笑う。
「圭吾とひなのために」
廊下の照明が消えた。
朔の姿も消える。
足裏へ、床の硬さが戻った。
美緒が壁へ手をつくと、今度は掌が止まった。
鬼になった美緒だけが、朔の遊びの中へ入れられた。
「もういいかい」
家の奥から声がした。
美緒は走った。
台所の扉を開ける。
その先は、11年前の森だった。
濡れた遊歩道。
土の匂い。
木々の隙間を懐中電灯の光が動く。
美緒は森へ踏み込んだ。
「朔!」
返事はない。
枝を踏む音だけが先へ逃げる。
「出てきて!」
「鬼がそんなこと言っても、出ていかないよ」
右側から声。
振り向く。
誰もいない。
「もういいかい」
「答えない」
「今度は美緒が聞く番だよ」
「こんなの、かくれんぼじゃない」
「11年前もそう言ったね」
背後に気配。
美緒は手を伸ばす。
何も掴めない。
木々の向こうに朔が立っている。
「一生一緒にいようって約束したよね」
「してない」
「したよ」
「私は別れたいと言った」
「でも逃げた」
「帰してくれなかったから」
「逃げる人がいるから、追いかけられるんだよ」
「それを愛情だと思ってたの?」
「美緒は僕を捨てた」
「あなたが私を離さなかった」
「死ぬまで?」
朔の笑顔が消えた。
「僕が落ちたあと、助けを呼ばなかったね」
美緒は立ち止まった。
「まだ生きてたよ」
「嘘」
「聞こえなかった?」
「何も」
「呼んだよ」
朔の声が近づく。
「美緒」
11年前と同じ声。
「助けて」
美緒は耳を塞いだ。
「やめて」
「君は帰った」
「やめて」
「朝まで待った」
「違う」
「死ぬまで、ずっと見つけてもらえると思ってた」
「私は怖かった!」
声が森へ響いた。
「助けたら、また追ってくると思った!」
朔は笑った。
「やっと言った」
森が消える。
美緒は浴室に立っていた。
鏡には誰も映っていない。
美緒自身も。
排水口から朔の声がする。
「圭吾は、どうして消えたと思う?」
美緒は排水口を塞いだ。
「お前が消した」
「違うよ」
「違わない」
「僕が戻る場所を、美緒がくれた」
「私はあなたを選んでない」
「もういいよって言った」
「ひなを守るためよ」
「それでも、美緒の言葉だ」
浴室の扉を開ける。
崖の上へ出た。
11年前、朔が落ちた場所。
下から枝が折れる音がした。
「まだ生きてるよ」
朔の声。
「助けて」
美緒は崖下を見ない。
「圭吾を返して」
「捕まえて」
「出てきて」
「見つけて」
「朔!」
朔は笑った。
「ずっと僕のことを考えてるね」
「違う」
「圭吾といるときも」
「違う」
「ひなが生まれたときも」
「違う!」
「毎年、命日が近づくたびに」
美緒は答えられなかった。
確かに考えていた。
声がする前から。
今年はどこから呼ばれるのか。
いつまで続くのか。
朔が死んだ夜を、忘れたことは一度もない。
「それは愛じゃない」
美緒は言った。
「知ってるよ」
朔は崖の向こうに立っていた。
「僕も、もう分からない」
「何が?」
「美緒に会いたいのか」
朔は首を傾げた。
「美緒の人生が欲しいのか」
「返して」
「嫌だ」
「捕まえれば返すんでしょう」
「捕まえられたらね」
朔が走る。
崖へ向かって。
美緒は追った。
朔の上着へ手を伸ばす。
指先が触れる。
その瞬間、景色が変わった。
ひなの部屋。
朔は娘のベッドに座っていた。
ひなは眠りながら、朔の袖を握っている。
「追いついたね」
美緒は朔へ近づいた。
「逃げないの?」
「本当に捕まえる?」
「圭吾を戻す」
「ひなは僕を父親だと思ってる」
「違う」
「僕を消したら、この子は父親を失うよ」
「あなたは父親じゃない」
「この子の記憶では、ずっと僕だ」
「嘘よ」
「また家族を壊すの?」
美緒は手を伸ばした。
「あなたが家族になったことは、一度もない」
朔へ飛びかかる。
身体が消えた。
ひなの袖を握っていた手も消える。
部屋中から声がした。
「もういいかい」
天井。
床。
押し入れ。
机の下。
「もういいかい」
美緒は振り返る。
誰もいない。
「もういいかい」
追う限り、逃げる。
探す限り、隠れる。
返事をする限り、朔のかくれんぼは続く。
美緒は部屋の中央へ立った。
「もう探さない」
声が止んだ。
暗闇の中で、ひなだけが眠っている。
「嘘だ」
朔の声が近くで聞こえた。
「圭吾を取り戻したいだろ」
「取り戻す」
「なら探せ」
「探さない」
「僕を捕まえないと戻らないよ」
「あなたの決めたルールには従わない」
背後に気配が立つ。
「僕が美緒を見つけたら?」
「あなたが見つけたと思っているだけよ」
冷たい指先が、確かに肩へ触れた。
美緒は振り返った。
朔の手首を掴む。
「つかまえた」
朔の顔から笑みが消えた。
「ずるい」
「あなたが近づいてきたのよ」
「そんなの、僕たちのかくれんぼじゃない」
「最初から、あなたが勝手に作った遊びよ」
朔の手首が崩れ始める。
黒い灰になり、美緒の指の間から落ちる。
「美緒」
朔は初めて、子供のような顔をした。
「今度は、助けてくれる?」
11年前の夜。
崖の下。
生きていたかもしれない朔。
美緒は目を閉じた。
「助けを呼ばなかったことは、私の責任よ」
朔の肩が崩れる。
「でも、それであなたに私の人生を渡すことにはならない」
「一人で死んだ」
「そうね」
「怖かった」
「そうでしょうね」
「それでも?」
「それでも、終わりよ」
朔の顔が灰になった。
最後まで、美緒を見ていた。
「もういいかい」
声だけが残った。
美緒は答えなかった。
目を開ける。
自宅の寝室だった。
窓の外が白み始めている。
時計は5時12分。
隣には圭吾が眠っている。
美緒は圭吾の頬へ触れた。
触れられる。
「圭吾」
圭吾が目を開けた。
「どうした?」
美緒は何度も彼の顔を確認した。
「いる」
「いるよ」
「ひなは?」
隣の布団で、ひなが眠っている。
美緒は娘を抱き締めた。
「苦しい」
ひなが寝ぼけた声で言った。
「ごめん」
「朝?」
「まだ少し早い」
「押し入れの人は?」
美緒は身体を硬くした。
ひなは目を閉じたまま続ける。
「もう帰った?」
「分からない」
「お母さんが勝った?」
「勝ってない」
「じゃあ負けた?」
「終わらせたの」
ひなは意味が分からないまま、また眠った。
朝食のあと、美緒は圭吾へすべて話した。
11年前、別れ話をしていたこと。
朔がかくれんぼと呼んだ遊びのこと。
腕を振り払ったこと。
崖から落ちた朔を置き去りにしたこと。
その夜、助けを呼ばなかったこと。
警察に嘘をついたこと。
圭吾は長い間、何も言わなかった。
「警察にも、家族にも嘘をついた」
「うん」
「私が殺したのと同じかもしれない」
「それを俺が決めることじゃない」
「軽蔑する?」
「今はしない」
「今は?」
「これから考える」
美緒は頷いた。
「それでいい」
圭吾は美緒の手を握らなかった。
許すとも、大丈夫だとも言わなかった。
それでも席を立たず、最後まで話を聞いた。
数日後。
ひなは近所の公園で、友達とかくれんぼをしていた。
美緒はベンチに座り、子供たちを見ている。
ひなが木へ顔を伏せ、数を数える。
「8、9、10」
ほかの子供たちが遊具や植え込みへ隠れる。
ひなが顔を上げた。
「もういいかい」
「もういいよ!」
子供たちの声が返る。
その中に、男の声が混じった。
「まだだよ」
美緒は立ち上がった。
林の奥。
木々の間に、20歳の朔が立っている。
朔は美緒を見ていなかった。
ひなを見ていた。
唇へ人差し指を当て、笑う。
「朔!」
美緒は林へ駆け込んだ。
木の根を越える。
枝をかき分ける。
誰もいない。
背後から、ひなの声がした。
「お母さんも隠れて!」
振り返る。
公園の入口に、ひなが立っている。
「ひな、こっちへ来て」
「今度は、お母さんも入って」
「早くこっちへ来なさい」
「次も私が鬼ね」
まだ誰も見つけていないのに、ひなは木へ顔を伏せた。
「1、2、3」
美緒は林を出ようとした。
だが、進んでも公園が近づかない。
「4、5、6」
木々の間に、同じ道が続いている。
「7、8、9」
美緒は走った。
「10」
ひなが顔を上げる。
「もういいかい」
美緒は答えなかった。
林の奥から、美緒自身の声が返った。
「もういいよ」
今回は、「もういいかい」という問いに、題名が先に答えているホラーでした。
かくれんぼは、相手が「もういいよ」と返さなければ始まりません。
その返事を、同意や許可として勝手に使う相手がいたら怖いな、と考えたところからできた話です。
定期的にホラーを書きたくなって、そして見たくもなる。この癖、なんなんでしょうね。
あと、会話の掛け合い、行を詰めてみたのですがいつもとどっちがいいんでしょうね?
お読み頂きありがとうございました。




