毛
夜、男は一本の毛を見つけた。
洗面所の白い陶器の上に、黒く細い毛が一本だけ。
それ自体は珍しくない。人間なら誰でも毛は抜ける。髪も、眉も、睫毛も。
何故か男は指先で摘まみ上げる。
すると毛は、ぴくりと動いたように見えた。
不気味になって手を離した。毛は再び洗面台へ落ち、何事もなかったように静止する。
変な汗が身体から吹き出る。
見間違いだ。
疲れているだけ。
今日はちゃんと寝よう。そう思い床につく。
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いつものように起き、いつものように顔を洗う。朝食を済ませ、出勤する。妻や娘が起きるより早く、家を出る日常。
駅まで歩き、電車に乗る。
会社につき、業務を始める。
昼休憩に入り、
ふと、パソコンの隅に黒い線がある事に気がつく。
指で払う。
毛が一本。
その時は何も思わなかった。
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いつも通りの帰り道。
毛が一本。
道に落ちていた。
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それからというもの、男は事あるごとに見つける。
毛が一本。
玄関。
冷蔵庫の取っ手。
電車の吊り革。
スマートフォンの画面。
毎回、一本だけ。
異様に目を惹く毛。
それでも、
男は誰にも相談しなかった。
相談したところで、誰も相手にしてくれないだろう。
妻や娘には、時々顔色を心配されるようになった。
話しても分かってもらえない。そう思い、いつもはぐらかす。
だが男は次第に確信する。
あれは、自分を追っている。
なぜ、そう思ったのかは分からない。
それからというもの、男は毛を見つけるたびに毛から逃げるようにしていた。
電車で見つけると、1本遅らせる。
道で見つけると、迂回する。
一般人からすればどれも奇行であり、彼を気味悪く思うだろう。
しかし、男は真剣に逃げている。
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数年が経った。
男は普通の日常を送っていた。
ただ、その日常の中に、
毛が一本。
男は毛から逃げるのをやめていた。
逃げても無駄だと悟ったからではない。
ただ、毛が日常の一部と化していた。
また、この数年の間に男は理解者を手にした。
その同士達は「あれは増えている」と言った。
誰も笑わなかった。
彼らは毛を無くすのを目指している。
男はその共同体にいる。
心が休まる気がするのだ。
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最近思う。
毛を無くす、
そんな事出来るのだろうか。
部屋を見渡す。
しばらく掃除してないな。
そう思うと、
ベッドの隙間。
毛が一本。
またか、
そう思いながらふと隙間を見る。
大量の毛。
それは黒いインクを流し込んだように密集している。
やはり、毛をなくすなんて無理な話だったんだ。
シーツで隙間に蓋をする。
今日はもう寝よう。
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今日も普通に生活をする。
朝、男は一本の毛を見つけた。
洗面所の白い陶器の上に、黒く細い毛が一本だけ。




