穴の中
少年は押し入れが大好きだった。
部屋にはベッドがあるけど、寝起きは押し入れの中で、 トイレやお風呂それに食事のときを除けば、一日のほとんどを押し入れの中で過ごしていた。もちろん学校なんて行ったりはしない。そんな無駄な時間を過ごすくらいなら、押し入れの中にいるほうが彼にとっては有意義な時間だった。
押し入れの中で、少年は何をするでもなくただボーっとしている。襖に閉ざされた空間は真っ暗だったけど、目が慣れてくると薄っすらと辺りの輪郭程度は把握できるようになる。じぶんを取り囲んでいる壁や天井との距離、それにじぶんの体の位置などなど。それでも長くそこで過ごしていると、だんだんじぶんが押し入れの一部のような感覚になってきて、そこにいるはずなのにじぶんという存在が消えていくのを感じる。
少年はその感覚が好きだった。怖いと思ったことは一度もないし、むしろその空間にいればいるほど外に出るほうが怖いと思うようになっていた。できることなら一生ここから出ないで済めばいいのにと思うくらい。すべてが遮断された世界で、じぶんという存在さえも感じないことが、彼には煩わしくなくて心地良かった。
そんなある日。いつものように押し入れの中で寝そべっていると、ふと空間の隅に小さな穴があることに少年は気がついた。ちょうどじぶんの左足の辺り、視界の左隅。身を起こし、微かに明るいその穴のほうに顔を近づけてみる。大きさは小指程度、その中から淡い光が漏れている。さらに顔を近づけて、片目を瞑って中を覗いてみると、光はふっと消えて、穴の存在自体が暗闇に紛れて見えなくなった。穴があった辺りを手で触ってみたが、 それらしきものは発見できなかった。
目の錯覚だったのかもしれない。少年はそう思ってまた寝そべった。この家がどれくらい古いかはわからないけど、目で見えるくらいの穴がもし開いていたら、それは問題だし、ましてや中から光が漏れるなんてありえるわけがない。そう思ってその日は穴のことを考えるのはやめにした。
しかし数日後、また足元が気になって見てみると、そこにはやっぱり穴があった。それもこのまえよりも大きくなっている。だいたい少年の拳と同じくらい。中を覗いてみると、その先に町が見えた。遠くってほどではないけど、目のまえという距離でもない辺りに。ちょうど夕暮れどきだったのか、穴からは夕焼けのような赤い光が漏れていたけど、それもすぐに暗闇に飲み込まれていって、穴はまた消えてなくなった。
この壁の向こう側に町がある。普通に考えればありえないことだったが、少年はじぶんの目で見たその光景を信じた。ありえないことでも、この向こう側には確かにぼくの知らない世界があって、ただ今はまだ覗くことしかできないんだと、少年は思った。
次の日から少年はその穴を探し続けた。もう押し入れから出ることはなく、一日中そこにいるようになった。穴は毎日ではないけど、少しずつ大きくなりながら彼のまえに姿を現した。穴が大きくなるたびに、その中の世界を彼は知ることができた。最初は違目に見る町だったのがその町全体、そしてそこに暮らす人々の生活まで。時間は限られていたけど、少年はだんだんとそこにいるしぶんの姿を想像できるようになるまでになっていた。
そしてついにその日は来た。最初に穴を見てから数ヶ月が経っていた。足元にふっと視線を向けるとそこには穴があった。目で見てわかるくらいの大きさになった穴が。体がすっと入るほどの大きさではないにせよ、頭くらいは入りそうだから、あとは上手いことやればあの中に入ることができるはず。そう思った少年は身を起こし、穴に身を寄せ、まずはそこに頭を突っ込み、それから身をよじらせながら穴の中に入っていった。痛みはあった。でも少し我慢すればできないことはなかった。穴の中からは町は見えないけど、強い光の中に包まれているのは気分が良かったし、その高揚感は奥へと進めば進むほど増していき、少年の体が穴の中に入りきると、押し入れの中は再び暗闇に閉ざされた。
そこにはもう穴なんてなかった。ただの閉ざされた空間があるだけで、少年の姿もなくなっていた。




