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シスコン夫と結婚したはずですが、どうも様子がおかしいです  作者: 槙村しろ


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3.幸せな子爵夫人


 茶会を終えてサルセド侯爵邸を出たときには、日は既に沈みかけていた。夕方の冷えた空気が、ディアナの火照った頬をそっと包み込んだ。

 

 脳裏には、アルフォンスの言葉が何度もよみがえる。


――あなたのような美しい妻を放っておけるなんて、公爵様の気がしれませんね


 どうして、彼は自分などを気にかけるのだろう。アルフォンスのような若く有望な令息であれば、もっと美しく、高貴で、なにより未婚の令嬢たちが放っておくはずがない。


 恋焦がれて結ばれた夫婦ではないとはいえ、夫がありながら他の男の言葉に心を乱されている自分に、ディアナは嫌気がさした。

 

 

 屋敷へ戻ると、ラウルは所用で王の宮殿へ向かっており、不在であった。それを聞いた時、ディアナは密かにほっと胸を撫で下ろした。

 何もやましいことは無いが、今は顔を合わせる自信がなかった。

 

 

 談話室では、リリアが一人読書に耽っていた。手にしているのは『アストリア王国全史』。ラウルの書斎から持ち出したものだろうか。

 

 ディアナが窓際の寝椅子に座ると、リリアは手元の本から視線を上げた。


「おかえりなさい」


 その何気ない一言に、ディアナは少し面食らった。公爵邸に嫁いでからというもの、リリアとまともに挨拶を交わしたことなどなかったからだ。


「た、ただいま戻りましたわ」


 ディアナはなるべく自然に、愛想良く返した。

 

「侯爵夫人のお茶会はいかがでしたの? 外国から芸術家たちを迎え入れているのでしょう?」

 

 そう尋ねるリリアの表情は、いつになく切実だった。

 過保護なラウルによって、リリアは社交の場への参加が禁じられている。だからこそ、外の華やかな世界が気になるのだろう。ディアナはそう考えた。

 

「とても素晴らしかったわ。特に管弦楽団の演奏は、これまで聞いたどの楽団よりも優雅で情熱的だったの。さすがルミナールの元宮廷楽団ね」


「……そう」

 

 それを聞いたリリアは、ふっと視線を外し、どこか遠くを見つめた。

 その青いガラス玉のような瞳からは、感情がまるで読み取れない。


「……二人で何の話をしているんです?」


 不意に背後から声がした。

 驚いたディアナが振り向くと、いつのまにか帰宅したラウルが、部屋の入り口に立っていた。


「なんでもないわ」


 リリアは淡々とそう言うと、読みかけの本を閉じ、自室へと戻っていった。


 後に残されたディアナは、気まずさを振り払うように、努めて明るい声でラウルへ話題を向けた。


「そういえば、今度、友人をこの屋敷に招待してもよろしいかしら?」


「ご友人?」


 ラウルがわずかに眉を上げる。


「エレナ・サラサール子爵夫人よ。子供の頃からの友人で、侯爵夫人のお茶会で久しぶりに再会しましたの」

 

「それは構いませんが……」


 ラウルの瞳の奥が鋭く光った。


「招待するのは子爵夫人お一人ですか?」


 その質問に、ディアナの心臓が跳ねる。

 ラウルはなぜそのようなことを尋ねるのだろうか。まさかアルフォンスのことを、どこからか聞きつけたのだろうか。


「ええ、そのつもりですけど、それが何か?」


 動揺を押し隠すようにそう返すと、ラウルはすぐにいつもの穏やかな表情へと戻った。


「いえ、それなら良いのです。最近は何かと物騒ですから、念のためです」



 エレナ・サラサールは理想的な貴婦人である。

長いまつ毛に、艶やかな真紅の唇、陶器のように白く透き通る肌と、人形のように整った顔立ちに、ショートボブがよく似合っていた。

 

 五歳年上の彼女を、ディアナは昔から姉のように慕っており、ディアナの父が病の倒れるまでは、頻繁に互いの家に行き来する間柄だった。


 公爵邸の応接間で、シルク張りのソファに腰を下ろした彼女は、優雅な所作で紅茶のカップを持ち上げる。

 

「公爵様に嫁ぐことになったと聞いた時には心配したけれど、元気そうで安心したわ」


 そう言ってエレナは向かいに腰掛けるディアナを、頭の先からつま先まで、まじまじと見つめた。

 

「公爵様は今日はどちらに?」


「さあ? 午前中はリリア様――ラウル様の妹と庭を散歩していらしたけれど、昼食のあと、お一人でどこかへ出掛けてしまわれたわ」


「そう……」

 

 ディアナが答えると、エレナはほんの僅かに表情を曇らせる。そして、優しい声で尋ねた。


「……ねえ、ディアナ。あなたは今幸せ?」


「あの家にいた頃よりは、ましよ」


 口をついて出た言葉は、思っていたよりも冷たく響き、ディアナ自信も内心驚いた。


 けれど、それは紛れもない本音だった。

 実家の伯爵家で過ごした、針の筵のような日々に比べれば、今はずっと穏やかだ。


 母の形見まで奪っていった継母と異母妹とは違い、この家の人々はディアナから何も奪わない。

 美しい絹のドレスに身を包み、温かい食事を摂り、豪奢なベッドで眠る。

 そんな日々を、もう何度繰り返しただろう。


 連日の水仕事で荒れていた手も、今ではすっかり元に戻っていた。


 これを幸せと呼ぶのだろうか。


 答えの出ないまま黙り込むディアナを、エレナは優しい眼差しで見つめていた。

 

「あなたに、幸せになるコツを教えてあげる」


 エレナの形の良い唇がきゅっと弧を描く。


「夫に愛を求めないことよ」


 その言葉の意味がわからないほど、ディアナは子供ではなかった。


 ディアナたち貴族の女性に期待される役目は、何よりまず、子を産むことだった。

 いかに裕福な名門一族であったとしても、子がいなければその家はやがて途絶える。若く美しい妻であっても、子供を授からなければ、役立たずの烙印を押される。

 

 エレナは十八歳でサラサール子爵に嫁ぎ、七年間で男女四人の子供をもうけた。

 彼女にしてみれば、妻としての務めはすでに果たした、あとは自分の人生を生きるだけ、ということなのだろう。

 

「そんなに怖い顔をしないで。幸せな家庭を築くには、まず妻が幸せであることが大事。それだけの話よ」

 

 エレナは夫の代わりに、誰に愛を求めたのだろうか。

 ふと目に入った彼女の首筋には、薄く小さな赤痣が浮かんでいた。あれが彼女の言う幸せの証なのだろうか。



「今日は楽しかったわ。今度は我が家にもいらしてね」

 

 帰り際、玄関ホールまで見送りに出たディアナの手をそっと包み、エレナは美しく微笑んだ。

 その時、ちょうど自室から出てきたリリアの姿が、エレナの視界に入る。

 

「あの子が例の……」

 

 エレナはちらりと横目でリリアを見やり、何かに気づいたように、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

 そして、誰にともなく小さく呟く。

 

「愛人の子と聞いていたけれど……噂はあてにならないわね」

 

「え? それは……」

 

 どういう意味?

 ディアナが問いかけるより早く、エレナは優雅な足取りで外へ出て、迎えの馬車に乗り込んでしまった。


 残されたディアナは、遠ざかっていく馬車の後ろ姿を見つめながら、ただ茫然と立ち尽くした。

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