2.「偶然の出会い」
ラウル・アルバレスはシスコンである。それも、重度の。
ディアナが公爵家へ嫁いで一ヶ月が経った。
ラウルとの結婚生活は、想像していたよりもずっと、快適なものであった。
ラウルは妹のリリアに対し、過剰なまでに甘やかす一方で、時に異様なほどの過保護ぶりを見せた。
リリアが新しいネックレスを欲しがれば、わざわざ宝石商を屋敷に呼び、彼女が望んだ商品は気前よく全て買い与える。
一方で、彼女の社交界へのデビューは、頑なに認めようとしなかった。
「リリアに悪い虫がついたらどうするのです。結婚? 冗談はよしてください。想像しただけで寒気がします」
そんな世迷いごとを、ラウルは至って真剣な顔で口にするのである。
リリアは公爵家の財力にまかせて贅沢の限りをつくす一方で、そんなラウルの束縛には、意外なほどおとなしく従っていた。
そしてディアナはといえば、そんな兄妹を、一歩引いたところから眺めていた。
リリアさえ絡まなければ、夫ラウルはとても穏やかで理知的な、理想の夫である。女主人としてディアナに屋敷を取り仕切る裁量を与え、夫婦で招かれた舞踏会ではディアナを完璧にエスコートしてみせる。
リリアもまた、ラウルに対しては傍若無人に振る舞うものの、ディアナには良くも悪くも無関心で、我儘を押し付けてくることはなかった。
長女としての立場を全て奪われた伯爵家とは違い、公爵家では、ディアナは十分に尊重されていた。
ラウルのシスコンぶりも、リリアの放蕩も、実家で受けてきた継母や異母妹の仕打ちを思えば、何倍もましなものである。
「申し訳ありません。今日の午後に約束していた観劇ですが、リリアが急にドレスを仕立てたいと言い出しまして、私は行けそうにありません」
だから、たとえこのように突然約束をすっぽかされたとしても、ディアナは笑顔で受け入れることができるのである。
「ええ、わかりましたわ。それでは、私一人で行って参ります」
※
屋敷にラウルとリリアを残し、ディアナは王立劇場へと馬車を走らせた。
王都の中心部に建つその劇場は、演劇に深い造詣を持っていた先代国王の意向により、三十年ほど前に設立されたものである。
当初は王侯貴族専用の施設であったが、当代になって平民にも解放され、今では休日ともなれば、多くの老若男女で賑わう場所となっていた。
人で溢れるロビーを避け、ディアナは、目当ての演目が始まるまで、貴族専用の喫茶室で時間を潰すことにした。
喫茶室では、同じように開演を待つ紳士淑女が世間話に興じていた。
「ディアナ様、ごきげんよう」
「今日は公爵様はご一緒ではありませんの?」
ディアナが空いている席に腰を下ろすと、顔見知りの婦人たちが声をかけてきた。
「えぇ、まぁ……」
ディアナが曖昧に笑って言葉を濁すと、婦人たちは事情を事情を察したようだった。
「ディアナ様も大変ですわね」
「本当に、先代の公爵様は真面目で誠実な方でしたのに、どうしてラウル様は……」
同情と嘲りが入り混じったその言葉に、ディアナが返答に窮した、その時だった。
一人の若い男が、すれ違いざまに給仕とぶつかった。その拍子に、給仕の運んでいたコーヒーが、宙を舞い、そのままディアナのドレスへと降り注ぐ。
「きゃあ!」
ディアナのライトグリーンのドレスに、茶色い染みがみるみるうちに広まっていった。
若い男は、給仕よりも早く、ディアナのもとへと駆け寄り、慌てた様子で声をかける。
「申し訳ありません! 私がぶつかったせいです。お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫ですわ」
気丈にそう答えたものの、ドレスの裾からは、コーヒーがぽたりぽたりと滴り落ちていた。それを目にした若い男は、みるみる顔色を失い、その場に膝をつく。
「あぁ、折角のドレスが……どうか私に弁償させてください」
「いいえ、結構ですわ。丁度帰るところでしたのよ。どうかお気になさらないで」
ディアナは咄嗟にそう言い繕った。
たとえこちらが被害者であろうと、公爵夫人がドレス一着のことで波風をたてるのは、外聞が悪い。寛大に振る舞うことこそが、上級貴族に求められる嗜みなのである。
無言で事の成り行きを見守る婦人たちの視線を感じながら、ディアナは、終始穏やかな態度を崩さなかった。
「ですが……」
「大丈夫ですから、お構いなく」
引き止めようとする男をやんわりと制して、ディアナはその場を後にした。
屋敷に戻り着替えをしているうちに、開演時刻を過ぎてしまい、その日ディアナが観劇することは叶わなかった。
※
数日後、ディアナはサルセド侯爵夫人主催の茶会へと出席した。
例によってラウルは留守番である。リリアの「新しい靴が欲しいの。職人を呼んでちょうだい」という鶴の一声で、屋敷に残ることになったのだ。
サルセド侯爵夫人といえば社交界屈指の好事家として知られ、そのサロンは、食事や音楽、調度品に至るまで、彼女の厳しい審美眼で選び抜かれた一流の品で揃えられていた。
とりわけ近頃は、隣国ルミナールで起きた市民革命の余波を受け、ディアナたちの暮らすアストリア王国へと亡命してきた宮廷芸術家たちを積極的に迎え入れている。
彼らの持ち込む異国風の音楽や詩、絵画などは、どれもアストリア王国の貴族たちにとってはもの珍しく、注目の的だった。
ディアナはシルクのソファに腰をおろし、紅茶を片手に室内楽団の奏でる優雅な旋律を楽しんでいた。
「おや」
そこに一人の紳士が通りがかり、ディアナの顔を見るなり足を止めた。
その男が、先日劇場でディアナのドレスにコーヒーを溢した当人だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「公爵夫人とはつゆ知らず、先日は失礼しました」
アルフォンスと名乗った彼はそう言って自然な所作でディアナの隣へと腰掛けた。彼はサルディア王国のさる高名な貴族の令息で、アストリア王国に留学中なのだという。
西方の島国サルディアは、アストリアと古くから通商と学術の交流を結ぶ友好国であった。
「公爵様のこと、噂には聞いております」
苦笑を含んだ声音に、ディアナは思わず顔を伏せた。夫のあの性分が外国貴族にまで知れ渡っているのかと思うと、さすがに居たたまれない。
「あなたのような美しい妻を放っておけるなんて、公爵様の気がしれませんね」
そう囁くと、アルフォンスはディアナの手を取り、そっと口づけを落とした。
この国では滅多に見られない灰色の瞳に見つめられ、どくん、と胸が反射的に跳ねた。
結婚するまで異性と親しく言葉を交わす機会などほとんどなかったディアナでも、この距離が決して健全なものではないと、はっきり理解できた。
「あ、あら、エレナ、久しぶりね」
咄嗟に視界に入った知り合いへ声をかけ、ディアナはやんわりと手を引き抜き、その場を離れた。




