ログインボーナス
「弊社としては、このような対応をされるお客様とのお取引は見直しを検討せざるを得ません。いかがいたしましょうか」
受話器を握る鷹野さんの声は、いつものヘラヘラした調子とは別人のように淡々と相手を追い詰めていく。
営業部のエースとして、彼が、私のために、本気で怒っている――。
いつもいつも私の仕事の邪魔をする人がいた。
「あっ、お姉さん! この子の頼んだやつを俺にも!」
「高野さん……。一緒に食べるつもりはないんですが?」
女と見たらすぐ声をかけるナンパ野郎としてこの会社で有名なこの人は、営業部のエースとしても名を馳せている。
なのに、社員食堂で私がなけなしの休み時間でありつけたランチを邪魔しにくるのだ。
昼休みのランチは一人の方がいいと思って同期とも食べずにいるのに、何故こうなった。
私が拒否しても、平気な様子で椅子を引いて隣に座る。しかもこちら側に寄せて座る。
自分の椅子を座ったまま引きずって距離を取っていると、ため息交じりにへらへら話しだした。
「遠慮すんなって。俺、みさきちゃんとメシ食べるの好きなんだよ」
「遠慮しかありませんし、はっきり言うと一緒に食べたくありません」
また笑った。本気で嫌がられてるのに、笑うのはどうかしている。私を舐めてる証拠だ。
私が拒否の姿勢を出しても、なぜかまったくダメージを受けない。
「そんな冷たくすんなよ〜。俺、今日めっちゃ頑張ったんだよ?」
「他の日は頑張ってないんですか?」
「ほら、今日締め日じゃん? 営業トップ取ったご褒美に、君の隣座ってよくない?」
「営業部の成績と私に何の関係が?」
「いやぁ、会社のためになってるじゃない」
「あと『隣に座らせて』というのは座る前に言うべきでは?」
「……今日も言葉が鋭くていいねぇ! 元気な証拠だ」
褒めているつもりらしいが、こちらは一切元気ではない。むしろこの人のせいで昼休みの半分が休むどころじゃなくなってる。
横に異性がいると人より免疫がないせいか、ご飯の味もよく分からないまま、とにかく口へかき込むしかないのだ。
「そんな嫌わなくてもさー? 俺、みさきちゃんにだけ優しいって言われるよ?」
「……ふっ、それを言ってる人を是非目の前に連れてきてほしいです」
「毎日こうして顔見に来てるのにー」
「ログインボーナスじゃないんで。私にとってマイナスしかないです」
言い返すと、この人は妙に嬉しそうに目を細めてくる。なぜそこで喜ぶのか本当に意味が分からない。
私がどれだけ拒絶しても、この男は一切引かない。理解不能だ。
「ご褒美だと言うならここで食べずに、外で特別美味しいものでも食べる方がよっぽどご褒美ですよ」
「えっ、一緒に行く!?」
「行かないです。電話番もあるし早く戻らないといけないので失礼します」
「あー、そっか。頑張ってね!」
「……」
何が嫌って『(電話番)頑張ってね!』と言ってくることだ。……私が電話番苦手なのを知っている。
対応している私を見て気づいたのか、人づてに聞いて分かったのかは知らないけど、あの人にバレるのは悔しかった。
嫌味じゃないのだろう。それは分かる。
……私の方が年齢も含めて社会人として全くの後輩なのに、なんであの人にはこんなに悔しいが出るんだろう。
別に本気で嫌なら別のところで食べればいいだけで、正直人から「ぼっち飯」呼ばわりされてる私に寄ってくることは人助けの気持ちもあるのかもしれない。
そんな人に酷いことを言っている自分が嫌になる。
上司は会議で昼過ぎまでいないし、他の同僚も忙しくて本当にフロアに一人で電話番をするのはあまりない。
お昼休みと違って仕事での一人はいやだけど、仕事なのでしょうがない。
電話が鳴ったのでふっと息を吐いて、受話器を取った。
「お電話ありがとうございます、株式会社――」
『あの、さっき電話したものだけど? 全然折り返さなかったな、ああ!?』
開口一番、怒鳴り声が聞こえた。引き継ぎメモを探したが、該当するものが見当たらない。
一度受話器を少し耳から離す。心臓がバクバクと音を立てる。
「申し訳ございません。お客様はどのようなご用件で――」
『だから! さっき説明したって言ってんだろ! 何回言わせんの!?』
「恐れ入りますが、先ほど対応した者とは別の者でして――」
『は? 引き継ぎもできてねぇの? どんな会社だよ!』
前の担当者はさっき交代したけど、もしこのような電話があったなら必ず伝えるはずだし、引き継ぎをしないわけがない。むしろ何もなかったとしか聞いてないので、電話もなかったのでは……。
でもそれをこういう人に言えはしないので、まず確認をしなければ。
「大変申し訳ございません。改めて、お名前とご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
『お前ら、本当に仕事できねぇのな! 俺の時間なんだと思ってんの!?』
だめだ。全然話にならない。頭が真っ白になる。息が苦しい。
明らかにこれはクレーマーだと思ったが、でも相談する相手もいない今、こちらから電話を切るわけにはいかなかった。
「申し訳ございま――」
『謝ればいいと思ってんの? こっちは忙しいんだよ! お前のせいでどれだけ俺の時間無駄にしてんだ!』
「……お客様、内容がわかりませんとこちらも対応が――」
『さっき言ったんだから今すぐ解決しろよ! 給料もらってんだろ!?』
「はい。ですのでよろしければお名前やその内容を――」
『はいはいって言えばいいと思ってんのか? お前は何もできねぇのかよ!』
声が震えそうになるのをこらえる。まだ相手の怒声は止まらない。
『お前みたいな無能なんで働いてるんだよ!? 頭おかしいんじゃねぇの!?』
「申し訳ございません――」
『またそれ!? 何なの!? とにかくお前じゃ話にならねぇよ! 名前は!? 名前言え無能!』
「……私は山木と申し――」
『山木ね。覚えとくわ。お前のせいでどれだけ迷惑被ったか、ちゃんと社長に報告すっから!』
ブッ、と電話が切れた。受話器を置こうとしても、震えてうまく置けなかった。
――電話が切れた後、私はしばらく動けなかった。
静まり返ったフロアで、時計の音だけが聞こえる。上司も同僚も戻ってこない。
こんなに広い場所なのに、世界に自分ひとりだけ取り残されたみたいだった。
手は震え続け、汗はだらだら流れ続けて、デスクに落ちた。受話器を置いたまま、ただ呆然と座っている。
その時。
「……みさきちゃん?」
いつもより低い声が、すぐそばから聞こえた。
ゆっくり声の方へ顔を向けると、そこには高野さんが立っていた。
ついさっきまでの、へらへらと、嬉しそうに笑っていた顔とは大違いの表情で。
昼休みが終わる前に、また、私の邪魔でもしに来たのだろうか。
「……なに、どうした? ちょっと……」
私の手を見て、顔を覗き込んでくる――いつもと違うこの人と目が合ったと思ったら、私の目から涙がこぼれた。
「……だ、大丈夫……です」
本当はそうじゃないのに、口からはそれしか出なかった。
彼は私を見て息をのみ、たちまち眉を寄せた。
「大丈夫なわけねぇだろ! 手も、顔色も……何があった? 誰から?」
『誰から、何をされたか』。言いたいけれど、それが分からない。
「……おそらく、クレーム、です……。名前や内容を何度も……確認したけど言ってくれずに……怒鳴られて……それで」
ちゃんと続きを言おうとしたが、そこまで言った瞬間、また視界がぼやける。
「……っ、すみ……ません……」
涙がまた勝手に落ちた。
泣きたかったわけじゃない。安心したわけでもない。ただ悔しくて、情けなくて、でももう抑えられなくなっただけ。
横では、あの人が深く息を吐いていた。
流石に分かる。私のことで怒って、その怒りを抑えようとしている。拳を握りしめて、それから、ゆっくりと緩めた。
「……みさきちゃん、大丈夫。何も悪くない」
みさきちゃんと呼ぶ声も、その後も軽さが全くなく、でも優しい声で、私に語りかける。
「電話、録音されてる?」
「……はい」
「じゃあ、後で確認させて。名前も用件も言わないで一方的に怒鳴るなんて、クレームにしても悪質だ」
彼はポンポンと二度私の肩を叩いた。
「俺がなんとかする。絶対に」
静かに、でも目には今まで見たことのない強い光を宿してこちらを見つめる。
いつものムカつくような笑みとは違って、口角を少しだけ上げて微笑んでいた。
「まずはしばらくここから離れて……ちょっと休んだ方がいい。な?」
そう言って彼は背中を向けた。
ちらりと見えた横顔は、ちっとも笑っていなかった。
何もする気になれず、休憩室のソファに座って、しばらくぼんやりしていた。
時計を見ても、時間の感覚がうまく脳に入ってこない。
それでも少しは落ち着いたので、あの電話の件が気になった。
フロアの方へ戻ろうと思い、廊下の角からそっと様子を伺う。
するとあの人が、私のデスクから電話をしている。録音を聞いてその場で電話したのだろうか。
いつものヘラヘラした様子は、まったくない。
「――ええ、先ほど弊社の山木に対して、大変失礼な対応をされましたので」
声は明快で聞き取りやすく、でもいつも私に接するのと違って冷たい。
受話器の向こうから、大きい声で何か言い訳するような声が聞こえる。
「いえ、録音がございますので、内容はすべて確認しております」
高野さんは、淡々と続ける。
「お客様は『さっき電話した』とおっしゃいましたが、弊社には該当する着信記録がございません。おそらく、他社様と間違えて架電されたのではないでしょうか」
……私は、思わず耳を澄ませた。私もそうなんじゃないかと思っていただけに。
「加えて、お名前もご用件も一切お伝えいただけませんでした。それでは、こちらとしても対応のしようがございません」
相手が何か言い返そうとしているのだろう。
でも、彼は一切引かなかった。
「さらに申し上げますと、弊社社員に対して『無能』『頭おかしい』といった発言がございました。これは業務上のクレームではなく、人格否定です」
その声は怒鳴るわけでもなく、ただ静かに、でも確実に相手を追い詰めていく。
「弊社としては、このような対応をされるお客様とのお取引は見直しを検討せざるを得ません。いかがいたしましょうか」
しばらく沈黙が続いて……フロア全体に緊張感が漂っているのが、ここからでもよく分かる。
「そうですか。では、山木本人への謝罪をお願いできますでしょうか。……申し訳ございませんが、本人に直接という形は一切お受けできませんので、今後のご連絡はすべて私か担当部長宛てでお願いいたします」
あの人が電話を切った。それから、大きく息を吐いて――
「はー。まったく、面倒なことしやがって」
呟いた彼の横顔は、疲れているのに少し満足げに見えた。
私はフロアには向かわず、休憩室へ戻った。今の私は、あの中に入る勇気がなかった。
胸の中に、言葉にできない何かがどんどん広がっていく。
あの人が私のために、あそこまでやってくれたのを見てしまった。
しかも、相手を罵倒するわけでもなく、冷静に、理路整然と……。
何も知らなかったという後悔と、それでも助けてくれた感謝で、胸が苦しくなった。
「あの件、もう解決したからねー!」
ノックもそこそこに、休憩室へ飛び込んできた彼はやけに上機嫌で、いつも通りだった。
でもさっきの姿を見たら……。言い返そうと思えばいくらでも言える人なのに、私みたいな小娘相手には、本気を出さずに笑って受け流してくれていたのだ。
なんだか、そう知ってしまったら言葉が出ない。
「……あ、まだしんどい? 大丈夫じゃない?」
まごついた私に気づくと、さっと不安げな表情に変わった。
「私、申し訳なくって……いつもご迷惑ばかりかけて……」
「いや、向こうがクソ……あーうん、やっぱクソでいいか。どうしようもないのに当たっただけだから」
「すみません。ありがとうございました……」
「あー……大丈夫じゃないか。やっぱり早退した方がいいかもな」
明らかに私がトーンダウンしたのを、まだクレームのせいだと思っているらしい。
それもあるけど、違うのだと彼に謝罪も込みで伝えないといけない。
「高野さん」
「うん?」
「さっき、見てました」
ギョッとこちらを見た顔はさっきの、『営業部エース』の顔をしていた。でもほどなくそれは引っ込んでしまう。
「あれ、見てた? まあ、あんなの……普通だよ」
「普通じゃないです」
照れ隠しでもない、平然という感じがやっぱりちょっと悔しい。
もしかして、私がいつも悔しかったのは、彼に憧れていたから……?
「いつもと違ってました」
「それは、みさきちゃんに対してはいつも本気だからで」
「……は?」
何を言われたのか、瞬時には理解できずにまた口からは無礼な言葉が出てしまう。
「すみません。今、なんと?」
「『それは、みさきちゃんに対してはいつも本気だからで』って言ったけど?」
「はぁ?」
「ずっと言ってるじゃん。毎日顔見に来てるって。みさきちゃんが好きだからさ」
「……なにを」
「やだねぇ。俺が愛想いいせいで変な噂流れるし、君にこう言っても伝わらないのもそのせいっぽいし。……まぁみさきちゃん来る前はそれに近かったけど」
本気で意味が分からない。それが顔に出ていたのか、むこうも首を傾げた。
「すみません。一体何があなたをそうさせたのかが、まったく飲み込めません」
「あ、はは……。ちょっと元気になったのはいいさ。ただ、ここまで伝わってないの、悲しくなるんだけど」
「だって、高野さんと私って……」
「君が入社してすぐくらい、まだ新入社員で固まってランチしてたところに、俺、割り込んでこなかった?」
「……」
「覚えてないね!? 俺隣に座ったのに?」
「当時の……嫌な思い出だから忘れちゃったのかもしれません」
「確かに当時から変わらず席離そうとしてたし、きつい感じだったけど、でもそこが『違うな、この子……』って」
どうしよう。憧れが悔しさだった説が私の中で崩れていく。
でもさっき助けてくれた彼は、電話してた時の彼は、いやでも普段これっていうのは――。
「俺に気使う人だと結局、俺も気を使っちゃうんだけど、君は違ったんだよなぁ。『一緒に食べたくない』『マイナスしかない』なんて普通言わないでしょ」
「……社会人として率直過ぎました」
「いや、今日だって『ログインボーナスじゃないんで』とかさ! 話聞いてると楽しいのよ!」
「……流石に、恥ずかしいです」
「俺もさ、本気だから好きな子と話してるとなんでも嬉しくてにやけてんの。他の人にどうなのか、今度から俺にもっと興味持ってみてね?」
「はぁ……そんなの言われなくても。今日は私、これまでのあなたを全然知らなくて、心底後悔したんですから」
「――えっ?」
ぽかん、とした顔のあと、彼の顔が一気に赤く染まった。 あんなにクレーム相手でも流暢に喋っていたのに、今は口をパクパクさせている。
「な、なんですか」
「……あー、今の破壊力やば」
「なっ、感謝してるんです! そういうのじゃ」
「はいはい、そういうことにしておく。かーっ、うれしー!」
赤い顔を片手で覆って、指の隙間から私を見てくる目がまた細まる。
またへらへら笑ってる。でもそんなにムカつかないのは、今日恩ができたせいか。
そうだ、恩といえば……でもいいのかな、こんなことで。
「その、ログインボーナスではないんですが」
「えっ、詫び石?」
「今回の件で……もし、私と食事に行くのがご褒美になるのなら、是非その時はお供させてください」
「お、おいマジか。あり得ん……」
見てられないので少し顔を背けて、小声で付け足した。
「美味しいものなら、ですけど」
一瞬目を見開いた彼は、さっと腕をまくる。
「そんなん……任せとけって! 俺、店選びもすごいから。絶対満足させる!」
ガッツポーズまでして、今日一番のとびきりの笑顔になっている。その顔を見ていると、いろいろあったのが嘘のように心が軽くなっていく。
「……ふふ、期待してます」
思わず私まで笑ってしまう。
私を見た彼は、また耳まで赤くして、嬉しそうに何度も頷いていた。




