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2XXX年 万物博覧会

作者: 東城新

「……よしっ!」 最後になったパビリオンの出口で、(あきら)は公式スタンプ帳をパチンと閉じた。全ページに押された踏破の証であるスタンプが、大学1年の夏を捧げた何よりの勲章だ。


 友人や家族と、時には一人で、数えきれないほど通った大阪湾の人工島、夢洲ゆめしま。そこで開催された2025年大阪関西万博の、全パビリオン制覇。今日、この瞬間に、その途方もない自己満足に満ちた偉業は成し遂げられた。

「これは、一生モンだな」

 込み上げる達成感と、誰にも真似できないことをやり遂げたという密かな優越感。熱気の残る会場を背に、暁は帰路につく。車窓から見える、夜空の光点を横目に、現実へと引き戻す満員のバスに揺られていた。


 それから数日が過ぎ、万博の喧騒も過去のものとなった10月末日。閉幕のニュースさえも、日々の話題に埋もれかけていた。

 大学から戻り、散らかった自室のベッドに寝転がった暁のスマートフォンが、軽やかな通知音を鳴らした。差出人は「公益社団法人2025年日本国際博覧会協会」。もう終わったはずの万博から何のお知らせだろうか。


『暁様を、第1回万物博覧会へ特別にご招待いたします。』


「……は? 万物博覧会?」

 思わず声が出た。あまりに突拍子もない文面に、手の込んだ詐欺メールだと疑う。だが、何度確認しても送信元のアドレスは、見慣れた公式サイトのものと寸分違わない。

「なんだこれ……」

 いぶかしみながらも、暁はメールを読み進めていく。


『つきましては、暁様専属のナビゲーター、”ロゴス”がご案内いたします。』


「ロゴス……」 その名前を無意識に口にした、まさにその瞬間だった。

「やあ、呼んだかい?」

 穏やかで、心地よく響くような声がした。 暁は弾かれたようにベッドから半身を起こし、声のした方――部屋の入口へと視線を向ける。


 そこには、一人の青年が立っていた。

 年は暁と同じか、少し上くらい。シンプルな白いシャツに身を包み、人好きのする笑みを浮かべてこちらを見ている。


「だ、誰だあんた!? なんで俺の部屋に……鍵はかけたはずだぞ!」

 暁は混乱のあまり、ベッドの上を後ずさった。見知らぬ男が、鍵をかけたはずの自室に、音もなく現れたのだ。恐怖で心臓が早鐘を打つ。

 青年はそんな暁の様子に、少し困ったように眉を下げた。

「ああ、ごめんごめん。驚かせるつもりはなかったんだ。」 彼は両手を軽く上げて敵意がないことを示すと、改めてにっこりと笑った。


「僕はロゴス。改めて、君を第1回万物博覧会に招待しに来たんだ、暁くん。」

 ベッドの隅で壁に背をつけたまま、暁は目の前の謎の青年を睨みつけた。

「……万物博覧会って、なんなんだよ。」


 ロゴスと名乗る青年は、まるで警戒心など意にも介さない様子で、にこやかに答える。

「いい質問だね。君の知っている『万国博覧会』は、国や企業がその威信をかけて展示を行う祭典だよね? でも、僕らが開催する『万物博覧会』は、ちょっと違うんだ。」


 彼は楽しそうに、指を一本立てた。


「出展されるのは、”この世のすべて”。物質、現象、そして概念さえもがパビリオンになっている。そんな究極の博覧会が、未来で開催されているんだよ。僕はそのナビゲーター。君という最高のお客さんを、そこに案内するために来たんだ。」


「……未来に?」 暁の声に、疑いの色が濃く混じる。「あんた、頭は大丈夫か?」


「はは、そう思うのも無理はないよ。」

 ロゴスは気分を害した様子もなく、楽しそうに笑うだけだ。

「でも、考えてみて、暁くん。大阪万博のすべてを巡った君の、その尽きることのない好奇心。それを満たせる場所が、本当にあるとしたら?」

 彼は、いたずらっぽく片目をつむいだ。 「――どう、ワクワクしてきた?」

 暁はゴクリと喉を鳴らした。目の前の青年、ロゴスの話は、まだ半分も信じられない。未来? 万物博覧会? まるで出来の良すぎる夢のようだ。

 だが、万博協会からのメールは本物だった。目の前の彼が、鍵のかかった部屋に音もなく現れたのも事実だ。そして何より――彼の言葉が、大阪万博を制覇し、燃え尽きたようになっていた暁の好奇心の芯に、再び火を灯しかけていた。


 知らない世界がある。まだ見るべきものがある。その誘惑は、恐怖に勝っていた。

「……行くよ」

 迷いを振り払うように、暁は絞り出す。自信なさげな、しかし確かな意志を込めた声だった。


 その答えを聞いて、ロゴスはこれまでで一番嬉しそうに微笑んだ。

「うん、君ならそう言うと信じてた。じゃあ、行こうか!」

 彼が軽やかに指を鳴らすと、暁の部屋の壁、本棚があったはずの場所に、すうっと一枚の扉が現れた。何の変哲もない、シンプルな木製の扉だ。ただ、あるはずのない場所に、それはあった。


「ようこそ、第1回万物博覧会へ!」


 ギィ、と古風な音を立てて扉が内側へ開く。その隙間から漏れ出したのは、純白の光。それは太陽のように力強く、しかし月光のように優しく、暁の散らかった部屋の隅々までを平等に照らし出していく。

 暁はあまりの眩しさに腕で顔を庇った。目を開けてはいられなかった。


「もう目を開けても大丈夫だよ、暁くん」

 ロゴスの穏やかな声に導かれ、暁はゆっくりと瞼を上げた。光の洪水は消え、目の前には、どこまでも続く純白の空間が広がっていた。床も、壁も、天井さえもない。ただ、白。

「どこだ、ここ……?」

「万物博の入り口、オムニシエントランスさ。」 隣に立つロゴスが、こともなげに言う。

 暁は、自分の足元がおぼつかないことに気づいた。白い平面を確かに踏んでいる感覚はあるのに、まるで無重力空間にいるように体が軽い。

 ふと、遠くに人影が見えた。自分たちと同じように、誰かと話しながら歩いている。

「あ、あれは……他の来場者?」

「その通り。万物博はこの時代の人類にも大人気なんだ。」

 ロゴスは楽しそうに続けた。

「この万物博はね、展示内容のすべてが、君のためだけに調整――”パーソナライズ”されているんだ。君が日本の大学生で、尽きない好奇心の持ち主だから、展示は日本語で、少し知的な内容になっている。他の人には、その人に合った全く別の世界が見えているのさ。」

「俺だけの……万博……」

「そして、何を隠そうこの僕もね。」

 ロゴスは芝居がかった仕草で自分を指差した。

「君の探求心を満たすのに最適なナビゲーターとして、パーソナライズされた存在なんだ。だから、わからないことがあったら、何でも僕に聞いて。」


「さて、説明ばかりもなんだし、実際に歩いてみようか。まずは君が一番よく知っている場所で、この万物博の凄さを体験してほしいんだ。」

 ロゴスはそう言って、純白の空間を歩き始めた。暁も慌てて隣に並ぶ。 不思議なことに、数歩進んだだけで、空気が変わった。無機質だった空気に、潮風と九月の太陽の熱が混じり始める。無音だった世界に、遠くから聞こえる喧騒と、軽快なBGMが流れ込んできた。


 白い平面だったはずの足元は、いつの間にか見慣れた地面に変わっている。暁がはっと顔を上げると、目の前には、あの巨大な木造のリング――大阪万博のシンボルである大屋根が、青空を背景に佇んでいた。

「これ……は……」 暁は呆然と立ち尽くす。

「夢洲……? なんで……万博は、閉幕したのに!」

 夏の思い出が蘇る。西に東に歩き回って、時には何時間も行列待ちをした、あの夏休み。

「驚いたかい?」 ロゴスは満足げに頷いた。

「万物博ではね、その時代を象徴するイベント、つまり万国博覧会をそのままの形で保存しているんだ。君が夢中になったこの万博も、僕たちの時代から見ればかけがえのない歴史の一つ。だから過去の万博も含めて、こうしてパビリオンになっているのさ」

 暁は、まるで初めてここに来た子供のようにはしゃいでいた。


「すごい、すごいよロゴス! 全部そのままだ! ねえ、パビリオンも完璧に再現されてるのか?」

「もちろんだとも。さあ、どこへ行きたい?」


 ロゴスは、自分のことのように嬉しそうな暁の姿を見て、満足げに問いかける。

「決まってる! 大阪ヘルスケアパビリオンだ!」

 暁は、ほとんど食い気味に答えた。

「『ミライのじぶん』がテーマの、目玉パビリオンの一つだね。いいセンスだ。行こうか」

 二人は、賑わう人々をかき分けるようにして歩き出す。東ゲート側から向かえばすぐだ。見えてきた、あの特徴的な白い屋根と、建物横の丸い水槽。すぐ横のステージからは、ちょうどイベントが始まったのか、観客の大きな歓声とアップテンポな音楽が聞こえてくる。


 すべてが、記憶の中の光景と寸分の狂いもなく一致していた。

「暁くん」 パビリオンの入り口に差しかかったところで、ロゴスがいたずらっぽく笑う。

「メインの『リボーン体験』、もちろんしていくんだろう?」

「当たり前だろ!」 暁は目を輝かせ、力強く頷いた。

「何度体験したって面白いさ!」


 リボーン体験のルートへ足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のようにすっと遠ざかり、心地よい静寂が二人を包んだ。あれほどいたはずの他の来場者の姿はなく、暁とロゴスのための特別な空間が広がっている。

「すごいな、待ち時間ゼロだ。」

「それもパーソナライズさ。君の体験が常に最高のものになるように、この世界のすべてはリアルタイムで調整されているんだよ。」

 ロゴスの説明に感心しながら、暁は受付で渡された「リボーンバンド」を手首に装着し、促されるままに「カラダ測定ポッド」の中へ入った。

 カーテンをそっと閉める。内部は柔らかな光に満ちていた。


(よし……今回はどうだ?)


 初めてここを訪れた日以来、暁は密かな努力を続けていた。夜更かしを控え、スキンケアやヘアケアにも気を遣う。すべては、このポッドが弾き出す「カラダ測定年齢」を、少しでも実年齢に近づけるためだ。一種のゲームであり、自分自身への挑戦でもあった。


【測定を開始します】


 アナウンスの指示に従って測定を行う。いくつかの測定の後、目の前のスクリーンに結果が浮かび上がった。


【カラダ測定年齢:21歳】


「……よし!」 暁はポッドの中で、小さくガッツポーズをした。実年齢の19歳には至らないが、前回の測定結果より確実に若返っている。努力は裏切らなかった。

 ポッドから出た暁に、ロゴスが微笑みかける。

「いい結果だったみたいだね。」

「ああ。でも、大事なのはこの結果をどう受け止めて、次の行動に繋げるかってことなんだよな。このパビリオンが伝えたいのは、きっとそういうことだ。」

 暁が少し得意げに言うと、ロゴスは心から感心したように頷いた。

「その通りだ。さすがだね、暁くん。全パビリオン制覇は伊達じゃない。」


 カラダ測定の後も、暁はロゴスと共に様々な体験エリアを巡った。 AIが提案する自分にとって最適な食事を知り、未来の都市で活躍するモビリティやインフラを知る。そのすべての体験は、手首のリボーンバンドに記録されていく。


 そして、いよいよ最後のエリア、『リボーン・パレード』にたどり着いた。自分のアバターが、これまでの体験結果を反映してパレードに参加する、このパビリオンの集大成だ。暁がリボーンバンドを端末にかざすと、目の前のモニターに総合評価が表示された。ずらりと並んだ『A』の文字が踊る。現実世界での地道な努力と、このパビリオンでの体験が見事に実を結んだ瞬間だった。


(――今の選択が、未来に繋がる)


 このパビリオンが掲げるテーマが、すっと胸に落ちてくる。まさに、『カラダはひとつ、ミライはむげん』だ。自分の行動が、きちんと結果として返ってくる。だから、この場所がたまらなく好きなのだと暁は改めて思った。


「楽しかったかい、暁くん。」

 満足げにモニターを眺める暁に、ロゴスが声をかけた。

「君は、こういうのが好きだろうと思っていたよ。」

「ああ、すごく楽しかった。……なあ、ロゴス。次は、イタリア館に行ってもいいか?」

「もちろんだとも。人間の『美』の探求を象徴する、素晴らしいパビリオンだからね。」

 ロゴスが頷くと、二人の周囲の景色が、柔らかく溶け始めた。

「なあロゴス、イタリア館までは歩いていきたいんだ。この景色、もう少し見ていたいから。」

「いいとも。君の好きなように楽しんでほしい」


 ロゴスの快諾を得て、二人は再び大屋根リングの下をゆっくりと歩き始めた。 左手に見えるのは、『シャインハット』。夕陽を反射して輝くその姿は、まるでUFOのようだ。ポルトガル館のロープの壁を目印に右へ曲がると、宝石のように煌びやかなトルクメニスタン館が目に飛び込んでくる。

「うわ、クウェート館は、やっぱりすごい行列だな……」 相変わらずの長蛇の列を横目に、会場の中心部へ。すると、右手側に周囲の喧騒から切り離されたかのような、異質な建物が見えてくる。石黒館『いのちの未来』だ。すべてを吸い込むような漆黒のそれは、まるで今まさに水面に浮かび上がった潜水艦のような、静かな威圧感を放っていた。

「あ、EARTH MART」 前方に見えるパビリオンを指差して、暁が呟く。

(あそこで、日本の食文化の豊かさを改めて知ったんだよな)

 さらに進めば、美しい曲線を描くオマーン館。

(あそこで買った大福を食べながら、友達と花火を見たっけ……)

 一つ一つの建物が、色鮮やかな記憶を呼び覚ます。ロゴスは、そんな暁の横顔を興味深そうに眺めていた。

 再びリングの下をくぐり抜け、目的のイタリア館が見えてくる。

「はぁ……やっぱり、万博は歩いてるだけでも最高に楽しいな。」

 暁は、心からの実感を込めて言った。

「そうだね。」 ロゴスは穏やかに微笑んだ。


「じゃあ、行こうか。」 ロゴスに促され、二人はイタリア館の中へと足を踏み入れた。 一度経験した、圧巻のオープニング映像。それが終わると、巨大なスクリーンが静かに分かれ、荘厳なギャラリーへの道が開かれる。この演出は、何度見ても胸が高鳴る。

 ひんやりと静かな空気に満ちた空間。暁は、慣れた足取りで一つの彫刻を目指した。

「ロゴス、こっちだ。俺が一番好きなやつがあるんだ。」

 そこに佇んでいたのは、『ファルネーゼのアトラス』。 逞しい巨神が、その肩に巨大な天球儀を背負っている。

「……やっぱり、すごいな。」

 初めて見た時と同じ、いや、それ以上の衝撃が暁の体を貫いた。一度見ているからこそ、その凄まじさがより深く理解できる。大理石に刻まれた筋肉の張り、浮き出た血管の一本一本、知っていてもなお、その迫力に圧倒されてしまう。

(そうだ、この重みだ……)

 二千年の歳月を耐え抜いてきた芸術だけが放つ、声なき雄弁さ。その存在感に、暁は息をするのも忘れ、ただただ見入っていた。


 しばらくして、隣に立つロゴスが静かに口を開いた。

「君は一度、これを見ているんだろう? なのに、初めて見たような感動を覚えているんだね。」

「ああ……」 暁は、彫刻から目を離さずに頷いた。

「一度見たからって、感動が減るわけじゃないんだ。むしろ、また会えた、みたいな……。うまく言えないけど、そういう気持ちなんだよ。」

「また、会えたか。」

 ロゴスは何かを噛みしめるように、暁の言葉を繰り返した。


 荘厳なギャラリーを出て、再び万博の賑わいの中に戻ってきた暁は、満足のため息をついた

「いやあ……やっぱり『本物』はいいね。魂に響くよ。」

 その無邪気な言葉に、ロゴスは一瞬だけ不思議そうな、それでいて面白そうな顔をして、すぐにいつもの笑みに戻った。

「気に入ってくれて嬉しいよ。……ねえ、暁くん。再現された世界もいいけど、せっかくだから、この万物博オリジナルのパビリオンも見ていかないかい? ここには文字通り、()()()あるんだ。」

「何でも、か……」


 その言葉は、暁の想像力を遥かに超えていた。宇宙の果て。生命の起源。歴史上のあらゆる出来事。まだ見ぬ未来のテクノロジー。選択肢が無限にあるということは、逆に一つの行き先も選べないということだ。


「……そうだなあ……」

 暁はしばらく考え込んだ末、テキトーに言った。

「じゃあ、リンゴとか……見れるか?」

 あまりに素朴なリクエストに、ロゴスはきょとんと目を丸くし、次の瞬間、堪えきれないといった様子でくすくすと笑い出した。

「面白いなあ、君は! 無限の選択肢を前にして、リンゴを選ぶ。うん、そういう人、たまにいるよ。いいチョイスだ。」

 ロゴスが楽しそうに頷き、一歩前に踏み出す。


「じゃあ、案内しよう。万物博の基礎、あらゆる形あるものを収めたエリア――『物質の海』へ」


 そう彼が告げると、周りの景色が、まるで水彩絵の具が水に溶けるように、輪郭を失い、混じり合い、新たな世界へと再構築されていくのだった。

 視界が白く薄れていく感覚の後、世界はゆっくりと色を取り戻していった。 最初に届いたのは、鼻腔をくすぐる、蜜のように甘く瑞々しい香り。間違いなく、リンゴの香りだ。

 完全に視界が開けると、そこには巨大な赤リンゴと青リンゴの形をしたパビリオンが、仲良く並んで建っていた。まるで本物のリンゴのように表面には露が光り、磨き上げられたようにツヤツヤと輝いている。


「ここがリンゴパビリオンだよ。さあ、中へどうぞ。」

 ロゴスに促され、暁は赤リンゴの建物へと足を踏み入れた。内部は、壁も天井もスクリーンで覆われたドーム状のシアターになっていた。


 やがて、ふわりと照明が落ち、世界が始まる。

 足元の大地に、一粒の種が埋められる。次の瞬間、目の前で芽が吹き、幹が伸び、枝が広がる。目まぐるしいタイムラプスで、リンゴの木がぐんぐん成長していくのだ。春夏秋冬が数秒で巡り、満開の花が咲いたかと思えば、青く小さな実を結ぶ。

 すぐ隣を、人の良さそうな農家の男性が通り過ぎ、愛情を込めて枝を剪定していく。彼の額の汗まで見えるようだ。やがて、太陽の光をいっぱいに浴びた真っ赤なリンゴが実り、収穫され、箱に詰められていく。

 場面は一転し、どこかの家庭の温かいキッチン。リンゴを受け取った小さな女の子が、シャリ、と音を立てて頬張る。その満面の笑みが、スクリーンいっぱいに映し出された。

(……なんか、いいなあ)

 自然の恵みと、人の労働、そして誰かの笑顔。一つのリンゴに、そんな温かい物語が詰まっている。暁の心は、じんわりと温かくなっていた。


 映像が静かに終わると、ドームの壁の一部がすうっとスライドし、次の部屋への通路が開いた。

 温かい映像の部屋から一転、次に現れたのは、星空のように無数の光がまたたく、広大で知的な空間だった。壁一面に、触れると動き出すインフォグラフィックや、立体的なグラフが浮かび上がっている。

「ここでは、リンゴに関するあらゆる『データ』を見ることができるよ。」

 ロゴスの説明通り、そこはリンゴにまつわる情報の宝庫だった。世界の生産量ランキング、品種ごとの輸出入の流れ、日本国内の都道府県別収穫量。それらが、美しい映像と共に直感的に理解できるようデザインされている。

 中でも、部屋の中央でひときわ異彩を放つ展示に、暁は目を奪われた。 直径50センチメートルはあろうかという、巨大なリンゴのオブジェだ。

「これは?」

「日本人が、一生涯で食べるリンゴの平均重量を、一つのリンゴで表現したものさ。約300kg。すごい量だろう?」

「うわ、こんなに食べてるのか……」

 暁はEARTH MARTの卵の展示を思い出していた。

「でもね」とロゴスは続けた。 「リンゴの重さは、物理的なものだけじゃない。人類の歴史や文化にも、大きな影響を与えてきたんだ。例えば……」

 ロゴスが壁の一面に手をかざすと、そこが荘厳な美術館の展示室へと姿を変えた。 デューラー、ルーベンス、クラナッハ……。名だたる巨匠たちが描いた、旧約聖書の『アダムとイヴ』が並んでいる。そのどれもに、禁断の果実である「知恵の実」として、リンゴが象徴的に描かれていた。

「単なる果物が、人間の『知性』や『罪』のシンボルになった。面白いと思わないかい?」

 ただの食べ物だと思っていたリンゴが、人類の物語と深く結びついている。暁は、知的好奇心をくすぐられるのを感じていた。

 知的な情報の部屋を抜けると、今度はまるで高級フルーツパーラーのような、明るく華やかな空間が広がっていた。壁沿いに並んだガラスケースの中に、世界中のリンゴの品種が、宝石のように展示されている。

「うわ、こんなに種類があるのか!」

 日本の「ふじ」や「紅玉」はもちろん、アメリカの「グラニースミス」、イギリスの「コックスオレンジピピン」など、大小、色、形、すべてが驚くほど多様だ。暁は、まるで初めて見る生き物の群れを観察するように、一つ一つのリンゴに見入ってしまう。

 それぞれの展示の前には、小さなボタンがついていた。試しに「世界一」という品種のボタンを押してみる。 その瞬間、ふわりと芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。それだけではない。

「……ん?」

 何も食べていないはずなのに、口の中に、蜜のように濃厚で上品な甘みがじゅわっと広がったのだ。

「な、なんだこれ!?」 驚いて隣の「ジョナゴールド」のボタンを押すと、今度は爽やかな酸味とシャキシャキとした食感のイメージが口内を満たす。

「ははは、驚いたかい?」 目を丸くする暁を見て、ロゴスが楽しそうに笑う。

「万物博ではね、嗅覚や味覚といった感覚も、情報として直接君の脳に送ることができるんだ。だから、食べなくても味がわかるのさ。」

「すごい……なんだこれ、めちゃくちゃ面白いぞ!」

 暁は夢中になって、次から次へとボタンを押し、まだ見ぬリンゴたちの「味」を体験していくのだった。

 品種比較の部屋を抜けた瞬間、甘く香ばしい、幸せな香りに全身が包まれた。 最後の部屋は、まるでお洒落なレストランのビュッフェ会場のようだった。温かい照明の下、世界中の料理家たちが考案したという、無数のリンゴ料理が美しく並べられている。

「うわー……! 全部美味そうだ……!」

 こんがりと焼き上げられたクラシックなアップルパイ。キャラメルのつやが美しいフランスのタルトタタン。意外な組み合わせのリンゴとチーズのサラダや、豚肉のソテーに添えられたソースまで、甘いものから塩辛いものまで、リンゴの可能性を最大限に引き出した料理の数々が、暁の食欲を刺激する。

「すごいな、全部試食できるのか?」

「もちろんだよ。」 ロゴスはにっこりと頷いた。

「前の部屋は味覚の『情報』だったけど、ここでは物質そのものを再構成している。気になる料理があったら、展示台のタッチパネルに触れてみてごらん。君のために、完璧な一皿を生成するよ。」


 言われるがままに、暁が一番気になったタルトタタンの展示台に近づき、リンゴの形をしたアイコンが光るパネルに、そっと指を触れた。

 すると、パネルの隣にあるテーブルからふわりと光が立ち上り、手のひらサイズの完璧なタルトタタンが一皿、目の前にすっと現れた。温かい湯気と共に、バターとキャラメルの香りが立ち上る。


「……うまっ!」

 一口食べて、暁は思わず声を上げた。カラメルのほろ苦さと、熱が通ってとろりとなったリンゴの甘酸っぱさが、口の中いっぱいに広がる。こんなに美味しいタルトタタンは、生まれて初めてだった。

 暁は、夢中になって様々な料理のパネルに触れては、その奥深さを堪能した。 「すごいよロゴス! リンゴだけで、こんなに……! もう、思い残すことはない……!」

 お腹も心も満たされた暁の満足げな様子を見て、ロゴスは嬉しそうに微笑んでいた。


「いやあ、素晴らしいパビリオンだった……!」

 リンゴの甘い香りがまだ残る出口で、暁は心の底から感嘆の声を漏らした。

「リンゴについて楽しく学べたし、何より未来の技術はすごいな。ボタン一つで完璧な料理が出てくるなんて。」

「気に入ってくれて何よりだよ。どうだい、暁くん? もっと色々見てみたくなった?」

「もちろん!なあロゴス、何かおすすめはあるか?」

 暁の期待に満ちた問いに、ロゴスは少し考えてから答えた。

「そうだね……。今体験したリンゴのような一般的なテーマのパビリオンは、僕たち万博協会が制作していることが多いんだ。でも、『固有名詞』――例えば特定の地名や人名なんかは、その主体が制作に協力しているから、一つ一つが個性的で面白いよ。何か、君が特に心惹かれるものはあるかい?」

「固有名詞……」

 その言葉に、暁の脳裏にある光景が蘇った。


(そういえば、2025年の大阪万博には『関西パビリオン』があったな……)


 自分は島根県出身だが、同じ山陰地方の鳥取県が、なぜかその関西パビリオンに出展していたのだ。鳥取の友人たちは喜んでいたが、少しだけ、本当に少しだけ、寂しいような、羨ましいような気持ちになったのを覚えている。 もし、この万物博に『島根パビリオン』があったなら。そこには、どんな故郷の姿が展示されているのだろうか。


「……なあ、ロゴス」 暁はおそるおそる、尋ねてみた。

「島根……とか、どうかな? 島根パビリオンなんて、あるのか?」

「もちろん!」

 ロゴスは、待ってましたとばかりににっこりと笑った。

「島根パビリオン。島根県や、松江市、出雲市といった自治体が共同で制作した、素晴らしい展示だよ。故郷の魅力を、君も再発見できるかもしれない。よし、行ってみよう!」

 ロゴスに背中を押され、二人はリンゴの香りに満ちた甘い世界を後にした。 次の目的地は、暁の心に最も近い場所だ。


 目の前が白く満たされ、次の瞬間、まるで雲が晴れるように雄大な建物が姿を現した。

「あ……」 暁は、思わず声を漏らした。


 そこに建っていたのは、故郷の象徴、出雲大社を思わせる美しい大社造のパビリオンだった。巨大な屋根が描く優美な曲線、巨大なしめ縄。その荘厳な佇まいに、神聖な空気さえ感じられた。


「ここが島根パビリオンだよ。」

「すごい……そのまんまだ……」


 二人が一歩足を踏み入れると、そこは薄暗い空間だった。しかし、歩き出すと、足元から光の川が生まれ、二人を先導するように流れ始めた。

「これは、島根の歴史を辿る『時の回廊』だね。」

 ロゴスが言うと、周囲の闇に、壮大な神話の世界が立体映像として浮かび上がった。スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治、オオクニヌシノミコトの国造り。幼い頃に絵本で読んだ出雲神話の世界が、圧倒的な臨場感で目の前に繰り広げられる。

 光の川に導かれて進むと、場面は石見銀山へと変わった。活気あふれる鉱山の喧騒、銀を掘る人々の熱気、港から世界へと銀が運ばれていく様子。かつて世界有数の銀山として栄えた故郷の歴史を、暁は肌で感じていた。

 やがて、美しい海と島の風景が二人を包む。流刑の地とされながらも、独自の文化を育んだ隠岐諸島。最後に、堂々たる松江城が目の前に現れ、その築城から国宝に至るまでの道のりが語られる。

 ただのパネル展示ではない。まるで自分がその時代にいるかのような、没入感あふれる体験。知っているはずの故郷の歴史が、これほどまでにドラマチックだったとは。暁の胸には、熱い誇りがこみ上げていた。


 歴史の回廊を抜けると、目の前に雄大な日本海の景色が広がった。潮の香りと、船のエンジン音がリアルに感じられる。

「すごい、浜田港だ!」 暁たちが立っていたのは、漁船の甲板の上だった。すぐそばで、漁師たちが活きのいい「のどぐろ」を次々と水揚げしていく。かと思えば、場面は宍道湖へと移り変わり、小舟の上から「しじみ」を獲る漁の様子を間近に見ることができた。

 次のエリアへ進むと、今度は粘土と炎の匂いがする、職人の工房のような空間になった。壁一面に、島根の風景を特徴づける、あの赤褐色の瓦――石州瓦が並べられている。

「この瓦、親戚の家の屋根もこれだったな。確か、寒さにすごく強いんだったか……」

 暁がおぼろげな記憶を口にすると、ロゴスが補足してくれた。

「その通り。非常に高い温度で焼くから、水分をほとんど吸わない。だから、冬の寒さで凍って割れることがないんだ。山陰の気候が生んだ知恵だね。」

 そして、次の部屋は最も意外なものだった。 空間全体が、まるでSF映画のように、無数の赤い光の線が走り抜けるデジタルな世界になっていたのだ。

「なんだ、ここ?」

「近年の島根を支える、ソフトウェア産業の展示さ」

 ロゴスが言うと、光の線が暁の目の前で集まり、美しいルビーの結晶を形作った。 「プログラミング言語『Ruby』だよ。開発者のまつもとゆきひろ氏が松江市に在住していることから、島根はITエンジニアの聖地の一つになっているんだ。」

 伝統的な漁業や工業だけでなく、最先端のIT産業まで。故郷の知らなかった一面を次々と見せつけられ、暁はただただ感心するばかりだった。


 最後の部屋は、壁も天井もない、無限の闇に包まれた空間だった。 すると、目の前の闇に、燃え盛る炎が映し出され、激しい太鼓の音が鳴り響く。絢爛豪華な衣装をまとった演者が、勇壮に舞う『石見神楽』だ。ヤマタノオロチの巨大な面が、唸り声を上げてすぐ目の前を通り過ぎていく。

 場面が変わると、今度は夜空が広がり、湖面を彩る『松江水郷祭』の巨大な花火が頭上で咲き誇る。その轟音は、腹の底まで震わせるほどの迫力だ。 夕暮れの海に浮かぶ『ローソク島』に、夕日が灯る奇跡のような光景。三瓶山の緑、宍道湖の藍、足立美術館の庭園……。

 故郷の、誇るべき風景が、次から次へと目の前に現れては消えていく。 そして、そのすべての映像を包み込むように、あの歌が流れ始めた。

 竹内まりやの、『いのちの歌』。

(……あぁ、だめだ。この曲は……)

 優しいメロディと、温かい歌詞が、暁の心の琴線に触れる。 大学に進学してから、何度この曲に励まされたことだろう。映像の中の風景の一つ一つに、家族や友人との他愛ない記憶が重なって、涙がじわりと滲んだ。


 映像が終わり、空間に静かな余韻が残る。

「……やっぱり、島根は、いいところだな。」

 少しだけ震えた声で、暁は呟いた。それは、心の底からの言葉だった。

「そうだね」 隣で静かに映像を見ていたロゴスが、穏やかに相槌を打つ。

「データ上も美しい場所だけど、君の『記憶』というフィルターを通すことで、それは世界でただ一つの、かけがえのない『故郷』になる。……実に興味深いね、人間の心というものは。」

 その言葉は、暁の感動を、そっと肯定してくれるようだった。 万博を巡り、世界中の凄いものをたくさん見てきた。それでも、いや、だからこそ、今、暁は自分の故郷を、心の底から誇らしく思っていた。


 故郷への誇りと愛情で胸がいっぱいになった暁は、ふと、純粋な疑問を口にした。

「ねえ、ロゴス。君がいる未来にも、島根県は……ちゃんと()()の?」


 その問いを聞いた瞬間、ロゴスの表情から、すっと笑みが消えた。彼は本当に申し訳なさそうに眉を下げて、首を横に振った。

「ごめんね、暁くん。申し訳ないけど、その未来については教えられないんだ。」

 彼は、諭すように静かな声で続けた。

「君が今まで見てきた展示はすべて、君が生きている2025年時点の情報に基づいて生成されている。これもパーソナライズの一部でね。君は特別なモニターだから、僕やこの万物博の存在自体は明かしているけれど……それ以外の未来については、明かさないよう固く禁じられているんだ。」


 その丁寧な説明が、逆に暁に食い下がるきっかけを与えてしまった。

「でも、さっき島根県が制作に関わってるって……」

「ごめんね」

 ロゴスは、暁の言葉を遮るように、しかし、なおも優しい声で繰り返した。

「でも、どうしても教えられないんだよ。」

 その声には、有無を言わさぬ絶対的な響きがあった。それは、ロゴス個人の意志というよりも、彼自身にも抗えない、巨大なルールの存在を感じさせた。 これ以上は、踏み込んではいけない。暁は直感的にそう悟った。


 二人の間に、少しだけ切ない沈黙が流れる。


 やがて、ロゴスが場の空気を変えるように、いつもの笑顔を作って見せた。

「さあ、気を取り直して! 次のエリア、『現象の空』に行ってみないかい? きっと、また新しい驚きが待っているよ。」

「……うん、行こう」 暁は頷いた。


 友人のようなロゴスが、どうしても明かせない秘密。その重さが、暁の心に新たな好奇心と、ほんの少しの不安を芽生えさせていた。


 二人の周りの景色が、空のように青く、そして透明に変わった。無数の光の扉が、まるで星々のように浮かんでいる。

「ここが『現象の空』エリアだよ。あらゆる歴史的事件、自然現象、社会現象がパビリオンになっている。さあ、君は何を体験したい?」

「現象……出来事……」 選択肢はまたしても無限だ。暁は少し考え、歴史上最も有名で、最も謎に包まれたあの事件の名を口にした。

「じゃあ……『本能寺の変』とか、見れるのか?」

「もちろん。最高のチョイスだね。行こう!」

 ロゴスが指を鳴らすと、一番近くにあった扉が開き、二人を吸い込んだ。


 次の瞬間、暁は冷たい夜気の中に立っていた。松明の炎が揺れ、甲冑の擦れる音が聞こえる。目の前を、武装した兵士たちが緊張した面持ちで通り過ぎていく。どうやら二人は、誰にも見えない、幽霊のような存在になっているらしい。


「ここは天正十年六月一日、夜。明智光秀の居城、亀山城だ。」

 ロゴスの解説を聞きながら、暁は歴史の当事者になったような興奮を覚えた。

 場面は一瞬で転換し、篠村八幡宮の社の中。重臣たちを前に、一人の武将が冷徹な声で言い放つ。


「――敵は、本能寺にあり」


 あの男が、明智光秀。彼の眼に宿る、静かだが狂気にも似た光に、暁は息を呑んだ。


 再び場面は変わり、桂川のほとり。兵士たちが、馬の蹄に布を巻き、草鞋を履き替え、鉄砲の火縄に火を灯していく。音を殺し、闇に紛れるための、周到な準備。言葉を発する者は誰一人おらず、死に向かう者たちの、あるいは歴史を覆す者たちの、異様な覚悟が満ちていた。

 そして、東の空が白み始めた頃。暁は、静寂に包まれた本能寺の門前に立っていた。 すぐ隣で、一人の足軽大将が、ギラギラとした目で寺を睨みつけ、刀を抜き放つ。


「かかれぇ! 我こそは明智が兵ぞ! 天下人の首、手柄次第ぞ!」


 地響きのような鬨の声と共に、一万三千の兵が、津波となって本能寺へと襲いかかった。暁は、歴史が動くそのすさまじいエネルギーの奔流に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 鬨の声に押し流されるように、暁たちの視点は本能寺の内部へと切り替わった。 すでに寺のあちこちから火の手が上がり、少数の近習たちが、押し寄せる大軍を相手に絶望的な戦いを繰り広げている。

 その混乱の只中に、一人の男が寝間着に近い姿のまま、悠然と姿を現した。 ――織田信長。 その佇まいは、謀反に遭った敗者ではなく、自らの城に招かれざる客が来たのをいぶかしむ、絶対的な支配者のそれだった。


「さては謀反か。如何なるものの企てぞ」

 冷静な問いに、近習の森蘭丸が答える。 「明智が者と見受け候!」

「……是非に及ばず」


 天下布武の夢が潰えたことへの諦めか、あるいは、裏切り者への侮蔑か。信長の口から漏れたその言葉には、不思議なほど感情がこもっていなかった。彼はただ、迫りくる運命を、事実として受け入れただけのように見えた。

 次の瞬間、信長は自ら弓を手に取り、正確無比な射撃で次々と敵兵を射抜いていく。やがて槍に持ち替え、鬼神のごとく戦うが、殺到する兵の刃がついに彼の右肘を捉えた。


「これまでか」


 短く呟くと、信長は奥へと下がる。


「女どもは()く逃れよ。苦しうない」


 逃げ惑う女官たちを一喝して避難させると、信長は燃え盛る炎が渦巻く御殿の最奥へと、ためらいなく姿を消した。

 暁は、まるで何かに引かれるように、その炎の中へと意識を向けた。 肌を焼くような熱波。息を詰まらせる煙の匂い。鉄の匂いと、人の叫び声。その地獄の中心で、信長は静かに座している。


 彼が腹に短刀を突き立てた、その瞬間。 世界は、暗転した。


 完全な闇と静寂の中、先ほどまでの信長の声だけが、朗々と響き渡る。


「――人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」


 その声が消えると、本当に、すべてが終わった。


 暗転した世界が、ゆっくりと明るさを取り戻していく。暁は、まだ心臓が激しく脈打っているのを感じていた。肌にはまだ炎の熱が、鼻の奥には煙の匂いが残っているかのようだ。

(すごい……。本当に、あの場所にいたみたいだった……)

 歴史の転換点に「臨場」するという、圧倒的な体験だった。

 周囲を見渡すと、そこは静かで落ち着いた展示室へと変わっていた。壁には、信長の死後、「三日天下」に終わった明智光秀の末路や、その後、覇権を握った豊臣秀吉、そして徳川家康へと続く歴史の流れが、分かりやすい年表や相関図で解説されている。

 激しい体験の後に、冷静な知識でそれを補完する。このパビリオンは、本当によくできている。 暁は、ふと、歴史上最大の謎と言われる疑問を口にした。

「なあ、ロゴス。結局、明智光秀が信長を討った本当の理由って、解明されてないんだよな?」

「そうだね」 ロゴスは静かに頷いた。

「怨恨説、野望説、黒幕説……様々な仮説が立てられているけれど、決定的な理由は見つかっていない。――君が生きている時代ではね。」

 その言葉の最後に含まれた、小さな棘に暁は気づいた。


「……ロゴスは、知ってるのか? 本当の理由を。」


 ロゴスは、肯定も否定もせず、ただ静かに暁を見つめ返した。

「その問いには、答えられない決まりなんだ。」

 そして、彼は少し楽しむかのように、こう続けた。

「それよりも、聞いてみたいんだ。歴史の渦のすぐそばまで行った、君の意見を。――暁くんは、どう思う?」


 明智光秀の謎めいた結末について、暁はまだ考え込んでいた。ロゴスが本当に未来を知っているとしたら……その重みに、胸騒ぎが止まらない。 そんな暁の様子を察したように、ロゴスが声をかけてきた。


「さて、暁くん。次はもう少し、心安らぐ『現象』を見てみないかい?」

 ロゴスが指差す先には、まばゆいばかりの光を放つ扉が、いくつも瞬いていた。 「『現象の空』エリアには、光、音、熱といった、あらゆる自然現象のパビリオンもあるんだ。次は理系的な知的好奇心も刺激してみようか。」

「光……」 暁は、ロゴスの提案に、少しだけ気分が晴れるのを感じた。

「いいね! じゃあ、光パビリオンに行きたい。」


 ロゴスが手を振ると、目の前の扉がゆっくりと開いていく。その向こう側に広がっていたのは、光の対極――すべてを飲み込むような、完全な闇だった。


 一歩足を踏み入れると、音も、匂いも、自分の体の輪郭さえも感じられない、絶対的な無に包まれる。本能的な恐怖が、暁の心をじわじわと侵食していくようだった。

 その時、闇の中からロゴスの静かな声が響いた。

「恐れることはないよ、暁くん。光が生まれる前、世界はこうだったんだ。」

 声に導かれるように顔を上げると、漆黒の空間に、小さな、しかし針で刺したように鋭い白い点が一つ、灯っていた。 それはゆっくりと輝きを増し、温かな光の波動を広げながら、こちらへ近づいてくる。

 やがて、それは燃え盛る巨大な恒星――太陽の姿となった。 肌を撫でる、生命を育むかのような優しい温もり。闇と寒さに強張っていた心が、ゆっくりと解きほぐされていく。


(ああ……なんて、温かい光なんだ……)


 暁がその神々しい光景に見とれていると、太陽のフレアがリボンのように伸び、空間に美しい文字を描いた。


【光 - The Light Pavilion-】


 闇の中から光が生まれる、世界の創生を体験したかのような壮大な導入に、暁の心は完全に鷲掴みにされていた。

「すごい導入だったな……。光って、温かいんだって改めて感じたよ。」

「そうだね。地球の生命にとって、太陽は特別な存在だからね。」

 暁とロゴスは、次のドーム状の部屋へと歩みを進めた。中央や壁際に椅子が並んでいる様子は、大阪万博のクウェート館を思い出させた。

 暁が座席に腰を下ろすと、ふっと照明が落ち、ドーム全体が宇宙空間へと変わった。目の前に、青く美しい地球が浮かんでいる。

「さあ、光の旅に出かけよう。」

 ロゴスの声と共に、視界は地球へと急降下していく。

 最初に降り立ったのは、灼熱のサハラ砂漠。肌を焼くような熱波と、乾いた砂の匂いがする。遠くで、喉が渇ききった旅人が、湖のような幻――蜃気楼に向かってよろよろと歩いていた。光が熱で歪み、見せる偽りの希望。その光景は、残酷なほどに美しかった。


 次の瞬間、熱気は氷点下の冷気へと変わる。カナダ北部の、凍てつく大地だ。吐く息が白い。顔を上げると、夜空一面に、緑やピンクの光のカーテンが生き物のように揺らめいていた。オーロラだ。

「きれいだ……。いつか、本物を見に行きたいな……」

 暁は、その神々しいまでの光の舞に、心を奪われた。


 今度は一転、深い海の底へ。ひんやりとした水圧を感じる静寂の中、無数の発光クラゲが、青白い光を点滅させながら漂っている。太陽の光が全く届かない暗黒の世界で、生命自らが放つ光。その幽玄な美しさに、時が経つのも忘れて見入ってしまう。


 最後の旅は、雨上がりの日本の夜、石垣島。むっとする湿った土の匂いと、虫の声が聞こえる。月明かりに照らされた夜空に、うっすらと、ほとんど白に近い光のアーチがかかっていた。


「もしかして、夜の虹……!?」


 暁の問いに、ロゴスは静かに頷く。七色ではない、月の光だけが創り出す、幻のような虹。その儚い美しさに、暁は胸が締め付けられるようだった。


 やがて、旅は終わり、ドームに穏やかな照明が戻る。

「……きれいだったな。」 暁は、深い感動のため息と共に呟いた。

「ただの光が、場所や条件によって、こんなにも違う顔を見せるなんて。」

「そうなんだ」とロゴスが答える。

「光は、それを受け取る世界や、見る者の心によって、無限にその姿を変える。それこそが、光という現象の、最も美しい本質なのかもしれないね。」

「なるほどな。光は、見る者の心によって姿を変える……か。そうかもしれないな。」


 ロゴスとの対話の余韻に浸りながら、暁は次の部屋へと進んだ。 そこは、先ほどまでの自然の美とは打って変わって、白いタイルで敷き詰められた、クリーンルームのような人工的な空間だった。人類が「光」を技術として利用してきた、その成果が展示されている。

 暁は、ホログラムのPerfumeが踊る展示に足を止めた。

「これ、IOWNの技術だ!」 パネルに手を触れると、指先に微かな、しかし鮮明な振動が伝わってくる。それは、画面の中で踊る彼女たちの、ステージを踏むステップと完璧に同期していた。


(視覚や聴覚だけじゃない。触覚まで伝える……。これが、超低遅延・大容量通信の世界か)


 隣のブースには、フィルムのように薄くて曲げられる「ペロブスカイト太陽電池」が展示されている。シミュレーターで、それを建物の壁や衣服に貼り付けると、どれだけの電力が生まれるかが瞬時に表示された。 光にまつわる最先端の技術。その一つ一つが、暁の未来へのワクワク感を掻き立てる。

「いやあ、面白かった! 自然の芸術から最先端の科学まで……まさに万博の正統進化って感じのパビリオンだったよ。」

「そうだね。楽しんでもらえたようで何よりだ。」 ロゴスは満足げに頷くと、少しだけ真面目な顔つきになった。


「それじゃあ、そろそろ最後のエリアに行ってみようか。」

「うん。最後はなんだっけ?」

「『概念の森』だよ。」 ロゴスは、未知の世界へと誘うように言った。

「物質や現象といった、具体的な形あるものから離れる。少し難しい内容も多いけど、ここまで旅をしてきた君なら、きっと楽しめるはずさ。」

「わかった。行ってみよう。」 暁は、ロゴスの信頼に満ちた言葉に、少しだけ胸を張って答えた。


 光の技術の世界から一歩踏み出すと、空気ががらりと変わった。ひんやりと湿った土の匂い、幾重にも重なる葉が風にそよぐ音。目の前には、木漏れ日がまだらに差し込む、うっそうと茂った森が広がっていた。


「森……? ロゴス、『具体から離れる』って言ってたじゃないか。」

 目の前に広がる、あまりにも具体的で生命力にあふれた光景に、暁は困惑して尋ねた

 ロゴスは、まるで深呼吸を楽しむかのように、森の空気を吸い込んでから微笑んだ。

「これは、森の形をした『比喩』なんだ。見てごらん。」

 彼が指差す一本の巨木の幹には、よく見ると古代ギリシャの哲学者の名前が、年輪のように刻まれている。枝には様々な学派の名前が、そして無数の葉の一枚一枚には、異なる思想家の言葉が記されていた。

「この森そのものが、人類の思考のネットワークなんだよ。一本一本の木が、哲学、科学、芸術といった大きな概念。枝が流派で、葉が個々の理論。そして、そのすべてが、歴史と論理という根で繋がっている。」

「概念の……森……」

「そういうこと。さあ、君はどの『概念』に興味がある?」

 とてつもないスケールの話に圧倒されながら、暁は、あらゆる学問の基礎であり、最も純粋な概念の一つを口にした。


「……数学、とかはどうかな。」

「いいね。数学は、この森の中でも最も古く、最も美しい木の一つだ。」

 ロゴスは頷くと、仄暗く、どこか神秘的な森の奥深くへと、暁を導くように歩き始めた。

 森の奥深く、ひときわ巨大な、まるで世界樹のような古木の根元に、そのパビリオンはあった。入り口は、木の幹に自然に開いたうろのようになっている。

「さあ、入ろう。論理と数式が支配する、美しい世界へ。」

 ロゴスに誘われ足を踏み入れると、そこは闇と光だけで構成された、無限に広い空間だった。目の前には、一段、また一段と、光る板が宙に浮かび、天へと続く階段を形作っている。

「これは……?」

「『素数階段』だよ。2、3、5、7、11……素数の段にしか、ステップは現れない。」

 暁は、一段一段、慎重に光の階段を上り始めた。最初は順調だが、数が大きくなるにつれて、次のステップまでの距離が不規則に、そして長くなっていく。まるで、気まぐれな神の道標を辿っているかのようだ。 ふと、階段の途中の闇に、巨大な蝉のオブジェが張り付いているのが見えた。その蝉は、水晶のように透き通っている。

「13年と17年。彼らが地上に現れる周期もまた、素数だ。捕食者から逃れるための、生命の知恵だと言われている。素数は、数学の世界だけでなく、僕らの世界にも隠れているんだ。」

 その神秘性に、暁はただただ感嘆する。


 25段の階段を上ると、目の前に豪華なホテルのエントランスが現れた。

「支配人、お待ちしておりました!」

 ベルボーイ姿のAIに迎えられ、暁はきょとんとする。

「ここは『無限ホテル・シミュレーター』。現在、無限の客室すべてが満室です。しかし、たった今、無限人の新規のお客様が到着されました。さあ、支配人、お客様全員をホテルにお泊めください!」

 モニターの前に立った暁は、パズルゲームのように頭を悩ませた。


(無限の客室が、無限の客で埋まっている。そこに、さらに無限の客……? どうすれば……?)


 彼はシミュレーターを操作し、様々な手を試すが、うまくいかない。しかし、客室に1,2,3……と番号が振られているのを見ているうちに、ふと閃いた。

「そうだ!……今、1号室にいるお客さんを2号室へ、2号室の人を4号室へ、3号室の人を6号室へ……つまり、n号室のお客さんを、2n号室へ移動させるんだ!」


 暁がその操作を行うと、モニター上で、既存の客たちが一斉に偶数番号の部屋へと移動していく。その結果、1,3,5,7……と、無限にある全ての奇数番号の部屋が、見事に空室になった。

「よし! 新規のお客様は、空いた奇数番号のお部屋へどうぞ!」 ミッションクリアのファンファーレが、高らかに鳴り響いた。


 奇妙な無限の世界に頭を捻った後、二人が次に訪れたのは、不思議なオブジェが並ぶ、静かなギャラリーだった。

 中央には、帯を180度ひねって繋げただけの、単純な輪がゆっくりと回転している。『メビウスの輪』だ。 暁が光る蟻のホログラムを輪の上に走らせると、その蟻は裏にも表にも行かず、ただ一つの面を永遠に歩き続けた。

「表しかない世界……。不思議な形だな。」

 そして、その隣には、さらに奇妙なガラス細工が置かれていた。『クラインの壺』だ。 それは、注ぎ口が側面を貫通して、内部と繋がっているという、ありえない構造をしている。

「ロゴス、これって……水を入れたら、どうなるんだ?」

「いい質問だね。でも、残念ながらこの壺に水を入れることはできない。なぜなら、これは本当のクラインの壺ではないからさ」

「え?」

「本当のクラインの壺は、4次元空間にしか存在できないんだ。内側と外側の区別がない、究極の容器だよ。君が見ているこれは、4次元の存在を、無理やり僕たちの3次元空間に投影した『影』のようなものなんだ」

 4次元。突拍子もない言葉だったが、もはやこの万物博では何が起きても不思議ではないな、と暁はすぐに思い直した。


 ギャラリーを出ると、今度は洞窟のような場所に出た。ザーッという音が響き渡り、目の前には巨大な滝が流れ落ちている。だが、それは水ではない。無数の光の玉だ。

「『確率の滝』へようこそ」 光の玉は、滝の中ほどにある無数の障害物にぶつかり、左右ランダムに弾かれながら落ちていく。しかし、滝壺に溜まった光の分布を見て、暁は息を呑んだ。中央が最も高く、左右対称に、非常になだらかな美しい曲線を描いている。

「一つ一つの動きは完全にランダムでも、その集合体は、美しい『正規分布』という秩序を描き出す。これが統計学の基本だよ。混沌の中から、法則を見つけ出すんだ。」

 そして、最後の部屋。 そこは、静寂と荘厳さに満ちた、神殿だった。 中央に7つの巨大な石碑が円形に並び、それぞれに、人類がまだ解き明かせていない数学の『ミレニアム賞問題』が、美しい光の文字で刻まれている。

「リーマン予想……ヤン–ミルズ方程式……」 素数階段で感じた、あの不規則さの根源。宇宙の法則を記述するかもしれない方程式。人類最高の知性が、今まさに挑んでいる問題。その圧倒的な知の壁を前にして、暁は自分の存在がひどくちっぽけなものに感じられた。


 しばらくその荘厳な雰囲気に圧倒されていた暁だったが、やがてふっと息をつくと、少し照れくさそうにロゴスへ振り返った。

「ちょっと難しかったけど、楽しかった。特に確率の滝には驚いたな。ランダムなはずなのに、綺麗な形になるなんて。」

「そうだね。君がこのパビリオンを楽しんでくれて、僕も嬉しいよ。」

 ロゴスは満足げに微笑むと、特別な舞台へ誘うように言った。

「それじゃあ、最後にとっておきの場所に案内するよ。――ついてきて。」


 ロゴスはそう言うと、駆けた。いや、滑るように、物理法則を無視したスピードで闇の奥へと進んでいく。

「待ってくれ、ロゴス! 速すぎる!」

 暁の声も虚しく、ロゴスの姿はすぐに闇に溶けて見えなくなった。


 気づけば、あたりは完全な無。上下左右の感覚さえ失われる、絶対的な闇だった。 ふと、背後に気配を感じて振り返る。そこには、天の川のように、無数の光の点が蠢いていた。

「ごめんごめん、脅かすつもりはなかったんだ。」

 声だけが、すぐそばから聞こえる。

「ここが、万物博の中心であり全体。()()()()()()()だよ。それじゃあ、本当の世界の姿を、君に()()してみせよう。」

「えっ、翻訳って、何を?」

 暁の問いを合図にしたかのように、無数の光の点が、一斉にこちらへ向かって飛来してきた。 それは、宇宙の星々ではなかった。一つ一つの光の中心に、見たこともない言葉が宿っている。


 სიმღერა()uisce()አንበሳ(ライオン)Гэр()……


 あらゆる言語の「単語」たち。それらが流れ星のように暁の体をすり抜けていく。その瞬間、暁は感じた。「uisce」という単語が通り過ぎる時に、肌にひやりとした感覚が走り、「አንበሳ」という単語が通り過ぎる時に、心の奥で、百獣の王の咆哮が聞こえた気がした。

 やがて、単語と単語の間を、七色の線が結び始め、宇宙全体が巨大な神経網のように繋がっていく。

「まぶしい……!」

「素晴らしいだろう? これが()()()()()()()さ。それじゃあ、次元を一段階上げてみよう」

「ロゴス!? どこにいるんだ!」

「大丈夫。僕はいつだって、君の隣にいるよ。」


 ロゴスの声が聞こえた直後、世界が、砕けた。 これまで見てきたすべてのパビリオンの情報、いや、人類が言語化してきたありとあらゆる概念、その香り、味、手触り、温度、それに伴う感情。そのすべてが、暴力的なまでの『情報』の濁流となって、暁の脳内へと流れ込んできた。

「うわあああああああ!! なんだ、これ!?」

 視界がぐにゃりと歪む。目の前にあるはずのリンゴを、同時に、正面から、裏から、上から、そして皮の内側から()()いる。


「落ち着いて、暁くん。君の脳が、世界の本当の姿を認識しようとしているだけだ。」 ロゴスの声が、唯一の灯火だった。

「――君は今、四次元空間に来たんだよ。」

「――えっ」


「これが……4次元……」

 情報の濁流が引いた後も、暁の脳はまだ世界の新しい姿に順応しようと悲鳴を上げていた。周りには、無数の「単語」たちが、穏やかな星々のように輝いている。

「初めての体験だから、混乱するのは当然さ。心が落ち着いたら、この世界の種明かしをしてあげよう。」

 ロゴスの声は、不思議と心を落ち着かせる響きを持っていた。


 しばらく、暁はその美しい「単語の宇宙」を漂うように眺めていた。やがて、彼は深呼吸をして、頷いた。

「……ロゴス。もう、大丈夫だ。落ち着いたよ。」

「よかった」 ロゴスは微笑むと、壮大な講義を始めるように、ゆっくりと語り出した。

「それじゃあ、万物博覧会について、そのすべてを話すね。」


「万物博覧会の正体は、大規模言語モデル――その究極なんだ。」

 ロゴスがそう言うと、周りの星々が一斉に、呼応するように強く輝いた。

「『究極』というのは、二つの意味がある。一つは、実現可能な全言語の、全単語を収めているということ。そしてもう一つは、言語を中心として、音、香り、味、感情といった、全ての()()()()()を収めているということさ。」

「究極の……大規模言語モデル……」

 暁は、目の前に広がる、途方もない知性の宇宙を見渡しながら、呆然と繰り返した。

「そう」

 ロゴスは、一つの単語の星――『リンゴ』にそっと手を触れる。すると、暁の鼻腔に、あのパビリオンで感じた甘い香りがふわりと漂った。

「そして、ワールド生成AIが、これらの『単語』を、君に最適化された『パビリオン』という形で表現する。僕はこのプロセスを翻訳と呼んでいる。そうして翻訳された無数のパビリオンの集合体、それこそが、君が今まで旅してきた万物博覧会の正体なのさ。」

 ロゴスは、まるで暁の心の中をすべて見透かしているかのように、穏やかに言った。

「君は二つのことが気になっていた。僕の時代に『島根県』は存在するのか。そして、明智光秀が信長を討った動機は何か。そうだね?」

 ドキリとしながらも、暁は頷く。

「そういった、個別具体的で、君にとって未来に分かる事実には、残念ながら答えられない。でも、『島根県がパビリオン制作に関わっている』というのがどういうことか、その仕組みなら教えてあげられるよ。」


 ロゴスは、周りに浮かぶ無数の単語の星の一つを指差した。

「まず、ここにある全ての単語は、単なる記号じゃない。一つ一つが()()()()()()()として、このモデルの中に存在しているんだ。……少し難しいかな? そうだね、それぞれが個性や価値観を持った、擬人化された存在だと考えると分かりやすいかもしれない。」

「デジタルツイン……」 暁は、大阪万博で見たnull2を思い出していた。

「例えば、『リンゴ』のような一般名詞。そのデジタルツインを元にパビリオンを創る時、農家の視点、消費者の視点、歴史家の視点……どの立場をどれくらい重視するかで、対立しかねないんだ。その調整はとても複雑だから、僕たち万博協会が一括して翻訳しているんだ。」

「なるほど……だからリンゴパビリオンは、歴史も、品種も、料理も、色々あったのか。」

「その通り」 ロゴスは頷くと、今度はひときわ強く輝く、別の単語の星に手をかざした。そこにはくっきりと『島根県』と書かれている。

「一方、『島根県』のような固有名詞には、初めから固有の視点、つまりアイデンティティが存在する。だから、パビリオンの制作は、主にこの()()()()()()()()()()()自身が行っているんだ」


 そこで、暁ははっとした。点と点が、線で繋がる。

「……そっか。僕が話していた島根県と、君が話していた『島根県』は、似ているようで違うものだったんだ。」

「謎は解けたかい?」

 ロゴスの問いに、暁はゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。

「うん。……なんとなく、わかった気がする。」

「それじゃあ最後に、この()()()()()()()の本当の姿を見せてあげよう。」

 ロゴスは、まるで宇宙の指揮者のように、穏やかに言った。

「君が見ているこの無数の七色の線は、単語同士の関係性、つまり意味の繋がりを示している。大規模言語モデルで言えば、『単語の遷移確率』にあたるものだ。これを認識してもらうために、君には今、4次元空間を体験してもらっている。」

 ロゴスは、そこで言葉を切ると、少しだけ寂しそうに続けた。

「でも、実はこれでもまだ、旅の途中なんだ。これはまだ、本当の『万物』じゃない。」

「え……?」

「『万物』を識しるためには、もっと次元を上げなくちゃいけない。七色の線は時々刻々と変化していくから、まずは時間を俯瞰しよう。君たちが普段認識している時間は、過去から未来へ流れる一方通行の『1次元』だ。それを、『2次元』へと拡張するよ。」

 ロゴスがそう宣言した瞬間、世界が、”鳴った”。 周りに浮かぶ単語の星々を繋いでいた七色の線が、目にも留まらぬ速さで明滅し、色を変え、繋がりを変えていく。いや、違う。


(……終わったのか? 始まってもいないのか?)


 時間の感覚が、完全に崩壊していた。先ほどまで見ていた変化の「過程」が認識できない。結果だけが、そこにある。ここは、通常の時間が流れる世界ではないのだ。

「僕たちのいる6次元時空(4次元空間+2次元時間)の中では、内と外、そして過去と未来が溶け合って、全てを俯瞰できる。」

 ロゴスの声が、時間の概念が消えた世界で、唯一の道標だった。

「さあ、暁くん。僕たちの旅は、ここからが本番だ。」

「ここに見えるのは、暁君という存在に向けて翻訳された『万物』だ。でも当然、他の存在に向けて翻訳された、無数の『万物』も存在している。」

 ロゴスは、こともなげに言った。


「それらも全部ひっくるめて、本当の『万物』だとは思わないかい? さあ、すべての6次元時空を、俯瞰しよう!」


 その言葉は、世界の引き金だった。 暁の視界が、ぐにゃりと歪む。いや、彼自身が、内側から無限に折り畳まれ、引き伸ばされていくような、ありえない感覚。


 暁はついに、7次元時空へと放り出された。


 内と外が溶け合う。過去と未来が溶け合う。そして――自分と、他者が、溶け合っていく。

 彼の個人的な記憶は、無数の他者の記憶の奔流に混ざり、個別の意味を失っていく。彼自身の輪郭が、思考の海の中に、曖昧に溶けていく。 自分を含めた「すべて」がここにあるという事実が、彼という「個」の存在を、薄めていった。


「この7次元時空さえもまた、暁くんに向けて翻訳されたものに過ぎない。」 もはや声ではなく、宇宙の法則そのもののように、ロゴスの言葉が響く。

「本当の万物パビリオンを体験するには、無限に次元を上げ続けるしかないんだ。だから――ここからは、一気に加速するよ。」


 8次元。9次元。15次元。100次元。


 もはや、次元の数を認識することに意味はなかった。 無数の感覚、無数の知識、無数の感情は、やがて一つの巨大な意識のうねりとなり、彼を飲み込んでいく。

 あらゆる存在は、ただ一つの圧倒的な輝きへと収束していく。 彼という個の意識は、無限の光の中に、静かに拡散した。



『――最後に、暁くんに問おう。』



 声が、思考の宇宙に響く。



『もし、この地球の続きにこんな未来が実現するとしたら。君は、君自身の未来を、どうデザインする?』



 その声を聴いた、次の瞬間。

 ジリリリリリリリッ!

 けたたましいアラームの音が、鼓膜を突き刺した。 暁は、ベッドから跳ね起きた。じっとりと汗を吸ったTシャツが、肌に張り付いて気持ち悪い。

「……夢、か?」

 そこは、見慣れた自分の部屋だった。散らかった机、読みかけの本。さっきまでいたはずの、単語が星のように輝く宇宙ではない。 とりあえず、鳴り響くアラームを止めて、時間を確認する。スマートフォンの画面が示すのは午前6時30分。

 朝だと認識すると同時に、猛烈な空腹感に襲われた。


(あれ、そういえば昨日、夕飯食べずに寝落ちしたんだっけ……)


 顔を洗い、歯を磨き、トーストと目玉焼きの、いつも通りの朝食を口に運ぶ。その、あまりにも普通で、当たり前の日常の中で、暁はぼんやりと考えていた。

「すごい夢だったな……。何次元、だっけ……?」

 無限に続く次元の階梯。宇宙の法則そのもののような、ロゴスの声。あまりに壮大すぎた体験は、朝の光の中では、早くも輪郭が曖昧になりかけている。 だが、あの最後の問いだけは、やけに鮮明に耳に残っていた。


「――未来の、デザイン、か」


 暁は、食事を終え、着替えを済ませると、玄関の扉に手をかける。 ドアを開くと、強い朝日が差し込んできた。

 眩しさに目を細めながら、暁は、新しい一日の中へと、一歩を踏み出した。

 ただ、昇り始めた太陽が、まるで新しい世界の幕開けのように、暁の行く末を、明るく照らしていた。

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