魔王、「悪魔の感情」と戦う
月曜の朝。
執務室の窓から差し込む光は穏やかだったが、魔王吹雪の心は、厚い暗雲に覆われていた。
繰り返す腰の痛み。そして、足にまで広がる痺れ。彼の計画は、そのすべてが、この肉体の反乱の前に脆くも崩れ去っていた。
「…どうやら、我が人生は、転換期を迎えたようです」
吹雪は、傍らで静かに佇む竜の健太に、諦観をにじませた声で語りかけた。
「人生の折り返し地点で、我が肉体は、すでに大きな損耗を抱えてしまった。もはや、運動で肉体を改造するという戦術は、我が軍には使えません。試みれば、この身が砕け散るだけです」
彼は、自らがよすがとしてきたものへの、信頼の揺らぎを口にした。
「書く人生を歩みたかった。しかし、我は書くのが好きなだけで、得意ではなかった。数時間も書くことはできぬ、ただの趣味だったのです。ウォーキングも、また然り。これこそが我が人生、と思っていたものが、実は人生のほんの隙間を埋める、ささやかな暇つぶしに過ぎなかった」
その気づきは、彼の足元を大きく揺るがした。
日誌と散策。
その二つを取り去れば、自分の人生に一体何が残るのか。
「じっと座していると、腰が痛む。だから、外に出るしかない。しかし、外に出ても、すぐに疲れて休息が必要になる。我が人生の選択肢は、すでに、これほどまでに狭まっているのです」
健太は、その苦悩に満ちた告白を、ただ静かに聞いていた。
「このままでは、駄目だ」
と吹雪は続けた。
「休日を無為に過ごし、腰を痛める。その悪循環を断ち切らねば。たとえ『休日勿体ない病』に罹ろうとも、午前11時までは『捨てた時間』と割り切る。そんな小手先の策を弄しても、結局は、あの最強の敵に敗北するのです」
「最強の敵?」
「ええ。我が心に棲まう、『めんどくさい』という名の、悪魔の感情です」
その悪魔は、休日になると現れ、彼をベッドへと引きずり込む。
そして、動かぬ身体は、また新たな痛みを呼ぶ。
「…我が精神力だけでは、もはやこの悪魔には勝てません。だから、他人を巻き込むしかないのです」
吹雪は、最後の賭けのように、自らの行動を打ち明けた。
「先日、『ボランティアエキストラ』なるものに、我が名を登録しました。王たる身が、人間の作る物語の、背景となる。滑稽やもしれませんが、それもまた、我が魂をベッドから引き剥がすための、強力な『外的要因』となりえましょう」
健太は、その言葉に、初めてわずかに目を見開いた。
「お前は、己の弱さを認めたのだな、吹雪」
「…はい」
「そして、他者に助けを求めることを、選んだ。それは、孤高の王が最も苦手とすることだ。だが、それこそが、真の強さへの第一歩かもしれん」
その時、執務室のドアがそっと開き、アリアが顔をのぞかせた。
「ふぶきん、何してるの? 難しい顔して」
「アリアか。今、我が魂の、最も根深い弱さについて、語っていたところだ」
アリアは、その言葉の意味を理解することなく、ただ、吹雪の辛そうな顔を見て、何かを察したようだった。彼女は、部屋の隅から、古びたボードゲームの箱を、よいしょ、と運んできた。
「ふぶきん。約束、したよね? 今度、このゲームで遊ぶって」
約束。
その一言が、吹雪の心に突き刺さった。
そうだ。自分は、アリアと、そんな些細な約束を交わしていた。
悪魔の感情が、囁く。
「面倒だ。休ませてくれ」と。
だが、アリアの、まっすぐな瞳が、それよりも強く、彼に語りかけていた。
吹雪は、しばしの沈黙の後、ふっと息を吐き、そして、本当に小さな声で言った。
「…ああ。そうだったな。約束は、約束だ」
彼は、痛む腰をゆっくりと上げ、玉座から立ち上がった。
壮大な人生計画も、新たな趣味の模索も、今は、どうでもよかった。
ただ、目の前にいる、たった一人の友との、ささやかな約束を果たす。
その小さな一歩が、今、彼にできる、最も偉大な戦いなのだと、吹雪は静かに悟った。
悪魔の感情との戦いは、まだ始まったばかりだ。
だが、今日の彼は、少なくとも、一人ではなかった。




